永遠の硝子箱

(結)玲奈の微笑み


 

 玲奈の隠した真実とは何なのだろうか。辺りはすっかりと明るくなり、何故かそれが弘には妙に現実離れしたように思えてならなかった。暗い空間に慣れてしまったせいかもしれないが、この明るさが非現実のように感じられた。偽りの世界。現実でありながら虚構のような世界。誰も心の奥底を語ることのできない空虚な場所。弘はそう思った。
 玲奈の心を歩いてきて判ったことはもう一つあった。表面上の付き合いが多いこの世の中にも、一人くらいは自分のことを深く思ってくれている人がいるのことの。ただ、それが偶然に妹だっただけの話だ。
〈目を閉じるがいい。次に目を開いたとき貴様は過去を垣間見ることができる〉
 死神はくぐもった声で弘に言った。その言葉を聞いた瞬間、弘は全ての感覚を遮断されたような感覚を覚えた。丁度、硝子の床の上にいたときのような気分だ。違うといえば、足下に硬い床の感触がないことだけだ。それから、弘の意識は途絶えた。一瞬らしかったが、永遠のような長さを感じた。
 次に意識を持ったとき、弘はある一つの風景の中に取り残されたように存在していた。
〈貴様の見ているのは過去の風景だ〉振り向くと死神が弘の隣に佇んでいた。〈玲奈の記憶とわしの記録から客観的に再構築したもの。貴様の見た実際の視点ではないことは断っておくぞ。隠した理由を知るためには貴様の視点からでは不可能だからな〉
 弘は死神の口元が歪んだのを見逃さなかった。意味あり気だ。彼(?)は何かを知っている。弘はそうとらえた。知っていながら自分を玲奈の内なる世界に連れて行ったのではないだろうか。玲奈が魂を開放しないことも判っていたのではないだろうか。それなのに何故、わざわざ弘を導いたのか。いくつかの疑問が僅かな時間に弘の脳裏を駆け巡った。
 そんな弘に死神は一瞥をくれた。
〈その顔は貴様に機会をやったことが納得いかないようだな。だが、貴様がどんな疑問を抱こうとも、わしの言った理由は最初の通り変わることはない。貴様の妹を思う気持ちに免じたのだ。成功すればそれもよし、失敗したのならそれもまたよし。玲奈に道連れにされなかったのだから貴様は幸せなものだ。フン? そうは思わぬか。思わぬようだな〉
 弘は冷ややかな視線を死神に向けていた。しかし、死神は弘がどのような考えをもっていたとしても関係のないことのようだった。どこか超然としており、弘の存在にはあまり気に留めていていないようにも見えた。
〈だが、よく覚えておくがいい。貴様が玲奈の魂を手に入れそこなったということはそれだけ貴様は玲奈に慕われている、大切にされているということなのだぞ。玲奈が貴様に魂を渡せば──。まあ、いい。いずれ判る。さて、ショータイムの始まりだ。では、また後で会おう〉
 死神はフッといなくなった。弘には死神の言ったことがいまいちよく理解できなかった。あの淡く青色に輝く水晶を弘に渡し、死神に渡すことができればまだ生きることができたはずなのに。玲奈はそれを拒んだ。拒まなければならない理由などどこにもないはずなのに。
 我に返ると死神の姿はすでになく、弘は二度は見た風景の中にいた。一度目は十数年も昔、道路の改修が行われる前。二度目は玲奈の心の中で。つまり、ここは交通量の多い国道だった。とても、幻のようには思えない。触れば古びたアスファルトの感触もある。ガードレールにも触れた。“時間”がずれていること以外全てが本物のようだった。
 そのような所に弘はいる。記憶と寸分も違わぬ形があった。玲奈の心で見たよりも細部が細かいようにも感じられいた。というよりはむしろ、より細かなことに目を向ける余裕ができたと言ったほうが正解だろう。あの時は玲奈のことで頭がいっぱいで他のことを考える余裕はなかった。今の弘の視界の中にはさほど遠くないところにある歩道橋も幼稚園も、郵便局も入っていた。見えなかったもの、覚えていなかったものが全て見えている。有りとあらゆるものが忠実に再現されているようだった。少なくとも弘にはそのように思えるのだった。
 そして、辺りは動いていた。何もかもが当然のように動いている。当然とは何なのだろう。弘が、玲奈が生きてきたことは当然のことなのだろうか。そんな考えが頭をよぎった。この世に生を受けたこと。それは何故なのか。この町に弘と玲奈は兄妹として生まれたのか。こんな光景を見たときそう思った。普段は全く考えもしないことを考え始める。
〈目を見開いて真実を見極めるがいい。貴様にとってそれがどれほどの意味をもっているのか知るがいい。現実は貴様に味方しない。味方になったのは玲奈だけだった〉
 弘は先程とほぼ同じ状況を見ているようだった。完全な第三者として。玲奈の見せた幻は現実に起こったことなのかもしれなかった。閉ざされていた心の扉がゆっくりと開いてゆく。記憶の断片が流れ込んでくるのを弘は感じていた。
 横断歩道の向こう側にいた玲奈の驚きに満ちた顔も、ダークグレーの車が迫りくる様子も甦った。確かにそのようだった。弘の心の奥底に隠された真実は直視に耐えかねる場面だった。玲奈の心の検閲処理により幾分ソフトにされているようだった。今のこれを見たかぎりでは自分が生きていることの方が不思議だ。悪夢だ。あれを悪夢と言わずに何を悪夢という。
 小学校三年生の頃の記憶が曖昧なことも判る。確かにダークグレーの車が視界に入った瞬間から弘の間隔は遮断されたようになりそこから先がどうなったのかまるで覚えていない。病院に入院した記憶すらもなかった。事故の記憶がなかったとしてもその後の記憶はあってもおかしくはない。
 そして、事態は進行していた。少年の日の弘は紙屑のように体は空中に浮かび、アルミニウムのジュースの空き缶のように灰色のアスファルトに頭から落ちていった。弘の体は左のヘッドランプを脇の辺りで破壊して、その勢いでフロントガラスにクモの巣状のひびが入り、一部は路上に散乱した。そのまま弘の体は車体を通り越えて路上に落下。車は大破したものの逃走した。
(俺は死んだのか?)
 地面に倒れ込んだ弘はぴくりとも動かなかった。
 死んだとすれば今現在に弘がいるはずがないから、死にはしなかったのだろう。弘は冷静に物事を考えていた。まさに、傍観者の心情だ。頭や腕や体から流れ出るどす黒い血を見ても何の感動も恐怖すらも呼び起こされてこない。ただ無感動に弘は立ち尽くしていた。
(あいつは俺に何を言おうとしていた)
 それはまなまなしさと言う点だけを除いて、玲奈に見せられたものと変わらない。弘が実際にみるはずのできなかった視点で今の弘はそれを見ていた。自分のことでありながら自分のことでないような妙な感覚に捕らわれる。
 辺りの交通は一時的に遮断された。玲奈は立ち尽くし、弘は地面に横たわったまま。時間が過ぎて救急車が来るのも、警察が現場保護のために交通規制しに来るのも同じだった。玲奈の見たことがほとんどそのままだ。ただ、弘は一かけらも記憶にはなかった。自分は傍観者で、自分を主人公とした不幸な映画が上映されているような錯覚のようにも思えた。近未来の立体映画を見ているようだ。
 救急車がけたたましいサイレンを残して去っていった後も玲奈はいた。硝子の欠けらを一生懸命に集めていた。彼女が何のためにそれを集めているのか理解しがたかったが、少なくともそれは弘のためのようだった。
(これが全て現実だったのならば、俺は何故生きている? 玲奈は俺のために何をした。知れば後悔すること、玲奈が淡い水晶を渡せなかった理由。それがここにあるという)
〈そう、全ての始まりはここにある。貴様の求める理由はここにある。その時の玲奈は貴様のことを考え、今の貴様は玲奈のことを考えた。それが行き違いの始まり。苦悩の始まり〉
 そこは手術室の前だった。真夜中に弘が駆け込んだ場所と同じである。それもまた、弘にとっては意外な事実だった。兄妹そろってここにお世話になっているとは知らなかった。
「お兄ちゃんは死んじゃうの?」玲奈はまるで覇気のない声で呟いた。「ねぇ、死んじゃうの?」
 玲奈の問いに答えることの出来る人間は誰もいない。それはこの場では禁忌であったからでもあり、ここにいた人たちがそのような不吉なことを考えたくなかったからかもしれない。
「そんなこと言うんじゃありません。お医者様がこれから弘の手術をするの。それからよ」
 弘と玲奈の母は毅然とした態度で玲奈に接していた。強い精神力を弘は感じていた。手術中のランプは赤く点灯してた。母親が玲奈を捜した後も点灯しているのだから相当の長時間の手術だ。それがあまりよくないことを物語っていると薄々彼女は感じ取っていたに違いない。だから、玲奈にはそんなお茶を濁したような言い方をしたのだろう。玲奈には全てが判るまで伏せておきたい。現場を見てしまっているので無駄かもしれないが、それでも兄が死ぬかもしれないとは言えない。それよりも母自身が信じたくなった。元気に遊びに行った弘が手術室で手術を受けているとは信じたくはなかった。しかし、それは紛れもない事実。
 玲奈もその母親も手術が終わるのを待つしかない。
 無為に時間だけが過ぎていった。彼女たちにできることは弘の無事を祈ることだけだ。薄暗い廊下で固いソファに座って、赤いランプが消えるのをただひたすら待つ。時は止まったように動かず、時間の流れからおいてきぼりになってしまったような不安な感覚にも囚われた。人も時折、速足で駆けてゆく看護婦がいるだけ。パタパタと言う乾いた足音だけが時の流れを二人に感じさせていた。時の流れがこれほどまでゆっくりしているとは感じたこともなかった。
〈弘は死ぬ。弘は死ぬのだ。そんなところで待っていても無駄だ。手術など無意味だ。人間の下らぬ技術など役には立たぬ〉
「誰かいるの?」
 玲奈は暇そうにソファからプラプラさせていた足を止めて、空中を見た。しかし、そこには何もいなかった。人の近づいてくる気配はなかったのだから玲奈の気のせいかもしれない。玲奈は周囲をキョロキョロと見回し、また退屈そうに視線を下に向けた。
「玲奈、どうかしたの」
 母親は玲奈の挙動不審な様子に気が付いたようだ。ソファから降りて玲奈の正面にしゃがむと両手で玲奈の両頬を軽く押さえて、彼女の瞳を見据えた。が、玲奈はそれをそらそうとした。
「ううん、何でもないよ。──玲奈、ちょっと、お手洗いに行ってくるね」
 玲奈は母の手を押しのけるようにしてソファから降りると一般の待合室の方に駆けていった。何かを隠しているような微かな雰囲気をこの場に残して。
(玲奈は何かを感じたのかもしれない)母はそう思った。昔から玲奈はそう言ったことには敏感だった。俗に言えば霊感が強いというのだろう。父方の祖父が亡くなったときもそのようなことがあった。何か良くないことを身近に感じると玲奈はよく落ち着きを失うのだった。それは起こった事実を全く知らないときでも同様だ。
 一般外来でざわついている待合室を駆け抜けると玲奈はトイレの個室にまで駆け込んだ。玲奈は確信している。一瞬聞こえた声は幻聴ではない。所謂、根拠のない自信というやつだ。玲奈は便座のフタを閉めてそこにちょこんと腰掛けるとキッと宙を睨んだ。
「ねえ、誰かいるんでしょ?」
 玲奈は虚空に問う。それにはどこから声をかけようとも聞こえていそうな気がしたのだ。弘の傍らに付かず離れずいるそれは玲奈のことも見ている。背筋に覚えた微かな寒けが物語っている。
〈……貴様にはわしの声が聞こえるのか?〉
 初めてはっきりと聞いたその声はくぐもっていて聞き取りづらいものだった。けれども、声は院内の騒めきを突き抜けて玲奈の耳に届いていた。腐った果物が喋っているような感じだ。
「聞こえるわ。……ねえ、あなたは一体何なの。玲奈やお兄ちゃんに何の用事があるの?」
 玲奈は物怖じせずにその声に問いを立てていた。
〈貴様にはまだ用事はない。用事があるのは貴様の兄の方だ〉
 それはやはりくぐもった声で話し、落ち着いた口調でものを言っていた。自信に満ちている威厳の溢れる口調だった。そして、それはあまり余計なことは話したくない様子だった。姿も現さずに声だけで玲奈と応対しているのだから。しかし、この光景の傍観者となった弘にはその声の主が何であるのか既に判っていた。
「死神?」玲奈は直感的にそう言った。さしたる根拠のないものの玲奈のこういう場合の直感は冴えていた。「お兄ちゃんに用事があるって、お兄ちゃんは死んじゃうの」
 数分間返事はなかった。それも返事に窮している様子だった。このような状況にはあったことがないのかもしれない。玲奈も虚空から主なき声を聞いたのも初めてのことだから、お互いに戸惑っていた。
〈──そうだ〉死神は短く一言で答えた。
「どうして?」玲奈は疑問を解消することは当然と言った口調で言った。玲奈の基本的な性格はこの辺りから変わっていないようだった。今でも疑問と思ったことはよく人に聞いていたし、その強気な態度を持っていた。無論、本人はそれが当然というよりは自分の周りに知らないことはなくしたい。或いは純然な好奇心から行動しているようだった。
〈それが定めだからだ。他に理由などない〉
「定めってなあに?」率直に玲奈は聞いた。
〈フン?〉それは少し困ったような声を出した。〈──弘が今日死ぬことは昔から決まっていたということだ。判ったか、小娘?〉
「それじゃあ、お兄ちゃんは死んじゃうの? 助からないの?」
 邪気のない口調で、けれども淋しそうに玲奈は言った。
〈このままでは助からぬ。それが貴様の兄の運命なのだ。弘はこの事故で死ぬことになっている。だから、わしはここにいるのだ。弘の魂を導いてやらねばならないからな〉
 どこかで聞いたことのあるような台詞だった。彼の存在理由が恐らく魂を導くことなのだろうから、それに疑問を挟むものがいるとすればそのように答えるしかないのかもしれないのだが。
「そんなのいや……。玲奈のたった一人のお兄ちゃんなんだから。連れて行かないで。玲奈を、玲奈を連れて行ってもいいからお兄ちゃんを連れて行かないで!」
 その言葉が発された直後に玲奈の見慣れない物体がトイレの狭い個室に現れた。黒いフードが深く下ろされていてその顔は判らない。左手には個室からはみ出そうなくらいの巨大な鎌を持っていた。玲奈はそれをキョトンとした表情で見詰めており、別段驚いた訳ではなさそうだった。
〈わしと契約しようというのか、小娘よ。それがどういうことなのか判っているのか〉
「判っているよ。お兄ちゃんの代わりに玲奈を連れて行くんでしょ」玲奈はうつむいてボソリと言った。「でも、玲奈、お兄ちゃんが死なないんだったらそれでもいいの。お兄ちゃんがいなくなったら玲奈どうしたらいいか判らない」
〈……榊原玲奈、七歳か〉それは懐から分厚い帳簿みたいなものを取り出すと皺だらけの手でページを繰りだした。そして、本の真ん中辺りで手が止まる。その後、満足そうなため息をついた。
〈よろしい、貴様の言い分を聞いてやろう。本来ならばありえないことだが特別だ。兄の生命のことについては保留する。十年後、貴様に判断能力が備わったとき、わしは再び現れよう。それまでの貸しだ〉そう言ってからそれは少し考えて玲奈に判るように言い直した。〈十年、貴様と兄はともにいられるということだ。十年後に気が変われれば兄は死に貴様は生きる。変わらなければ十年後に貴様が死ぬ。ただそれだけの話だ〉
 フードから外れてそれの濁った黒い目が玲奈の瞳に映った。しかしそれは邪悪な輝きを秘めているのではなく慈愛の温かさに満ちていた。
「お兄ちゃんは死なないの?」
〈ああ、そういうことになる〉
 これは玲奈にとって不可思議な体験だったに違いない。トイレの個室といった少々変わった場所での出来事だった。幻といえば幻、白昼夢といえば白昼夢のような出来事。これが全ての始まりだったことを弘はついに理解した。玲奈が弘に魂を渡せない理由がここにある。玲奈は死神に魂を渡さなければならない。そうしなければ弘が死んでしまうから。
 弘は生きているのではなく生かされていることを悟った。玲奈の幼い日の心が弘を生かしている。
 弘はその一部始終を見詰めていた。何故か一抹の淋しさを感じる。自分は玲奈の思いに報いることはできたのだろうか。そう考える。しかし、玲奈はこう言うだろうことも弘は判っていた。“私はお兄さんが生きていればいいのよ”と。この間、弘に言った泣き言も玲奈は認めないだろう。恐らく玲奈は自分にこういう結末が待っていようとは思っていなかったに違いない。
 そして、玲奈が個室から駆け出していくのが見えた。
〈貴様を生かしているのは玲奈の心だ。フフ、しかし、わしも馬鹿な取り引きをしたものだ。あの時から玲奈の寿命は判っていたのだ。十七年と数カ月。だから、わしは今日という日時を指定した。玲奈は死ぬが、貴様は生きていることができる。玲奈に感謝するのだな〉
 手術中の赤いランプが消えた。弘が病院に運び込まれてから実に五、六時間になる。母親は気が気ではなかったが、玲奈はその隣で母親に寄り掛かってすやすやと寝息を立てて眠っていた。さっきの出来事などまるでなかったことかのように。
 と、手術室の扉が開いた。母親が急に立ち上がって、玲奈は支えを失った形でソファに倒れた。それで目が覚めたようだ。眠そうな目をこすって起き上がった。母親はすでに出てきた医者を捕まえて質問をぶつけていた。その目は哀願していた。弘の生命が助かって欲しいと言う願いがそうさせているのに違いない。
「先生、弘は弘はどうなるのでしょう?」
「……手術は一応成功しましたが、まだ何とも言えません、が──はっきり、状況をお伝えしておいたほうがよいかもしれませんね。着替えますので待合室で少々お待ち下さい」
 そう言うと医者は手術室とは反対側の部屋に消えた。その様子を見て不安をかき立てられた。もしかしたら、と言う疑念が頭をかすめる。重苦しい雰囲気が心を押しつぶそうとする。その時、玲奈はソファから立ち上がって母親の足下に立ち、母親の顔を見上げていた。
「お母さん、どうかしたの?」
「どうもしないわ。──お医者様が待合室に行って待っていなさいと言っただけよ」
「ふーん?」玲奈はちょっと不思議そうな顔をした。
 母親は玲奈の手を取って待合室に向かった。そこは緊急救命の入り口から離れているせいもあり、日常が繰り広げられている。生命の危機に直面する極限状態の人間模様はそこには見られない。死に至る病を患った人はいないだろう。雑踏がそのことを端的に物語っているのかもしれない。少なくとも母親はそう思った。
 待合室の時計の秒針も止まったようなスローモーションで動いていた。周囲のざわつきなど全く聞こえずに彼女の耳には秒針の時を刻む音だけが届いている。平穏な日常から置き去りにされた人間の辿り着く境地なのかもしれない。
 そこに弘の担当医となった男が現れた。長身で短めにカットされた髪が清潔感を印象づける。それに白衣が付け加わって少々の威圧感も与えていた。ポケットに手を突っ込んで歩いてくる。医者は彼女たちを見付けると自分のオフィスに導いた。
 オフィスは篠崎の第二診療室と基本的にはそっくりだった。後で診療室の大きさを巡って先生方から不満が噴出しないように同じ作りになっているのだろう。調達品などもどこも共通らしく、机の配置の仕方や机上にある書類やその乱雑さなどで違いが判る程度のものだった。この医師の場合には机上には弘のカルテしか乗っておらず、他の資料などは棚に綺麗に収められていた。
 医者は自分が椅子に座ると空いている椅子を母親と玲奈に勧めた。それから間を空けずに話をする。時機を外すと言いにくい事柄であるので切っ掛けを逃すわけにはいかない。
「率直に申し上げましょう」医者は間を置いた。「手術は成功しましたが、弘君が意識を回復する可能性は非常に低い。脳に重大な損傷がみられまして、確率的には植物状態になる方が高いですな。……覚悟しておいたほうがいいでしょう」
 予期していたことでありながらそれはやはり十分すぎるくらいに衝撃的なことだった。
「それは弘が助からないということなんでしょうか?」恐る恐る尋ねる。
「そのようなことはありませんが、その確率は非常に低いと私は言いたいのです」
 もったいぶった言い方を医者はする。どうやら、“死”と言う言葉を使うことを極力避けたいらしい。場所柄を考えるとそのようなものかもしれないが、その言葉は医学の敗北を言い表しそうで嫌われているようにも思えた。或いは純粋に気を使っているのかもしれないが、それもまた始末の悪い気の使い方だった。
「つまり、弘は死ぬということですね」
 気丈だった。母の強さとそこに隠された冷たさを弘は垣間見たような気がした。弘の知っていた母親像とは大きく懸け離れている。いや、そうではなかったかもしれない。白鳥のオブジェの一件の時も玲奈と弘をフォローする発言も態度もなかったのだ。知っていながら母は無視した。最初は知らないものだと思っていたのに、実は全てを知っており容認していた。
「いや、しかし、そのように結論付けるのは時期尚早ですので」
 予想外の母親の言葉に医者は困惑したようだった。ワイシャツのポケットからハンカチを取りだすと額を拭きだし、視線を逸らして一瞬下を向いた。そこに玲奈が割ってはいった。
「お兄ちゃんは死なないよ」玲奈は母親のスカートの裾を掴んだままで言った。
「随分と自信があるんだね、お嬢ちゃん」
 安堵の表情を浮かべて医者は優しく言った。玲奈は辟易していたところに現れた救世主だった。
「うん、お兄ちゃんは絶対に死なないよ」玲奈は言う。
「取り敢えず、そういう可能性もあるということです。私の話はこれまでですので」
 母親に押されてお茶を濁したような話の終わり方だった。その口調はまるで弘を邪魔者として扱っているようだった。今の弘が考えれば玲奈に対してもそうだった。気まぐれのところもあったのでいつもこのようだったわけではない。それでも父も母もあまり子供たちには優しくなかった。
〈そうであるからこそ、玲奈の心は貴様を向いたのかもしれぬ。貴様がいたから玲奈は孤独ではなかった。判りあえる同胞を無意識のうちに求めていたのだろう。それが貴様だった〉
「死神さんいる?」場所は誰もいなくなった待合室だった。診察時間を三十分程過ぎて待っている患者はいなくなった。母親は玲奈を待たせてお手洗いに行っていた。つまり、玲奈はこの場に一人。
〈何かわしに用事があるのか〉
 死神は玲奈の前にすうっと現れた。玲奈の視線からみると彼(?)の頭は遥か上の方にある。だから、玲奈に見えたのは最初は彼の足と鎌の柄だけだった。それから視線を上に上げると巨大な鎌の刃、淀んだ瞳としわの寄った顔が目に入る。その一見恐ろしげな顔に玲奈は微笑みを返していた。
「さっき、言い忘れたことがあったの」
〈何だ、言ってみろ〉死神は濁った瞳を玲奈に向けた。
「──お兄ちゃんには全部内緒にしておいて欲しいの。お兄ちゃんきっと悩むから……」
〈そのようなことか、承知した。ならば、事故そのものの記憶を消してしまおう。弘には何も起こらなかった。それでいいのだな。玲奈のしたことは弘は知ることはない。玲奈は感謝されることもないのだぞ〉
 死神はしゃがんで玲奈と目の高さを合わせた。その目線は玲奈の全てを見透かしているかのようだった。玲奈はその冷酷なまでの視線の中に秘められた僅かの優しさを知っているかのように死神と接している。科学ではありえないはずの死神の存在も玲奈にはあまり関係のないことのようだ。
「そんなこと関係ないもん。玲奈はお兄ちゃんが生きていればそれでいいの。他に何もいらない」
 とても小学一年生とは思えないような発言をしていた。玲奈にとって弘とは非常に重要な存在だった。弘が先に生まれたから玲奈はいたと言っても過言ではなかった。
〈貴様がそれでいいというのなら、わしは構わない。しかし、いつかそのことが弘に知れたとき困惑したことになるのは貴様だ〉
「うん、いい……」玲奈はうつむき加減になって言った。
〈そうか、ならばわしは何も言うまい。貴様の決めた道だ。しっかりと心に留めておけ〉
 その言葉を最後に死神は姿を消した。何もないところに唐突に現れたように、また虚無の空間に戻っていった。それが玲奈と死神との初めて出会った日であり、約十年の間玲奈の心の中で忘れ去られることなくしまわれていた出来事だった。出来ることならば永久に弘に知られたくなかった。と玲奈は思っていた。しかし、結局それは破られた。
 死神が弘の冒険の切っ掛けを与えたのだが、それでよかったのだろうかと言う疑問も出る。
 弘は幼い玲奈の様子を見詰めていた。玲奈が弘に“魂”を渡すわけにいかなかった理由、知ったら後悔するとと言った訳、何も言えないから弘を追い返すことしかできなかったことの意味がわかったような気がした。弘は玲奈に助けられていた。
 指を鳴らす音が前触れもなくそこら中に響き渡った。すると全ての動くものの動作が止まり、フェードアウトしていった。次いでその場を支配したのは闇だった。視界は完全に閉ざされて何も見えない。そこに死神がボウッと現れた。何故か、死神の姿は薄暗く発光するものとして見えるのだった。
〈これがことの顛末だ〉淀んだ瞳は弘を見ていた。
「じゃあ、玲奈は全部を知っていたというのか! 死にたくないと俺に涙を見せたのは偽りだったのか? 俺を魅了した玲奈の微笑みは一体何なんだ」
〈玲奈の言葉には一点の曇りも、偽りもない。純粋に貴様を助けたいと思い。玲奈をベッドに縛り付けた病を憎んでいた。病気になって、そう、彼女の言った硝子の箱に閉じ込められたまま一生を終えなければならないことを嘆いたのではないのか〉
「だったら、契約を破棄すればよかった! お前は十年待ったんだろう?」
〈それができない理由が玲奈にはあった。玲奈の生命はもっても数カ月。そうであるからこそ彼女は貴様に全てを託した。結果的に十年前の契約は玲奈の“心”を救うことになった〉
「そんなことは嘘だ。七歳の玲奈が十七で死ぬなんて知るはずがない」
 たった一つの根拠もないのに弘は反論した。ただ、そう、玲奈が死ぬということを認めたくなかった。自分のためだろうと、運命のためだろうと認めたくなかった。玲奈はまだ十七なのだ。これから明るく開ける人生が待っているはずだった。
 死神は首をゆっくりと横に振っていた。
〈そう、七歳の玲奈は知らぬ。わしが十年待った理由も知らなければ満足できないか? 十七だろうと七十だろうと平等に死は訪れる。それには何人たりとも逆らうことできぬ〉
「でも、判断能力なんかなかったはずだ」弘は食い下がる。
〈だからわしは十年待った。わしは判断能力のないものと不公平な契約しない。どこぞの馬鹿共と一緒にされては困る。それにだ今まで生きてこられたのは誰のお陰だ? 玲奈がわしに話し掛けなければ貴様はこの世にいない。貴様の複雑な気持ちも判らないではないがな。──玲奈の心は変わらぬし、もう機会はない〉
「ずっと、ずっと! 俺が玲奈を支えてきたと思っていたのに」
〈結論を急ぐな。十分に議論もせずに出した結論は誤りやすく、致命的になりやすい〉淡々と死神は言った。〈──そろそろ刻限のようだ。玲奈に会いに行こう。わしに付いてこい〉
 弘は死神の言葉に従った。ふと感付けば弘の足音が反響してこだまのようになって聞こえていた。一度体験したことのあるような状況だ。硝子の箱だ。と弘は結論した。ここはもう玲奈の心の内なのだ。恐らく幕切れの直後に死神が弘にそれと気付かせないように連れてきたのだろう。玲奈の中の硝子の床はやはり驚くくらいに強固だった。ただ、弘が来た道とはまた別のようだった。
〈ことの発端は貴様の“死”にあった。玲奈はそれを認めたくはなかった。過去のたった一つの出来事が貴様の生命を救ったと言っても過言ではないかもしれぬ。──覚えているか。白鳥のオブジェのことを〉
「白鳥のオブジェ? 何故お前が知っている。あれを知っているのは玲奈と俺だけのはず」
〈そうだろうな。だが、それについては玲奈が話していた。一番思い出に残っているそうだ〉
「玲奈が親父に殴られた悪い思い出だ」弘は急に声のトーンを落とした。
〈玲奈にとってはそうではなかったらしい。それより後のことだ。覚えていないか? いや、わしが言うより本人に直接聞いたほうがいいかもしれんな。玲奈に会うまでそれ程時間はかからない〉
 再び、弘たちの前には黒曜石のような扉があった。巨大にそびえ立ち彼らの行く先を阻んでいた。
〈弘、この扉の向こう側に行く鍵は貴様が持っている〉
「これのことか?」弘はポケットから鍵をとりだした。それは先程、淡い青色に輝く水晶の部屋に通じる扉を開けるために貰ったものだった。「これで開く?」
〈それで開く。ここは玲奈の魂のある場所。さあ、扉を開くのだ〉
 弘は鍵を右の掌の上に乗せて見詰めていた。手が震えてきた。鍵を開けてしまったら何もかもが終わってしまいそうな気がするのだった。開けなければそのまま玲奈が生き続けるような気もする。しかし、そうならないことも判っていた。弘は鍵を鍵穴に差し込んだ。“後戻リハデキナイ”鍵を回す。鍵の開く音はこの世界の全てであるかのように硝子で囲まれた空間に反響した。扉の取っ手に手をかけ、それをゆっくりと開いてゆく。心臓が不安に早鐘のように脈打っている。
 薄明かりの漏れるその部屋に玲奈は目を閉じて佇んでいた。まるで女神のように弘の目には映った。それから、玲奈は目をすっと開いた。
『また、来ちゃったんだね、弘』首を傾げて玲奈は微笑む。『死神さんに全部理由を聞いてしまったんでしょ? できれば弘にはずっと知らないでいて欲しかったな』
「だが、俺は知ってしまった。──しかし、後悔はしていないさ。以前に言わなかったか? 知っていることと知らないことの間には大きな壁があると。確かに知らないでいたほうが少しは楽だっただろうさ。でも、俺は知りたかったんだ。玲奈が“魂”を俺に渡せなかった理由をね」
『弘らしいといえば弘らしいのかもね』玲奈はため息をついた。『死神さんがこの間教えてくれたわ。私は十七年とちょっとで死ぬことになっていると。弘があの時死ぬことになっていたのと同じようにね。損な取り引きだったと死神さんは言っていたわ。本当は彼も知ってたはずなのに。私の前で分厚い帳簿をめくっていたのを今でも覚えているわよ』
〈貴様の記憶力も大したものだ。普通の人間ならば覚えていないようなことまで覚えている〉
 死神が弘の後から現れて、玲奈に話し掛けた。鎌を肩にかけて刃先を背中の方に向けている。
『よく覚えているのはこの付近の二、三年だけよ。忘れないように心を切り離していたの』
「じゃあ」弘は玲奈を思わず指さした。
『そう、弘は勘がいいわね。あの娘よ。時が過ぎれば記憶は風化するもの。どんなに頑張ったとしても人として生まれた以上忘れてしまうわ。だから、私はあの娘を切り離して時を止めた。あの娘の心は私の心。幼いころの忘れたくない思い出はあの娘と共にある。辛かったことも楽しかったことも、死神さんとのこともあの娘と共にあるわ』玲奈は胸に手を当ててゆっくりと話した。『玲奈、おいで。弘が来たわよ』
 その直後に小さな玲奈がどこからともなく姿を現して玲奈に寄り添った。
〈さあ、玲奈、約束の時間だ〉
 死神は短くそれだけを言った。短い言葉でも玲奈には彼が何を言いたいのかは判っていた。引き渡しの時間だった。この間、彼に二度目に会ったときに決めた時間。玲奈は黙って頷き、淡い青色に輝く水晶のような物体をいとおしげに手に取った。
『硝子の小箱は弘に渡したよね?』玲奈は弘に歩み寄りながら言った。
 気が付けば弘の差し出した両手の上には鍵の代りに先程玲奈から貰ったはずの小箱が乗っていた。玲奈はそのふたを開けると水晶をその中にしまい、死神に手渡した。弘はただその様子を見守っていた。弘に介入する余地はなかったのだ。玲奈と死神との間で取り交わされた契約に弘は文句を言うことはもうできなかった。そう、一度だけ弘の願いを叶える機会を貰いそれに失敗していたから。
〈うむ、これで契約は成立した。貴様はこの世から離れねばならぬが弘は生きる〉
 死神は玲奈の顔を見詰めた後で弘の方を向いた。
「つまり、お前の持っている淡く青色に輝いている水晶のようなものが俺の……?」
〈そういうことになる。貴様はあの時に本来は死ぬはずだった。貴様の生命はあの時に尽き果てたのだからな。即ち、これから貴様は玲奈の生命で生きることになる。刈り取った玲奈の生命は当時の契約の通りに貴様に与えられる〉
「玲奈の生命で俺が生きる……。信じられない」ボソリと弘は言った。
〈あれだけ様々なものを見せられてもまだ信じられぬか? 人間は自分たちの科学の適用範囲を超えたことは理解しようともしない悪い癖がある。貴様らの科学というものがどれだけ狭い範囲しか見ていないのか判らぬのか。愚か者め。信じなくともそれが現実なのだ〉
 険しい目付きで死神は弘を見ていた。少々の落胆を感じたようだった。
「現実とは判っていても人とはそんなものなのさ」弘は負けじと反論したがあまり効果はないようだ。「──もう、どうにもならないのか? 玲奈に長く生きてもらうことはできないのか?」
〈貴様は賭けるものを持っているのか?〉弘は死神の問いに答えられなかった。〈貴様の生命はわしが十年間保留したものだ。貴様に賭けるものは何もない。一度限りの機会もものにできなかった〉
 冷酷に死神は言い放った。確かに死神の言う通りだった。それは無論、死神と玲奈の主張が正しければのことではあるが。正しければ弘には玲奈の“時間”を救うための手立てはない。
「だったら、俺に渡すはずのそれを玲奈に……」
〈それはできない相談だ。玲奈が認めぬかぎりこの契約は破棄できない。仮にこれが貴様のものとなった後でも、玲奈が死んでしまった後では遅いのだよ。心臓が鼓動し、暖かい血が体を巡っている間に“魂”を体に入れてやらねばならぬ〉
 幾分、哀れみのこもった口調で死神は言った。弘の気持ちも判らないではないようだった。死神もこのような状況には何度も遭遇しているのだろう。しかし、彼は同時に非情でもあった。もう、弘には死神の任務を押し止めるだけの理由などない。そんな理由がない限り死神は忠実に任務を遂行するだろう。それが彼の存在理由なのだから。
『だから、私は弘にこのことを教えたくなかったこのまま、弘が何も知らずにいてくれたら幸せだったのに。弘の心に重荷を背負わせたくなかったから私は沈黙を守ろうとしていたのに。最初からこうなってしまうことも判っていたから、内緒にしておいたのに。でも、弘は知ってしった』
〈さて、わしはそろそろ行かねばならぬ〉
「あんたは俺に嘘をついたのか。玲奈を救えるのは俺だけだと言ったじゃないか」
 唐突に、弘は猜疑心の塊のようになって死神を睨んだ。しかし、死神はそんなことは全く意に介していないように平然として様子で弘の問いに答えた。ただ、その淀んだ瞳から発せられる眼光の鋭さは幾分増しているような印象を受ける。
〈わしが嘘をついていたと言うのか? 玲奈を救えると言ったわしの言葉に偽りはない。──哀れだな、弘。だが、わしにしてやれることはもう何もない。刻限まではあと十時間ほどある。それはで玲奈と話をしているといい。手続きが済むまで玲奈は生きている。また、後で迎えに来るのでな〉
 そう言い、死神は弘と玲奈と小さな玲奈の前から姿を消した。彼が次に現れるとき玲奈は死ぬ。
 それにしても何故弘はあんなことを言ってしまったのだろう。それは本人にすらよく判らないことになっていた。理性では判っていたはずなのに。一度機会も貰ったし、玲奈の隠した真実までわざわざ教えてもらったというのに。あんなことを口走っていた。
『弘……。白鳥のオブジェのことを知りたがっていたね』
「ああ」弘は元気の欠けらすらもなく、力の抜けた声で返事をした。
『弘はあの後、気絶した私を連れて原っぱに行ったよね。そよぐ風に吹かれて私が目覚めたとき、弘は私の隣にいてくれた。覚えていなくても何の不思議のないことだし、弘にとっては何でもないことだったのかもしれない。ただ、泣いてた弘を見て私は胸が苦しくなるのを感じたわ。弘が私のために何かしてくれたんだと思った。それだけ……なんだよね。助けたって言うけれどかっこいい理由なんてないんだよ』玲奈は瞳に涙を浮かべていた。
『それに十年経ってもこの気持ちは変わらなかった。死神さんも契約を発効してもしなくても私の時間はほとんど変わらないと言っていたわ。それなら弘に生きていて欲しかったから。それにねっ。弘は結局判らなかったみたいだけど、自動車の硝子片を集めてたのにも訳があるのよ』
 泣きながら様々な理由を語る玲奈の姿を見ていると弘も段々と哀しくなってきた。玲奈が弘にとって気になる存在になっていったのはこんなところに訳があるのかもしれない。一見気丈で、なおかつ健気で切なげな表情など見せない玲奈の淋しげな顔を見たとき弘の心が揺れたのかもしれない。玲奈にシスコンだ、何だかんだと言われても弘の心は玲奈を向いたまま。玲奈もいつしか弘の方を向いていた。そんな時間ももう終わる。
『あれが弘の魂の欠けらのように見えた。なんか、あれを全部集めないと弘が死んでしまうような気がした。そんなことあるはずないのにね。でも、あの時はそう思っていた。一年生の私は漠然と弘がいなくなることの恐怖を感じていたのかもしれないわね』
「恐怖か。──俺は玲奈のいなくなる淋しさとやるせなさを感じているよ」
『でも、もうどうにもできないわ。一度進みだした事象を止めることはできないわ』
「それも判っているさ。本当なら死神に感謝しなければならないことも何もかも。彼と玲奈が会わなければまた違った結末があったのだろうな。玲奈と彼が会い、俺と彼が会ったからこういう結末になった。俺が月明かりの下で彼と会わなければこんな思いをしなくて済んだのかもしれない。──勇気と知力を持つものが生きて帰れると死神は言っていた。玲奈、最後に一つだけ聞きたいことがある。何故、俺なんだ? 何故、俺を生かしておきたかった?」
 弘は最後の問いを玲奈に向けた。現実世界の玲奈には聞くことのできない問い。最も根源的で答えを知るのが恐ろしい問い。玲奈が答えてくれるかどうかも判らない問い。けれども、弘は問う。これから、玲奈なしで生きる自分の支えをつくるために。
 その問いを聞いた玲奈は弘の近くに寄ってきてそっと耳打ちをした。
『──弘が好きだから……』
 たった一言そう言って玲奈は弘の正面に佇み、ニコリと微笑んだ。それは弘にとって何物にも代えられない掛け替えのない微笑み。玲奈の心の奥を知った会心の笑みでもあった。ただ、もう少しだけ早く知っていればと弘は思った。そうすれば、玲奈を連れてきっとあちらこちらに行けたに違いない。淋しげな風が弘の心を吹き抜ける。
『さよなら、弘。きっと、一度だけ向こうの世界でお話しできるチャンスはあるわ』
「俺もそう信じている」
 これで、夢のような出来事は全て終わりだった。気が遠くなっていくように辺りがぼやけてくる。玲奈の顔も緑色に染まった思い出の原っぱも霞んで見えなくなってゆく。幻のように滲んでくる。そして、周囲は闇に落ちた。

 フと気が付いてみれば弘は玲奈の病室にいた。けれども、玲奈はまだいない。
 弘は突然の衝動に駆られて玲奈の病室を飛び出した。ここに玲奈は戻ってこない。そう直感した。夜中の緊急手術のこともあったが、死神の伝えてくれたことが本当ならば玲奈は帰ってこない。だから、弘は病室から飛びだした。弘が玲奈の魂を貰っても貰わなくても玲奈と会えなくなるのはもう、時間の問題だった。
 弘は人影もまばらな廊下を通り、階段を駆け降りた。取り敢えず、手術室に行くことにした。白い廊下に足音だけを残して弘は手術室に向かう。だが、周辺はすでに静まり返っていた。手術室の赤いランプは消灯され手術が終わったことを示していた。思っていた以上に速やかに手術が終了したらしい。となると篠崎を捜すしかないようだ。弘は迷わずに行動を開始した。玲奈の顔が見たい。もうただ、それだけのために弘は広い院内をうろついていた。
 しかし、篠崎を見付けるのは容易なことではなさそうだった。手術がいつ終わったのかも判らないし、篠崎がまだ院内にいるのかどうかも不明だ。ともかく弘は篠崎を待ってみることにする。従って、必然的に弘の足は待合室に向かった。第二診療室で待っていても篠崎がそこに現れるとは限らないだろう。だから、弘は出来る限り広くを見渡せて、人がよく通る場所を選んだのだ。
 時計が時を刻んでいる音が聞こえていた。弘は両手で顎を抱えたまま床のタイルをぼんやりと眺めていた。篠崎がいなければ玲奈の病状も判らなければ、どうしたらいいのかも判らなくなっていた。一人で佇んでいると無力感が弘を襲った。
(……俺が玲奈の支えになっているつもりだったのに。本当は俺が支えられていた。なんてことだ。玲奈に外の世界をまた見せてやるなんて言った俺はまるで道化師のようだ。玲奈は最初から全てを知っていた。自分が死んでしまうことも。それに抵抗できないことも)
(俺は何だ。何のために生かされている)玲奈の選んだ道が弘にはまだ判らなかった。(……好きだから。それも理由の一つだったのかもしれない。でも、それだけじゃないのだろう)
 そこに篠崎がふらりと現れた。非常に疲れているまるで幽霊のようだった。
「弘君。話がある。ちょっと私に付いてきてくれ」
 篠崎は誰もいない待合室で椅子に座っていた弘に声をかけた。それから篠崎は弘の返事を聞きもせずに歩きだした。どうやら、第二診療室に向かっているようだった。弘が最初に玲奈の病状を聞いた場所でもあった。
 篠崎は診療室に入ると窓を覆っていたブラインドを上げた。朝の日差しが入り込んできた。清々しいはずの日差しが何故か淋しく感じられる。玲奈はもうこの光を見ることはできない。そう思うと純粋な思いを抱くことはできなかった。
「正式な検査の結果が出たんだ」篠崎は勢いよく椅子に腰掛けた。
 篠崎はそこで長い間言葉を切った。なかなか踏ん切りがつかないようだった。医者としては事実を伝えねばならない。が、一人の人間として自分を思ったとき弘に告げることがためらわれた。
「先生、もう、遠慮しないで言って下さい」
「単刀直入に言おう」
 篠崎は机の縁をひじ掛けにして、指で机を神経質に叩いていた。また、沈黙する。二人にとって重苦しい時間が流れていく。篠崎は言葉を探し、弘は拳を握り彼の言葉を待った。篠崎が何を言おうとしているのかはもう判っている。しかし、あのことが夢であって欲しいということには変わりない。僅かな期待を持って弘は篠崎の言葉を待っていた。
「玲奈さんは──私たちの技術では助けられない」
 それだけ言うのが篠崎にとって精一杯のようだった。弘にある程度は玲奈は生きられると言ったもののそれすらも無理そうだったのだ。自分自身の技術不足を呪い、玲奈を待ち受ける運命を憂えていた。それは既に篠崎の手の届く範囲にはなかったのだ。
「そうですか……」
 弘もそれ以上の答えは持っていなかった。力の抜けた様子で弘は篠崎の顔を見ていた。篠崎は顎を左手で抱えたままぴくりとも動かないでいる。医学の弱さを痛感しているのかもしれない。彼の顔を見ていて弘は思った。人間など所詮そのようなものなのだと。万物の霊長とはいってもそれは奢りに過ぎない。星の環境を変えなければ生きていけない人のどこが霊長なのか。
 たった一つの生命すら救えないのに。たった一人の夢も叶えられないのに。

 昼も過ぎ、その日の夕闇の押し迫るころ、死神との約束の時間が訪れようとしていた。そして、弘は篠崎の許可を得て玲奈のいる集中治療室にいた。玲奈はもうこの部屋から出ることはないのだろう。そう考えると哀しさが込み上げてくる。やるせなさが心を占める。
 弘は白衣に身を包み頭には髪の毛を落とさぬように白い帽子を被って、マスクをしていた。そして、玲奈の青白い顔を見詰めていた。その澄んだ透明度の高い瞳は閉じられたまま開かない。十時間ほど前まで玲奈と死神と話をしていたなんてまるで嘘のようだ。幻想なのかもしれない。玲奈の病室で眠ってしまっている間に見た夢。だが、弘にはそうは思えなかった。
 と、眠っていたはずの玲奈が目を覚ました。キョロキョロと目だけを動かして辺りの様子を確かめようとしている。それから、玲奈を上から見詰めている弘の姿に気が付いたようだった。弘と玲奈の視線が出会う。
「お兄さん? お兄さんなの?」玲奈はか細い、辛うじて声となるような声で言った。
「ああ、俺だよ」言葉短く弘は答えた。そして、ベッドからはみ出た右手を強く握った。
「──私、お兄さんの夢を見たの。お兄さんは私を“硝子の箱”から連れ出してくれた。……もし、お兄さんが来てくれなかったら私は永遠にあの暗い“硝子の箱”から抜け出せなかったかもしれない。よく覚えていないけど、幼いころの原っぱでお兄さんとお話ししてた」
 掌に乗せた水のように指の間からこぼれ落ちてしまうもの。それ程までに弘が玲奈の心の中で過ごしたことは印象の薄いことのようだった。
「そうなのか」特に言及することなく弘は言った。
「外に出れたのよ。ずっと暗かったのに外に出れたのよ。外があんなに明るかったなんて知らなかった。本当に眩しいくらいに明るかった。心の中でお兄さんと会えてよかった」
 玲奈は本当に何も覚えていないのだろうか。玲奈の細い声を聞きながら弘は思った。一部始終を覚えていなくとも要所要所は覚えていそうだ。ただ、玲奈はそれを語らないだけ。弘の知っていることまでを語る時間がないことを玲奈自身が心得ているからかもしれない。必要なことだけ言葉を選んで話してゆかねば時間が足りなくなる。
「でもね、私は後悔していないんだよ。あの時は、ただ、悲劇のヒロインを演じてみたかっただけだから。偽りの涙──。お兄さんたら簡単に騙されるんだから、つまんない」
「お前のその減らず口は直らないんだな」弘は優しく言った。玲奈が本気でそんなことを言っているわけでないことは弘は知っていた。玲奈の目から溢れ出る涙が全てを物語っている。
 玲奈の好奇心を満たすにも、夢を叶えるにも足りなすぎた時間。けれども、後悔の涙ではない。弘や玲奈の友人たちと別れなければならないことへの哀しみの涙だ。
「死んだって直らないわ」
「死んだって直らないのか? そんな淋しいことは言わないでくれ」弘は玲奈の手を強く握った。
「さよなら、お兄さん。彼が迎えに来ているわ。私の分も生きてね、お兄さん」
〈さあ、玲奈、約束の時間だ。名残惜しいだろうがもう行かねばならぬ。時は待ってはくれぬのだ。玲奈の時間は終わっても弘と貴様の過ごした時間は消えることはない。さあ、たくさんの思い出たちと来るがいい。弘が玲奈に会いに来たとき語る言葉をなくさぬように〉
 心電図計は水平な直線を描いていた。鳴りやまない平坦な電子音が弘の心を貫いた。
 玲奈の声を聞くことはもう二度とない。弘は淋しさを噛みしめながら集中治療室を後にした。彼の去った集中治療室からは篠崎の指示や、看護婦たちの声が聞こえている。蘇生術を始めたのだろう。しかし、玲奈は還らない。そのことは弘が一番よく知っていた。篠崎がいくら優秀で病院に最新鋭の器材がそろっていたとしても玲奈は還らない。それが玲奈の望んだこと。弘が今生きていると言うことが玲奈の遺志。ならば、それを受け止めるしかない。
 だったら、何故こんなにもやるせないのだ。涙が止まらないのだ。
「俺は一体何のために生きていたんだ。玲奈のくれた時間を無駄遣いするためなのか! この十年俺は何をして生きてきた。玲奈の気持ちも知らず、自分のすべきことも見付けられず俺は何だ」
“だったらこれから探せばいいじゃない”いつかそう言ってくれた玲奈の言葉を思い出す。その度に弘の心は苦しさに締めつけられるのだった。生きたくても生きられない人がいるというに、自分が無為に時間を過ごしてきたことが悔やまれる。こんなことになると初めから判っていたのならまた違った道もあったのだろうが、人が未来を知ることはできない。それが弘のやるせなさを増大させていた。玲奈のくれた大切な時間を無駄に過ごしていた。
 弘は再び人でごった返す待合室を抜けて玲奈の病室に向かっていた。今日はまだあいているはずなのだ。通い慣れた階段を上るのも今日で最後だろう。長い廊下を歩くのもこの白い壁を見るのことはもうないだろう。
 玲奈の病室の窓際に弘は座った。昨日まで玲奈はベッドで本を読んだり笑ったりしていた。タオルケットに潜り込んで泣いた姿も忘れられない。しかし、そのベッドに玲奈のいた痕跡はもう何もない。全てが夢のようなのだ。玲奈という妹など最初からいなかったかのように。
 しかし、全ては現実にあったこと。死神との出会い。玲奈の内なる世界を見て回ったことも。そこで玲奈と話したことも。そして、いつでもどこでも弘を見詰めて彼に微笑みかけていたことも。弘の瞼から玲奈の優しい微笑みが消えることはない。弘の心の中で玲奈は生きている。そう思い続けることしか弘にはできない。
 日も暮れて夜の戸張が下りるころ、窓の外では鈴虫が鳴いていた。

(いかがだったかな? 信じられないだろうがこれは現実にあったことなのだ。これはわしの帳簿に記された紛れもない事実。生命とは単純なことではないと示す良い例ではないかな)
(さて、諸君はどのような感想を抱いただろうか。夢物語だって? そうとも言えよう。玲奈の死を間近に見た弘の幻想かもしれない。しかし、本当に理解の範囲を越えたことを幻想、夢物語、ありえないと結論付けてしまってもいいのだろうか。人はある出来事に超常と名付けてしまうと安心して思考が止まってしまうようだが、常識を超えてしまったときこそ考えねばならない)
(こういったときの考え方の差が諸君の人生を決めてゆくのだ)
(一つ一つの対象をじっくりと真摯な態度で見詰め、真実を見極めることが大切だ。それと同時に絶対などということはありえないことを肝に銘じておくことが必要だ)
(人間の最も一般的な価値観で判断すればこのようなことが絶対にありうるはずがないのだから。そのような固まった考え方しかもてぬのなら世界は狭くなってしまう。広い視野をもって物事を見ていれば弘や玲奈のような人とは違ったものが見えるだろう。新しい世界が拓けるだろう。苦境に立っても別の見方ができるだろう──)
(ではまた、機会があれば別の物語で)