永遠の硝子箱

(転)魂の欠けら


 

 白い壁が特徴的な部屋に規則的な電子音が響いていた。部屋に詰めている人は皆、ダークグリーンの服に身を固めている。手にはゴム手袋をはめ、顔には服と同じ色のマスクと透明のゴーグルをかけていた。そして、物々しい雰囲気がその狭い空間を支配していた。
「血圧降下、上が百を切りました」
「輸血は全開なのか?」篠崎は鋭い視線で看護婦を見た。
「全開です」看護婦も真顔で答える。
 ここは深夜の手術室。今、榊原玲奈の緊急手術が行われようとしているのだ。時間的に言えば弘が病院に駆け込んできてから大して時は経過していない。全ての準備が整って、玲奈も手術用の衣服を身に付けさせられている。こちらは弘の精神的な手法とは違った医学的、物質的な手法によるものだ。弘が成功したとしても篠崎が失敗すれば意味がない。その逆もまた然りだ。
 だが、篠崎はそのようなことは夢想だにしていないだろう。
「メス」
 篠崎の横で助手を務める看護婦が彼に研ぎ澄まされた鋭利なメスを手渡す。刃先が照明に煌めく。篠崎の執刀により術式が始まる。彼の手にする銀色に不気味に輝くメスが玲奈の白い肌を標的にする。その白い肌には過去の手術痕が幾つもあった。それは篠崎によるものではなく、前任の医師によるものだ。篠崎はそれを避けるようにメスの着地点を決める。
 緊張の一瞬である。篠崎も今までに様々な経験を踏んできたとはいえ、救急救命センターにいたわけでもないので一刻を争う事態には数多く遭遇したことはない。一回きりの判断ミスでも玲奈にとっても篠崎にとっても致命傷になりかねない。玲奈の容体は最悪なのだ。
(これだけの回数、手術をしておきながら何故、完治は不可能だった?)
 それは医師としての純然たる疑問だった。進行の速い若年性のガンでもなく、転移をするはずもない病だというのに。篠崎はそのことが腑に落ちないのだった。玲奈の前担当医の残したカルテを見てもいまいち納得ができなかった。篠崎が自ら執刀するにはそこら辺の意味があった。自分自身で玲奈の病状を的確に把握したい。一種の好奇心でもある。医師としては甚だ不適格かもしれないが篠崎はそう言った考えをもち、それが彼を優秀にしていることも疑いようのないことだった。
 メスは肌に降ろされて傷からは赤い血がにじみだしていた。腹を開けるということは慎重を要することだ。特にこのような危険な状況の場合は。篠崎に握られたメスは玲奈の白い腹を筋肉の繊維に添って裂いてゆく。後の生活に障害が出ないようにするためだ。規則正しい電子音と人工呼吸器の無機的な音がそれほど広くもない手術室に響く。
 篠崎の額からは汗が噴きだしていた。
 それから、腹膜を突き抜けたとき篠崎は言葉を失った。そこは血の海と表現するのに似付かわしい状態だった。まさに、血の海という言葉はこのために存在したのではないかと疑うほどだ。腸管から抜け出ることの出来なかった血液が腸を破ったのに違いない。それにしても、大量の血液がありながら腹膜を破らなかったのは奇跡としか言い様がない。どちらにしても空気に触れた血液は酸化し凝固を始めていた。固まってしまうと取り除くのに厄介であるし、腸を傷つけてしまう恐れもある。
「先生どうかしましたか?」助手が篠崎に問う。彼は今夜の当直医だった。
「いや……。吸引を始めろ」
 篠崎は動揺していた。このままではたった今にでも玲奈の命は風前の灯だ。弘との約束を果たすことは非常に難しくなりそうな気配だった。しかし、篠崎は目先の出来事だけに囚われたりはしない心構えは持っているつもりだった。前任の医師が残した記録によれば手術の度にこのようだったらしい。原因は不明とのみ記され、彼も相当な苦悩を強いられたらしい。そして、定年を間近に控えた彼は積極的な研究よりも己の名誉を重んじ玲奈から手を引く。彼は人を殺したというレッテルを貼られることだけを恐れて玲奈の治療にあったていたらしい。これが篠崎の見解だ。
(原因不明……か)
 その結論が職務を放棄した医師のものだとしても第一回目の手術の際に記録されたそれを無視することは出来ない。篠崎は今初めて、玲奈の体の中を見ようとしている。先駆者の意見には耳を傾けなければならない。原因不明ならばその原因不明たる理由を探るために。

 玲奈は弘の意見を受け入れることを完全に拒絶していた。一体何が玲奈をそこまで頑なにさせるのか弘には判らなかった。しかし、拒否するのにはそれだけの理由があるのだろう。何とかしてそれを聞き出そうとするのだが、なかなか上手くいかない。玲奈がこんなに頑固だったかと時折不思議にも思う。だが、そんなことには構っていられない。
「理由はない? このまま放っておいたら死んでしまうというのに理由はないのか? 俺は玲奈のためを思ってここまで来たんだ。俺と一緒に向こうに帰ろう」
『弘が私のためを思って言ってくれていることは判ります。しかし、私は弘のためを思って言っているのです。何も聞かないでここから帰って下さい。それが弘のためです』
「何がどう俺のためなんだ」
 意地悪で言っているわけでもないのだが、つい口調が厳しくなる。
〈貴様の時間が少なくなるということだ。それを防ぐために玲奈は動く〉
『あの二つの事象の意味にまだ気が付いてくれないのですか? 弘の鈍感さも相変わらずですね。そんなことでは恋人も出来ませんよ』そう言ってしばらく間がある。『気が付かなくても構わないと思ったけれど、やっぱり気が付いて欲しかったな。そうしたらここで不毛な論争をしなくても済んだのに。この期に及んで兄妹ゲンカなんて淋しいなぁ』
 そよ風に吹かれたような気分に弘はなった。他人行儀な玲奈との会話をした後で、玲奈の本心を垣間見たような感覚がしたのだ。それが更に弘の欲求を強くする。このままではいけない。このままでは玲奈が戻ってきてくれないと不安になる。
 と、何かの陰がどこからともなくぴょんと現れた。それは小さな玲奈だった。一番最初に見たときとは明らかに違っていて、朗らかで明るい顔をしていた。弘がここまで来てくれたことに安心しているようでもある。彼女の望んだことがそうであるのならば弘も来た甲斐があるというものだ。その玲奈は跳ねながら弘の近くまで寄ってきて、弘の目をまじまじと見詰めた。それから、突然思い出したかのように発言した。
『お兄ちゃん、玲奈が下で寝ているよ。篠崎先生が汗をかきながら玲奈の体を開けているの』
 小さな玲奈が無邪気に言った。限りなく優しい笑みを浮かべて小さな玲奈は弘の瞳を見詰めていた。弘を見詰める瞳には一点の曇りすらもない。純粋。人里から遠く秘境とでも呼ばれそうな山奥にある名も知らぬ湖の水ように澄んだ瞳。それを失いたくはない。
『玲奈、いい娘だから奥の方に行ってらっしゃい。私はお兄さんと大事なお話しがあるのよ』
 玲奈の顔は慈しみの表情に満ちていた。と言うよりは哀れみともとれる表情だ。
 小さな玲奈は小さく頷くとまたどこかに消えていった。
『……手術が始まったようですね。篠崎先生がいくら頑張っても結果は変わらないのに』
 弘はおかしな気持ちになった。手術が今始まったということは弘が様々な体験をしてきた時間はほんの数分から数十分しかなかったことになる。時間的な概念が通用しないと判っていてもなかなか納得できるものではない。それに手術が始まったとは一体どこで? 弘が玲奈の“内なる世界”にいるならば手術という物質的な所業はこの外側で行われることになるのだろうが、これもまた嫌な印象を受ける。自分の外側で何が起きているか判らないのも不安なものだ。
『大丈夫ですよ。ここは肉体的なこととは無関係なところですから。メスとかが天井を突き破ってくることなんて絶対にありませんから』
 クスリと玲奈は笑った。その仕草の一つ一つが弘の知っている玲奈だった。
「死神の言ったことは本当なんだな。俺も何だか玲奈の内側にいることを信じたくなかったのかもしれない。科学的にありえないからといって現実にはないとは限らないんだよね。科学は現象を見詰める一つの手段に過ぎないんだ。でも、そんなことはどうでもいいことなんだ。俺がここにいるってだけで十分な証拠だ。だが、俺はどこにいようと諦めないぞ」
『強情ですね。弘らしいですけど』
 玲奈は何だか楽しそうに先程からクスクスと笑っている。弘がこの場に現れたときは全てを追い返すような視線で弘を見詰めていたのに、どういう心変わりがあったのだろうか。弘にはちんぷんかんぷんである。そう、ただここにいる玲奈は心から楽しそうなのだ。
 それは何故なのだろうか。弘は余計なことにまで考えをのばしてみた。恐らく玲奈は、当然のことかもしれないが、こんな心の深淵で人の心と触れ合ったことは初めてなのだろう。それで限りなく嬉しいのだろう。仏頂面をしていた玲奈が顔を綻ばせて喜んでいると言う状況に弘は初めて遭遇した。これは驚きである。弘はしばらく言葉を失っていた。
『ごめんなさいね。弘がこんなに近くいるのは初めての体験だから。何だか、気が高ぶっているみたい。丁寧に喋るの疲れちゃったから普通に喋るね。折角、弘がこんなとこまで来たから、私は高尚な精神をもっているんだぞってアピールしてやろうと思ったんだけど。弘があまりに食い下がるもんだから、根負けしちゃったわ。──鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてる。驚いた?』
「は?」声が裏返ってしまってまともな返事にならない。
 玲奈は本当は全てを知っているのかもしれない。弘はそう思った。死神は今夜の手術の失敗で死ぬのではないと言っていた。それは信用しても構わないだろう。手術の失敗で玲奈が死ぬのではないとすると何故、玲奈は死ななければならないのだろう。篠崎によれば手術をすればある程度は長く生きられるという。それは病状が急変してしまったので言葉通りに受け取ることは出来なくなったが。それでも、篠崎は前任の医師などより遥かに親身になってくれていた。
(もう、弘と共に過ごせる時間はほとんどないのよ)
 そんな言葉が戒めのように玲奈の心を駆け抜けてゆく。
 無論、玲奈は全てを知っていた。自分の生命の残り少ないことも、弘がこの場に来れた理由も。こうなろうことも心得ていた。あるものから玲奈は聞いていたのだ。だから、玲奈は心の中にわざわざ防御線まで張って待っていたのだ。出来れば、弘が途中で諦めてくれることを願いながら。しかし、弘が途中で諦めることがないだろうことは玲奈が一番良く知っていた。
〈玲奈、起きているか?〉
 言葉を発したものはふわふわとして宙に浮いているようだ。フードのついたマントを被り、巨大な鎌を抱えたシルエットだ。それは暗闇の中で淀んだ目を不気味に輝かせながら玲奈を覗き込んでいる。しかし、玲奈はそれに怯む素振りも見せずに答えていた。
「ええ、起きているわ」
〈期日は明日に迫った。覚えているな〉言葉少なく確かめるようにそいつは言った。
「ええ……」
〈泣いているのか。後悔していたとしても今更、契約の撤回は出来ない。貴様は契約の確認にも同意している。それにサインをしてしまえば無効にすることは出来ないと言い渡したからな。どちらにしても、貴様の生命はそう長くはないのだがな。契約不履行にしたとしても一、二カ月しか変わらないだろう。──安心しろ。わしがいる限り貴様は確実に目的の場所まで送り届ける。それがわしの仕事だ〉割に合わないことをしたというような口調である。
「泣いてなんかいませんし、後悔なんかもしていません。私がそうと望んだことですから」
〈そうか、ならばよろしい〉それはフイっと姿を消した。
〈そう、一つ忘れておったぞ。貴様の兄貴が貴様を救いたいそうだ。収穫の季節が来たのだと言っても納得してくれんので骨が折れた。貴様の兄貴に勇気があれば恐らく貴様の兄貴は貴様の中に飛び込んでゆくだろう。何をどうすればどうなるか貴様ならば知っているだろう。貴様の兄貴の貴様を思う純粋な気持ちに免じて契約内容とは別に貴様の好きにするがいい。ちなみに相当、貴様の兄貴のことは脅しておいた〉
 そのまま、玲奈の病室には何者かがいた痕跡すらもなくなってしまった。
(お兄さんが来る……。きっと、絶対に。お兄さんは何も知らないから。あの時のことをお兄さんは覚えていないから。来てしまうよね。私の思いも知らないで。でも、仕方がないか)
 玲奈は浮遊する物体との会話を瞬時に思い起こしていた。今回のことの始まりである。
『内側も外側も同じ玲奈よ。微妙に違うって言ったのは本当だけどね』
 玲奈は弘に背を向けた。それから、例の淡い青色に光る水晶の入った硝子の小箱の周りを何とは無しに歩きだす。薄暗く、この広大な空間の中には玲奈と弘の二人きり。
『そう、同じ玲奈なのに少しだけ違うのよ』
 玲奈は硝子の小箱が置いてある台に静かに歩み寄ると小箱をそっと掌に乗せた。大切そうに落としてしまったら大変なことになってしまうから。それから、慎重に持ちかえ優しく抱き抱えた。玲奈はゆっくりと弘の方に向かって歩きだし、段差のあるところに座った。
『これが私の魂……。淡い青色の水晶のような。本当はこんな物質的なものではないんだけど、ちょっと格好良くしようと思ったらこんな感じになったの。……でも、これは弘には渡せないわ。渡すわけにはいかないの。これをここで守ることが私の役目なんだから。それが表の玲奈とちょこっとだけ違うところかな。二人のようでも三人のようでも玲奈は一人。そう、何て言ったら一番的確な表現になるかなぁ』玲奈はすっと立ち上がった。そして、突然真剣な眼差しになる。『弘は玲奈の作った幻影を見ているの。もちろん、私も含めてのことよ』
 玲奈は弘の近くに更に寄る。左手には硝子の小箱を掲げていた。それのことを玲奈は魂と言っていた。弘と死神の約束のもの。それを手に入れることが出来れば玲奈を救ってやると、玲奈の生命を救ってやると言っていた。あれさえ手に入れられれば玲奈は生きていられる。しかし、玲奈は弘に魂を渡す気は全くないようだった。玲奈が生きていられるからと言ってあれを奪い取ってもいいのだろうか。今、一瞬の隙をついてあれを奪い取れば弘がここに来た理由が解決する。恐らく、弘の心に大きなわだかまりを残したまま。玲奈は生き、弘は後悔を背負う。フェアではないやり方に死神は納得してくれるのか。
 不安材料があまりに多岐にわたったので弘は行動を起こすことが出来なかった。玲奈の同意が得られなければ魂を手に入れたところで何の意味も成さないだろう。略奪すれば玲奈は死なないかもしれない。しかし……。弘は足下が震えていることに気が付いた。妹を相手に一体何を考えている。その行為は泥棒や強盗にほかならない。略奪により玲奈の心を深く傷つけてしまったら、もう、二度と今のような温和な関係を築けなくなる。玲奈は疑心暗鬼と不信感の塊になり、弘を兄としてみなくなってしまうかもしれない。玲奈が生きていてもそれではあまりに悲惨だったし、無意味すぎることだった。
 そうこうしているうちに、とは書いても僅か数秒のことなのだが、玲奈は水晶を高く放り上げていた。それは上空高くでキラリと輝くと視界から消えた。どこへ飛ばしてしまったのだろうか。『こんなものがあるからいけないんだよね』玲奈は切なげな表情を浮かべて言った。
 玲奈は弘が水晶を何に使おうとしているのか判っていた。硝子の小箱と水晶に封印した玲奈の時間を解放するためにあれに渡そうとしている。あれは約束の通りに魂を解放してくれるだろう。そうしたのなら、弘の思うように玲奈は生きてゆける。たったの数カ月先延ばしするに過ぎないのだけど。病室で過ごす時間が長くなるだけなのだけど。あの小箱には“玲奈の生命”として解放しても数カ月しか生きられない。精神よりも先に、肉体の方が先に寿命を迎えてしまった。魂と体が備わって初めて人間なのだから、どちらが欠けてもそれは成立しえないのだ。
 けれども、別の器を用意したのなら結果は自ずと異なってくる。
 二人の時間は止まる寸前かのようにゆっくりと流れていた。
(あれは玲奈の“魂”玲奈の時間……。どこへ消した?)
 玲奈は極々至近距離にまで弘に近づくと彼の手を取って瞳を見詰めた。僅かな淋しさを湛えるその瞳はまだ暖かさに満ちていた。それから、恥ずかしそうにちょっとだけ視線を外すと言葉をつないだ。
『弘、ねぇ、デート、しようか?』
「はぁ?」予想外の言葉に間の抜けた返事をしてしまう。
『やあねぇ、弘。女の子とデートもしたことないの? これは妹として先が思いやられるわ。どうしましょう。やっぱり、シスコンなのかなあ。ひょっとして弘って、私のことが、好き?』
 沈黙。弘は一体何と答えたらいいのか判らなかった。玲奈の存在が気にかかることは確かだった。しかし、それが恋愛感情かどうなのかは判然としない。
『いいじゃないの別に隠さなくたって。ここで聞いている人なんて誰もいないわ。弘と私以外にはね』
「……嫌いじゃないさ。嫌いだったらここまで来なかった」
 お茶を濁した言い方を弘はした。突然の予期しない問いに戸惑いながらも弘は思考を巡らした。曖昧にして断定的に言うのを避けたが、自分はもしからしたら玲奈が好きなのかもしれない。所謂兄弟愛を通り越えてしまった感情を抱いている可能性もある。それでも別に構わないのだが、世間一般はそのようには見てくれないだろう。
『弘らしい言い方ね。でも、嫌いじゃないってことは好きだとも受け取れるんだよね。弘は玲奈のことが好きなんだ。ねぇ、じゃあ、やっぱり、デート、しようよ』
 手を後で握って、小首を傾げて、玲奈は楽しそうに、嬉しそうに、無邪気に言った。明るくて何もかも信じてしまいそうな純粋な笑み。哀しみとは無縁そうな幸せな表情。まるで、弘がここに来た理由が全て嘘のようだった。本当はここが現実の世界なのに違いない。弘はそう思いたかった。だが、そうではないことはこの闇夜のような暗い空間を見れば明らかだった。
『手、つなごうか? ね、いいでしょ?』世間知らずの少女のように玲奈は言った。
「でも、どこに行くんだい。ここは玲奈の心の中なんだろう」
 弘は玲奈に抵抗はしなかった。玲奈に従ったほうがいいという打算ではなく、心から玲奈の共に少しの時間を過ごしてみたくなったのだ。そうすれば、弘の知らない玲奈を知ることが出来るかもしれないし、“魂”を手放さない訳が判るかもしれない。
『私の知らないところ以外はどこへだって行けるわ』玲奈はニコッと微笑んだ。『弘にとっては束の間の幻になってしまうかもしれないけれど。さあ、行くわよ。手を放さないでね。迷子になったら戻れなくなってしまうかもしれないから』
 玲奈は弘の手を強く握った。強い思いを込めて。淋しさや切なさ、色々な曖昧な感情が弘の手を強く握る玲奈の手に現わされていた。表情には全く表していないその精神の強さを弘は感じる。
(忘れないでね、弘。忘れたらいやだからね)
『こうしているとまるで恋人同士みたいだね』玲奈は頬を紅潮させて弘の顔を見上げた。
 禁断の恋物語の主人公にでもなったような気持ちだった。景色はいつしかどこか遠い記憶の中で見覚えのある草原になっていた。種々雑多な草がそよ風になびく。青臭いけれども、どこか心地の良い匂いが辺りに充満している。陽の光は二人だけのために注がれていた。
「ここはどこだ」
『どこだと思う、弘。絶対に知っているはずよ』
 確かに知っているはずだった。遠い過去の思い出の中にある緑色の風景に思いを馳せる。一口に緑の草原と言っても弘と玲奈に共通するそういう場所は意外に多かったので簡単には特定できないかった。一つ一つ弘自身の思い出と重ね合わせて確認していく。
『覚えてないかなぁ。もう、ずっと昔のことだものね。ほら、あそこよ。資材置き場の裏手の奥の方にあった原っぱ。今は大きなマンションが建っているはずだけど。資材置き場で秘密基地ごっこなんかした後に皆でよく遊んだじゃない』
 玲奈はその場に足を抱えて座り込んだ。その隣に弘も腰を下ろした。言われてみればそのような気もしないではなかった。昔に忘れてしまった心の安らぎの場所だった。両親に怒られたときや退屈なときはいつだってここにいた。この場から遥遠くの山並みと淡い水色の空を日が暮れるまで眺めていた。失われた大切な場の一つだ。
『思い出した?』玲奈は横顔を膝に乗せて弘の顔を微笑みながら覗いていた。
「ああ、玲奈と俺のお気に入りの場所だった。怒られたときはいつもここにいた。捜しに来たら馬鹿の一つ覚えみたいにここにいたもんな。他の場所なんか知らないように」
『馬鹿の一つ覚えは余計よ、弘』
 玲奈は膝を抱えたままクスクスと笑っていた。懐かしい微笑みだった。ここ数年の病床の玲奈からは見たことのない笑みだった。弘はその優しい微笑みに釘付けになる。
『──白鳥のオブジェを壊したときも、いじめっ子に追われてこの原っぱに来たときも、後で必ず弘が迎えに来てくれた。帰るに帰れなくなって困ったとき、弘が無言でやって来て私の隣に腰を下ろす。それが凄く印象に残っているわ。その弘は私にとってヒーローだった。喧嘩はあまり強くなかったけれど、優しくて頼りになった。いつだってそうだったわ』
「そうか」弘は短く答えた。少々気恥ずかしくなったのだ。
『今も、弘が来てくれたことは嬉しい。私のことを考えてくれてるんだなって。でもね』玲奈はフイッと弘と反対の方向を向いた。『でもね……』
 頬を涙が伝わってゆくのを玲奈は感じていた。
『もういいの。弘は誰か他の人のためのヒーローになってあげて』
 意図に反して声が震えてしまう。しかし、それをおし止めることも避けることも玲奈には出来なかった。涙を見せてはいけないと思えば思う程に涙が溢れ出る。感情は津波のようになり、玲奈の言うことを聞いてくれない。玲奈は左手で涙を拭い、右手で口を覆い隠し泣かぬように努力した。
 辺りはすでに夕暮れになっていた。冷たい風が吹き始め、一日が終わろうとしている。そう、まるであの時のように。壊れた白鳥のオブジェの大きな欠けらを両手に抱えたまま、淋しげな背中を見せていたときのように。
「それは……どういうことだ?」戸惑ったように弘は言った。
『鈍感! だから弘は女の子に縁がないのよ。このまま帰れって言ってるのよ』
 間の悪い沈黙が二人の間に訪れる。
「どうしてだ、玲奈。お前は生きたくないのか?」
 弘は声を大にして言った。玲奈に自分の真意を伝えたいのだ。しかし、玲奈はただそれを拒絶するだけなのだ。何故、理由を知りたく思って問い掛けても答えは返ってこない。玲奈はその問いに関してはひたすら首を横に振り続けるだけだった。
「玲奈、お前は何かを隠しているな?」
『それは答えられないよ。知らないほうが弘のためだと思うから』
「何故、それが俺のためなんだ。俺は玲奈のためを思ってここまで来たんだ。それなのに」
『知っていることばかりがいいことじゃないんだよ。知らないほうがいいことだってたくさんあるんだよ。知らないほうが……ね』
「それでも、俺は知りたい。秘密にされればされるほど知りたくなる。人間とはそんなものじゃないのか」弘は真剣な眼差しで玲奈を見詰めた。
『あれだけ知れば後悔すると言ったのにそれでも知りたいの?』呆れた様子で玲奈は言う。
「それでも知りたい。知っていることと知らないことには決定的な差があるんだ」
 弘は玲奈の両肩を掴んだ。
『知っていることと知らないことの間には決定的な差がある。そう──よね。弘の言う通りだわ』
 今度は玲奈が観念する番だった。玲奈がいくら頑張って説得しようとしても無駄そうだった。ここから簡単に弘を追い返すことも出来たのに玲奈はそうしなかった。結果は最初から判っていたのに。一度始めたことは簡単には諦めないことを。
 玲奈は意を決した。どうしてもここで弘を返さねばならない。
『水晶は奥の部屋にしまいました。どうしてもと言うのならこの鍵を持っていって下さい。そうでなければあの部屋には入れません。でも、そこに行く前に絶対に、絶対に硝子のオブジェと、あれの意味を考えておいて下さい。もしかしたら、気が変わるかもしれません……』
 玲奈はしょんぼりとして元気のない口調で喋った。弘は良心の呵責を覚えながらもそれを受け取った。玲奈の心の中にあるとは思えないほど古めかしい鍵だ。先っぽに大きな出っ張りが二つあって、それに五センチくらいの柄が付いている。柄の先には三つ葉のような飾りがついている。鍵穴から向こう側が覗けそうなくらいの大きさだ。
「玲奈は来ないのか?」
『行かないわ。一本道だから弘でも迷わないよ。だから、安心して』
 暗闇へと続く方向を玲奈は指さした。弘が元来た方向は既に判らなくなっている。覚えていたとしてもそれほど大きな意味をもつことはないだろうが。それはともかく、玲奈の示すほうには壁があった。良く磨かれた黒曜石か、色硝子の壁のようだった。玲奈と弘の姿が反射して映っている。硝子だとしたらその裏側はこちら側よりも暗いのだろう。つい先程までそんなものはなかったはずなのに。その壁を確認した後、弘は思わず玲奈の顔を覗き込んでいた。
 何かを言う代りに玲奈は黙って頷いた。
(さっきまで拒絶していたのに、何故?)
 おかしな感じがした。玲奈が自分から折れるときはあまり良くないことを考えていることが多い。しかし、弘は頭をもたげた小さな不信感を振り払った。この期に及んで玲奈が騙すはずがないといった楽観的な見方が弘を支配していた。
 弘は玲奈に背を向けると歩きだした。それが答えを探す唯一の方法だと思ったからだ。恐らく、玲奈はもう何も語ってはくれないだろう。ならば、自分で動くしかないではないか。玲奈の淋しげな視線を感じながら弘は去ってゆく。
〈玲奈は貴様が守るんだ。そうでなければ玲奈を守れるやつはいない。玲奈を救いたいと言った以上それだけの責任をお前はとらねばならない。──死ぬべきときに死ねなかった人間は哀れだと以前に言ったな。玲奈をそうさせないためには貴様が支えになってやらねばならない。それが出来なければ、残り少ない時間だとしても玲奈は本当に哀れな人生を送ることになるぞ。……貴様は一人の生命を支える覚悟はあるか。簡単ではないぞ〉
『お兄ちゃん……どこに行くの?』
 と、黒曜石か硝子の扉を目の前にしたとき小さな玲奈の声が聞こえた。先程、玲奈に追い払われたときからここにいるのだろう。しゃがみ込んで弘を見上げていた。それから、おもむろに立ち上がる。
「硝子の小箱を取りに行くのさ。俺に今出来ることはそんなことだけさ」
 弘は中腰にになって小さな玲奈に目の高さを合わせた。小さな玲奈は不安そうな表情をして弘を見詰めていた。手に握った細かな砂のような硝子片が床にばらまかれる。瞳は揺れていた。
「どうしたんだ? 玲奈」
『いや、ダメ、そっちに行かないで、お兄ちゃん。そっちに行ったら戻れなくなっちゃうよ。もう、普通じゃいられなくなっちゃうよ。お願い! 戻ってきてよ、お兄ちゃん』
「俺は大丈夫だよ、玲奈。おかしくなんてならないよ」弘は小さな玲奈の頭を優しく撫でた。
『ダメ! お願いだからそっちにだけは行かないで!』
 弘は小さな玲奈に背を向けたまま手を振り、小さな玲奈はそれを泣き叫びながら見詰めていた。
『さよなら、お兄ちゃん。もう会えないね』泣きながら小さな玲奈はその場を走り去った。
 玲奈はその様子をずっと遠くから眺めていた。短い時間だけれども、弘の心に直に触れていた。暖かい心。弘の心はとても温かかった。玲奈のことを純粋に思っている。今どき、何の打算もなく人のことを思える人間などざらにはいない。玲奈はその兄を誇りに思っていた。女の子にはあまり縁がないけれど、心優しい兄として。
(気付いたときにはあなたは外の世界に帰っている……。騙してごめん、でもこれしか方法はなかったから。弘を安全に帰すにはこれしかなかったから)

「出血した傷はどこだ。あれだけの出血だ。腸の外側にも傷がある」
 血だまりの吸引を終えて、篠崎は玲奈の腹をまさぐっていた。パッと見たかぎりでは傷口が見当たらないので苦心している。出血を出来るだけ速やかに止めねばならないので時間は限られている。手間取ればいくら輸血しているとはいえ、出血性のショックで死に至るかもしれない。篠崎としてもそのような事態だけは避けたかった。
 時間は刻一刻ととどまることを知らず経過してゆき、篠崎の緊張は高まる。
「篠崎先生、顔色が優れないようですが大丈夫ですか? 私が代わりますか?」
「代わっても、私の代わりに君の顔色が優れなくなるだけだ。私がやる」
 篠崎は背中に汗が流れ落ちるのを感じていた。前任が手をこまねいた理由が分かったような気がする。“原因不明”資料に書かれていたその言葉が重くのし掛かる。大きな傷でもあればすぐに判るのだが。そう言ったことではなさそうだった。或いは篠崎の予想が根本的に間違っていたのかもしれない。そんなはずはないと篠崎は自分に言い聞かせて、患部の選定を急ぐ。しかし、一口に小腸と言っても人間の場合は四、五メートルはあるので容易ではない。
 容赦なく時は過ぎる。一抹の不安を抱きながら術式を進めていく。
(これか?)
 腸の一部に傷がつき変色して白くなっている部分を篠崎は発見した。壊死である。発見が遅れたためか、初期の時からそうだったのかは定かではないが厄介だ。壊死は腹腔内に血をためたと思われるある程度大きな傷口を真ん中辺りにして数十センチに渡って続いている。恐らく、この裏側に今夜の出血を招いた病巣が隠されているのだろう。突然の出血のために血が通わなくなり、このような事態に陥ったと篠崎は判断した。
 時間的に見て腸管のこの部分を生かすことは不可能だろう。篠崎は除去手術に踏み切ることにした。長年の経験と勘からの判断だが揺るぎない自信がある。放っておけば壊死が拡大するだけであるし、裂傷の程度から見てもその方が安全だ。そこに何らかの病巣がある可能性も否定できない。
 三年もの入院期間を経ても病状の真相が判っていないので、篠崎の手術は暗中模索となった。前任医師を呪ってやりたい気分にもなろうというものだ。
 篠崎は方針を固めると一気に行動に出た。助手に的確な指示を与え、術式を進行させる。
「こいつを検査に回してくれ。いいか、寝てたら叩き起こしてでも検査させろ。時間がない」
 摘出した腸管の一部をトレイに乗せて看護婦に渡す。
「他には傷、病巣は見当たらないようだ。よし、縫合するぞ、針」
 糸を付けたつの字状の針が篠崎の左手に渡される。篠崎は慎重にたの組織に傷を付けないように神経を集中しながら、腸管の断面を閉じる。事前の検査が不十分であるためにそれ以上の措置をとれないせいもあった。
(これで終わりになるはずがない……)
 懸念を抱きながらも篠崎は黙々と作業を続ける。果たしてどれだけの期間玲奈は生きていられるのか篠崎にも見当が付かなくなっていた。近ごろは安定した病状を見せていたので、少し安心していたのだがそうは問屋はおろしてくれないらしい。篠崎にもどうにも出来ないほどに病状は進行してしまっていた。
(原因不明か、何が原因不明だ。医者の使命は病名を決めることではなく、病の真相を見抜くことにあるというのに。それを探さずして何が医者なんだ。え? 使命感を忘れてしまった医者などただの燃えないごみに過ぎない。だが、何故、急変した?)
 篠崎らしくない考えだが、気分としては人事を尽くして天命を待つと言ったところだった。
(検査の結果を待たなければ何とも言えないが、よくない兆候だ。御両親や弘に話しておくべきだろうか。玲奈の生命はもう長くないと……)
 篠崎はゴム手袋を床に投げ捨てると手術室を後にした。

 黒曜石のような重い扉を越えて進んでゆくとそこはまた薄暗い場所だった。床は? 弘は突然好奇心に駆られてしゃがみ込んだ。触ってみるとつるつるとしていた。やはり、硝子の床のようだった。ここは玲奈の作り上げた仮想空間でありながら、現実に存在するという。一種の矛盾がある。
 弘は玲奈に言われたようにその理由を求め始めた。
「白鳥の形をした硝子のオブジェ……」
 そう考えると、弘の目の前の空中に白鳥のオブジェがフッと現れた。それは父と弘との心の隔絶の一種の象徴でもあった。壊れて跡形もなくなってしまったものがこうして手の中にあると言うのもおかしな感じだ。弘の年齢をそのままに時間が逆流しているかのようだ。
 と、不意に、ここで起こることは全て不意に起きると言っても過言ではないのだが、気が付くと幼い玲奈が姿を現していた。黒曜石のような扉の前で会った玲奈とは違う。服装が全く異なっていたからそれは弘の勘違いではないだろう。
『お兄ちゃん、助けて。硝子が硝子が割れてしまう』幼いころの玲奈が弘を見上げていた。
 心の玲奈に出会う前に弘が思ったキーワードをその玲奈は口に出していた。硝子。心の玲奈に出会えたことですっかり忘れてしまっていた言葉だ。彼女と会う前に見せられた二つの事象と何かが関係あるのかもしれない。
(硝子か……。硝子に一体何の意味がある?)
 硝子と言って弘が知っていることはせいぜいそれが砂を原料にしてで来ているか、少し高価でもう少し脆いものとしては石英硝子くらいしかない。それはもちろん硝子が物質そのままの名称を意味しているのではないだろう。そのくらいのことは弘でも判るのだ。だが、他もものを象徴しているとしてもそれが何であるのか、“鈍感”な弘には判らないのだ。半ば、玲奈が呆れていたのも弘のそこら辺の性格のせいだ。
 視線を幼い玲奈に固定してみると彼女はひびのいった例のオブジェを持っていた。服装もよく見てみれば最も始めに見たときの玲奈の服装をしていた。それはつまり、資材置き場の原っぱで泣いていた玲奈の姿にほかならなかった。が、これが白鳥のオブジェを壊す前の玲奈の姿かといえばそれはどうも違いそうな気がする。この場と弘の勘がそのように告げている。
 この場はどう見ても資材置き場の裏にあった原っぱではなかったし、また、資材置場そのものでもない。空間は弘が黒曜石の扉を開いたときから何の変化も見せていない。即ち、ここは薄暗い回廊、弘の主観に拠ればだが、のままだった。ただ、幼い時の玲奈がひび割れたオブジェをもって弘の瞳を見詰めているのだ。
 忘れ去られた幼い玲奈の姿なのか、それとも玲奈が再び意図して弘にこの情景を見せているのか判別しかねる。しかし、何者かが弘が回答を導くためのヒントを与えようとしているらしかった。
「玲奈、こっちにおいで……」
 弘はしゃがんで玲奈の目の高さを合わせていた。その光景はまさに違和感だらけだった。現実、弘が生きている世界のこと。無論、ここも現実の一断面だ、にはありえないことの連続がある。けれども、これがこの世界では普通だった。幾つもの場面の切り替えがスムーズに滞りなく進行してゆく。それは恐らく、玲奈の心の移り変わりとともに起きるのだろう。
 小っちゃな玲奈は弘のもとに硝子のオブジェを抱いたまま近寄ってきた。疑うことなど知らぬかのような透き通った瞳をしている。純粋無垢、そんな言葉が彼女には似合いそうだった。
『なあに、お兄ちゃん』
「そのオブジェを見せてくれないか?」弘は優しく言った。
 すると玲奈は不思議そうにきょとんとした顔をして首をかしげた。それから言葉をつなぐ。
『これは硝子みたいに脆いの。壊れてしまったらとりかえしがつかないの。だから、誰も触れることはできない。壊れちゃったらおしまいだから。それにお兄ちゃんも一つ持ってるでしょ?』
 言われた通りに弘は先程、空中から現れた硝子のオブジェを持っていた。しかし、最初白鳥の形をしていたと思っていたものはそうではなかった。形状はより球形に近い硝子の球だ。大きさは野球のボールくらいの大きさでてのひらに余裕で収まるくらいの大きさだった。これは何なのだ。
『でも、もうすぐこれも割れてしまうの。新しいのはもう二度と貰えないの。一度きり。一度しかこれは貰えない。人によって皆、形が違うんだよ。細長かったり、丸かったり、硝子細工のようだったり。面白いでしょ? 同じものは一つもないのよ』
「同じものは一つもない」弘は繰り返した。
『そう、同じものは一つもないのよ。持っていない人は絶対にいなくて皆それぞれ違うものを持っているの。色も違うわ。玲奈のは淡い青色をしているの。お兄ちゃんのは水色をしているのね』
 同一のものは一つもない。規格量産されたものでなければそうだろう。ただ、それが皆が一つずつ必ず持っているとなると話は自ずと異なってくる。基本的にそういったものはほとんど無いはずだ。脆くて、硝子のように透き通った色を持ったそれは何なのだろう。弘にはまだ判らない。
 しばらくすると、玲奈は踵を返して奥の暗闇へと消えていった。
(俺がたった一つだけ持っていて硝子のように脆いもの……)
 長い硝子の廊下は果てしなく続いているようだった。一歩踏み出すごとに聞こえる弘の足音と、壁に反射する音が反響している。巨大な城に迷い込んだ気分だった。ここは一本道の迷宮なのだ。弘が答えを見付けなければ、玲奈から貰った鍵を使う扉など見付からないのかもしれない。いくら歩いても、走って距離を稼いでみても一向に廊下の端は見付からない。
『まだ、判らないのお兄ちゃん。一人ひとりが、動物も植物もそれぞれたった一つだけ持つことの許されたもの。壊れやすくてその存在は忘れられがちだけど、それぞれの中で力強く、時には弱々しく、輝いているもの。それは……。お兄ちゃん、早く気が付いて、時間はあまりない』
 逆に言えば、玲奈に遭遇する前に見た出来事が弘の思考を混乱させていたのかもしれない。玲奈は直接ではなく間接的に弘に何かを伝えようとし、同時に追い返そうとしてた。結局、弘は玲奈からのメッセージを理解することも出来ずにここまで来てしまった。全てに共通していたキーワードの意味すらも判らずに。
 弘はひたすら歩き続けていた。玲奈に出会ったときもそうであったように今もまた歩いている。そこには玲奈の淡い青色をした水晶のようなもの、即ち、死神の言った“魂”があるはずだった。玲奈が弘にそれを渡したがらない理由は判らないが、何とかそれだけは手に入れられそうだった。死神にそれを渡すことが出来れば契約は成立する。玲奈は今晩死ななくて済むのだ。刻限を先に延ばすことが出来る。弘の原動力はそのことだった。勝手な理由で自分が行動していることなどとうの昔に忘れてしまっていた。自己中心的になっていた。だから、玲奈の気持ちを理解することも出来なかったし、彼女が一体何を望んでいたのかも知ることは出来なかった。
 玲奈が心変わりした訳も弘は判らないのだった。
 そんな淋しい擦れ違いの中でたった一つだけ知りえたこと。それは玲奈が弘を好いていたこと。弘自身が玲奈を好きだったということ。心の中で否定し続けてきた思いが表に現れてしまったことだろう。弘はそう、玲奈に恋していた。
 いらぬことを考えているうちに弘は扉に行き当たっていた。
「ここか……」
 見上げるような扉を弘は眼前にしていた。玲奈から受け取った鍵をポケットから取り出して、鍵穴に合わせてみた。ぴったりである。玲奈の言った奥の部屋とはどうやらここらしかった。緊張を感じながらおもむろに鍵を回す。カチリという音と共に鍵は開いた。
 扉の取っ手に手をかける。“そっちに行ったら戻れなくなっちゃうよ”小さな玲奈の言った言葉を思い出した。戻れなくなるとはどういったことなのだろう。しかし、その思いは一瞬の間、弘の脳裏をかすめただけでどこかに消え去ってしまった。然程大したことはないと判断したのだ。
「壊れたら二度とは戻らないもの。それは生命なのか、玲奈」
“知ったらきっと後悔するよ”玲奈の言葉が一瞬、弘の頭の中をよぎった。知って後悔するようなこととは一体なんだ。弘は腕を組み、顔をしかめて考え込んだ。その魂の何について知れば後悔す。まだ、弘には理解しがたいことがあった。
 弘は扉を勢いよく開け放った。
「それが生命だったとして、何故、玲奈は生きていたくないんだ。死神はお前を助けてもいいと言ったのに。それを拒む理由なんてないはずなのに。……いや、もうそんなことは心配しなくてもいいんだ。玲奈は承諾したんだ。玲奈は死なない──」
 扉の向こう側はどこまでも開けている黒い空間だった。どちらかといえば弘が最初に姿を現した場所と同じようだ。暗くて壁らしき構造物もなさそうで足下は強化硝子のように硬い。弘は廊下と部屋(?)との境界線から内側に踏み込んだ。
 すると、弘の背後で扉の重々しく閉じる不気味な音が聞こえた。まるでホラー映画の主人公にでもなったような気分だった。辺りが真の暗闇であるために背筋が凍るような思いがした。正面に視線を戻す。それから左右をキョロキョロと見回した。
(あれかな……?)
 弘の視界に淡い青色の輝きを放つものが入った。弘は何の、一かけらの疑いも抱きもせずにそれに近づいていった。弘に玲奈を疑う理由がなかったから当たり前のことだが。しかし、弘はその淡い輝きに触れることは出来なかった。慎重さに欠けていた。弘の足下には氷河に開いたクレバスのような亀裂が口を空けていたのだ。確かにそれは弘の目前にまで迫っていたというのに。弘はそれを手にすることは出来なかったのだ。
 奈落の底に落ちてゆくような感覚を再び弘は味わっていた。今度は底なんかないようだった。どこまでもどこまでも落ちてゆく。淡い輝きももう見えなくなっていた。落下しているというのに風も感じていなかった。目に入る光は何もない。音すらもなかった。弘の五感を刺激する外部の出来事は何もなくなっていた。それなのに弘は落下を続けていることだけは理解していた。何故なのか。そんなことはよく判らない。ただ、重力を足の下ではなくて背中や頭で感じていた。それが弘を落下している感覚に縛り付けているのかもしれなかった。
『さよなら、弘。向こうの世界では二言三言お話ができればいいほうでしょう。それに目覚めればここで体験したことなど手に握った水のようにこぼれ落ちてしまうもの。微かな記憶が残るだけでしょう。弘は鮮明に覚えていたとしても、私には霞のような記憶。もう、二度と会えなくても哀しまないで、それが運命なのだから。私の選んだ人生なのだから。私はこれから弘の心の中にだけ生き続ける。だから、淋しがらないで。弘は一人じゃないのだから──』
 玲奈の声が遠くで聞こえた。
 弘の記憶はそこから消え入るようになくなっていた。
“私ガイナクナッテモ平気デスカ?”
「平気じゃない、平気じゃないよ。玲奈がいなくなったら俺はどうしたらいい」
“アリガトウ、ソレガ聞キタカッタ……”

 小鳥の囀りがどこからか聞こえていた。それが意識を失っていた弘の耳に飛び込んでくる。完全な静寂の支配する場所で囀りは世界の全ての音のようだった。時折、バイクのエンジン音がする。弘はベッドにもたれ掛かるようにして眠っていた。
「ここは?」
 辺りをさっと見回すと、そこは玲奈の病室だった。時間は明け方。死神の言った玲奈の内なる世界に行ってから二時間も経つか経たないかの時間だった。それなのに弘は病室にいた。
(夢だったのか?)
〈夢ではない〉
 唐突に弘の背中から声が聞こえた。弘は思わず振り向く。初めて見たときは恐怖の対象となりえたその姿はすでに弘の日常の一部になっていた。そのどんよりと曇るおぞましい瞳も、鋭い刃の輝く巨大な鎌も、フードのついた真っ黒い衣装も風景の一部に溶け込んでしまっている。非日常的なことが当たり前のことになってしまった証拠だ。
(夢ではない?)弘はおうむ返しをした。
〈その証に貴様は硝子の小箱を手にしている。それはお前が玲奈の心を旅したことを証明している唯一の存在だ。しかし、中身は空のようだな。契約は不成立だ〉
「玲奈は? 玲奈は助けてくれるんじゃなかったのか? 助けてくれるという約束じゃなかったのか」弘は死神の黒いマントの襟首につかみ掛かった。
〈そのような約束はした覚えはない。わしは玲奈を救えるのは貴様だけだと言ったはずだ。玲奈が貴様の説得に応じようとしない、貴様が過去のしがらみに負けてしまったのではわしにはもう、何もしてやることは出来ない。わしは実った穂を刈る農夫に過ぎないのだ。貴様に決着の付けれぬことはわしにもどうしようもない。刻限は今日の夕暮れに迫った〉
 死神は弘に襟首を掴まれたことを全く気にしない態度で言った。
「今日の夕暮れ……。もう、時間はあまりないじゃないか」
〈諦めろ、弘。貴様は一度きりの機会に失敗したのだ。玲奈に体よく追い出されたのだ。──死なずに済んだだけでも運がいいのだぞ。大抵、このようなことを試みた輩は道連れにされることが多い。人間のちゃちな医学でみれば原因不明の突然死ということだ。今までにたくさんの事例があるなかで貴様のは珍しい。いいか、潔く諦めるのだぞ。そうでなければわしは貴様を連れて行かねばならなくなる……〉
 死神は不意に空中に浮き上がると足を組んで座る姿勢を取り、そのままでいた。
〈諦めはついたか、弘。用事がないのならばわしは一度帰らねばならぬ。玲奈の死について色々と用意をしなければならぬことがまだ、山積みなのでな〉
「──玲奈は最後まで俺に何かを隠していた。それは何なんだ」
〈知りたいのか?〉驚いたような口調で死神は言った。玲奈はすっかりあのことを話してしまったのだと思っていたようだ。〈玲奈は貴様に何も話さなかったのか。魂を貴様に渡せない理由を。その理由を聞かずしておめおめと貴様は戻ってきたのか? 一体何をしに行ってきたのだ〉
 歪んだ顔をさらに歪めて死神は言った。
「俺は玲奈の考えを優先しただけだ。そうしたら、このようになってしまった。──これが玲奈の俺に対する答えだというのなら、それは甘んじて受けるべきだと思う。しかし、玲奈の話してくれなかったその理由、言うことを拒絶されたその理由は知りたい」
〈玲奈は話すことを拒絶したか、貴様は玲奈に慕われているようだ。貴様が大切のようだ〉
 弘はベッドに腰を下ろして黙ったまま床を見詰めていた。
〈知りたいか? そんなに知りたいのか? ……ならば、見せてやろう。封印された貴様の記憶を解き放とう。そうすれば、貴様は全てを知ることになる。だが、それは玲奈が今まで隠してきた努力を無にすることになる。それでも構わないのか〉
 死神は感情のこもらぬ声で淡々と続けた。
「無……」
 弘は消え入りそうな小さな声で言った。玲奈の心意気を無にしに行ったはずではなかったのに。弘の思うことをしようとすればそのような残念なことになってしまう。
〈そうだ。貴様のためを思って玲奈は封印するようにとわしに頼んだのだ〉
「玲奈が? わざわざ何故?」
 疑問がわき起こった。例の事故でそのもの以外に一体何があったというのだ。
〈その理由は今に判る。だが、見ることは出来ても過去を変えることはかなわぬぞ。それが自然の理と言うものだ。玲奈の見た真実とわしの記録から貴様に過去に起きたことを見せてやろう。これは特別なことなのだ。一度限りだのことであるから、心して見よ。──そう、小さな玲奈が言っていたな。普通じゃいられなくなると〉
「俺が普通でいなけりゃならない理由なんてもうどこにもないじゃないか。お前は今日の夕方には玲奈を連れていってしまう。そうなれば俺は一人きりだ。これ以上、一体何を失うというつもりだ。俺には失うものすら残っていない」
〈本当にそう思っているのか?〉いつかのように死神は弘を問いただした。
「え?」弘は顔を上げ死神を見た。
〈別れは辛いものかもしれぬ。この世の終わりが来たようにも感じるだろう。だが、貴様が正気をなくしたとき失うものは数えきれぬくらいあるのではないのか。ないというなら玲奈が可哀相ではないか。玲奈は貴様のためにこのような判断を下したのだ〉
「俺のために?」
〈そう、貴様のためだ。何もかも……な。見に行くか? ここでぐだぐだとしていても時間の無駄に過ぎない。そうすれば、貴様は全てを余すところなく知ることになる。玲奈とともに過ごしてきた時間が辛くなる。それでもいいか。貴様に真実を知る勇気が少しでもあるのなら見せてやろう〉
「勇気……」
 たった数時間前に言われた言葉を弘は忘れかけていた。このまま玲奈が死ぬまでこの場で過ごしていたら一生後悔しそうだった。玲奈は魂を渡せない理由を知れば後悔すると言っていた。だが、それを知る努力すらもせずに、ただ玲奈の言う通りにしていたのではなんとも情けない。あの時、真実を探して見詰めておけばと思うことは簡単だ。しかし、そんなではいけない。玲奈が隠そうとしていたことを死神の力を借りて見ようとするのは卑怯かもしれない。隠したいから玲奈は弘を追い返したのだから。だからと言って、弘にも引き下がれない訳もある。一度きりの機会に失敗し、玲奈の命を救えなくなった今となっては魂を開放しない理由だけでも知りたいのだ。
 それは弘の思い上がりかもしれない。エゴかもしれない。自分が安心したいだけなのかもしれない。だが、今今度の機会を逃してしまったら、もう真実を知ることは出来ない。
 疲れ果てた弘の目に光が戻った。全てを見定めてやろうと決意したのだ。
〈心は決まったようだな。ならば玲奈の隠した真実を知るがいい〉