<2> 懐かしの我が家へ
“ベイグリフト・セントラシティ”小さな白色の看板が街区を告げている。ひなびた駅前商店街だ。昔のほどの活気は失い、所々で閑古鳥が鳴き始めている。郊外の大型店に客を取られ衰退の一途。商店誘致もままならず、年々淋しさを増しつつあるセントラシティだった。
(前よりも静かになった……。この間まではまだいくらか賑やかだった……)
駅前通りから道を折れて、裏路地へと歩みを進める。ひっそりとしたたたずまい。駅前とは違った人気のなさはゆったりとした時の流れの象徴のよう。幾つかの店は閉じてしまったようだけれども、時から忘れ去られてしまったようにあの日から殆ど変わっていなかった。
「喫茶『停車場』……。ここだ」
地面に、幾分古び色褪せた看板が静かに存在を主張していた。見澄ました店の外壁は木製。現ベイグリフト駅舎が建設される前の旧駅舎を模し縮小して造ったという。だから、店名は『停車場』よく見ると、その看板以外に屋根にも看板が上がっていた。また、窓の向こうには今どきは珍しい“のりほ”がゆらゆらと揺れている。
カララン……、カラン、カラン。
「あ、いらっしゃいませ〜」陽気に明るい声が店に響く。
男はミーナを左手に従えて、店内をぐるりと見渡した。天井から鉢植えの植物がつるされている。木製のカウンター、その隅っこで丸くなっているトラ猫。丸椅子。軋む床。まるで、ここだけ時の流れから隔絶されてしまったかのよう。
「……変わらないな、ここは」ポツリと呟く。
「……ウィル兄さん――」カップを拭く手が止まる。
「ただいま、ベルクール」爽やかな微笑みを浮かべてウィリアムは言った。
「似合わな〜い!」潤む瞳とは裏腹に、ぷ〜っと膨れて見せる。「もう一度、やり直し!」
「そんな無茶な」呆気にとられたようにウィリアムはベルクールの泣き顔を見詰めた。
「聞こえなかったの? ウィル兄。やり直しったら、やり直しヨ……」
そう言いつつ、ベルクールは俯きかげんに左手で溢れてくる涙を拭っていた。ただ、突然の出来事に対処の仕方がなかった。知らぬ間に目頭から流れるしょっぱいものを見られなくなかった。
「……お帰りなさい、ウィル兄さん」
ベルクールの儚い微笑みがウィリアムの胸を締めつけ、心に微かな痛みを与えていた。
「ああ、ただいま、ベルクール……」
細く、けれど、優しさの滲みだした声色。ウィリアムは静かな、床の軋みが店中に響いてしまうのをはばかるような足取りで、ベルクールのいるカウンターに歩み寄った。ミーナはそれにちょこちょこっと付いていく。そしてまた、必死にウィリアムに捕まろうとしていた。
「きっと、お母さんも喜ぶヨ」ベルクールは零れる雫をそっと拭き取り、健気に微笑んで見せる。
けれども同時に、またすぐにこの街から出ていってしまうだろう事も予期していた。
「ね、ベルクール。こ、これが噂の……?」好奇心に瞳をキラキラさせて尋ねている。
「兄妹、水入らずの再開に茶々を入れないでくださる? フィントさん?」
「いいじゃん、ね、別に。悪口じゃあなくて、ピュアな好奇心からなんだから」
「何が『ピュア』なのよ。不純の塊みたいなくせしてぇ」
「でもでも、情報通のフィントさまとしては放っておけないのよね〜」
「自称でしょ、じ・しょ・う! 単なるゴシップ好きの間違いじゃないの?」
「ハハ、いいんだよ、ベルクール。聞こえているよ、そこのお嬢さん……。全くもって、噂の兄貴ですまんね。レイトグリフ兄貴のようにそれほど出来が良くないものでね。こうして放浪中というわけサ」
「ふらふらしてるの?」
「ああ……、ふらふらしてるよ……、どうせねぇ。オレは放蕩もんさ」
「自虐癖なんてあったかしらね、ウィル兄さん」
「ないよ、そんな癖」
「フフ。まあ、いいかしらね」
ふっと遠い目をして、それから、ウィリアムの目の上にベルクールの視線が戻ってくる。
「そ・れ・で! ウィル兄さん、その子は……?」
ベルクールはカウンターから身を乗り出して、ミーナに両手を差し伸べた。すると、ミーナは不信感を抱いたりするわけでもなく、ベルクールの右手をぎゅっと握ってにっこりとする。ベルクールは微笑み返すとわきに手を入れてひょいと抱き上げた。
「?」ミーナはしばらくの間キョトンとして、ウィリアムはずっとベルクールの行動を追いかけた。
「ああ、ミーナの事か? 拾った」急に我に返って、ウィリアムは言う。
「拾った?」
「ああ、拾った」
「拾ったって小猫じゃあるまいし……」
「ミーナは小猫みたいなものさ」
「そうなの?」
ベルクールはミーナの瞳をじ〜っと見詰めて、フイッとウィリアムの眼を覗き込む。ミーナはやはり不思議そうな表情をしていて、ウィリアムは心なしか困ったような顔をしていた。
「でも、少なくとも言い訳くらい考えておかないと、レイ兄さん怒るわよ〜。帰って来るたびに訳の判らないもの連れてきてって」
「トラ猫のミーくんは訳の判らないものじゃないだろ? 今じゃしっかり、アイドルのようだしな」
「悪いとは言ってないよ。わたしとレイ兄さんを納得させられる訳があればね……」
ちょっとだけミーくんの方に視線を逸らす。彼女は人間たちの会話などには興味ないようで、突然の訪問者たちの挙動にはまるで無関心。自分のテリトリーを荒らされなければいいらしい。
「説明したら一日はかかる。それにな、兄貴がどう思ったって構わない」
場の雰囲気が悪くなる。フィントは興味津々とばかりに目を爛々と輝かせて聞き入っている。
「……ま、取り敢えず珈琲でも飲むか!」ベルクールは朗らかに言う。
ベルクールは抱き抱えたミーナをストッと床におろすと、珈琲を入れにかかった。パタパタと靴音を立てて動き回る。きちんと豆から挽き直し。もう一度お湯を沸かして、ペーパーフィルターも取り換えて、ちゃんとしたお店の珈琲をウィリアムに出すつもり。
「さて、当店自慢のブラック珈琲はいかがですか?」
ベルクールは満面の笑みを浮かべ、得意げに言う。けれども、ウィリアムの意見は違うようだ。
「――ベルクールのはいまいちなんだよナ」
「あら、ウィル兄さん、何か言いたいのかしら」
「そうそう、ベルクールのはいまいちあれなのよね。ネ、お兄〜さん!」
「フィントは黙っていなさい」ベルクールはキッとフィントを睨んだ。
「修業がたりんぞ、ベルクール!」ニヤリとしてウィリアムは言う。
「だあって、お母さん、コツは自分でつかめって教えてくれないんだもん!」
「ハハッ! そう言うことか、ベルクール。うん、美味いよ。今のベルの実力からしたらね」
「な〜んか、感情がこもっていないのよねぇ〜」少々不満そう。けれども、カウンターでほおづえをついて、ウィリアムを見つめる瞳は暖かかった。
「そうか? だが、お店の看板商品にするにはやっぱりちょっとナ……」
「判ってるけどサッ……」上目遣い。「わたしの技じゃあ、未だ及ばずってトコなのよね。だからサ、もう少しお時間を頂けたらなと思うんだけど……ナ」
「――この分だと店が潰れるのが先じゃないのか?」
「な? ちょっと、いくら何でもそれはないんでない? ウィル兄」
「でも、それって、正論だと思うナ」フィントがここぞとばかりに口を挟む。
「だ・か・ら! あんたは黙っていなさい。フィント」
「はぁ〜い」肩をすぼめてうつむいて、小さくなってかしこまる。「でも、サ」
黙れとばかりに激しいベルクールの視線がフィントの上に突き刺さる。
その時、カウンターの隅っこで丸くなっていたミーくんの耳がピクリとした。それから、むくりと起き上がるとカウンターの上を静々と歩いてウィリアムとベルクールの前で澄まして鳴いた。
「ナ〜〜」
「どうかしたの? ミーくん」
トントントン、戸口から靴を鳴らす音が聞こえてきた。外灯に照らされて人影がちらちらと踊る。その様子は中の雰囲気を感じ取ろうと色々思案しているように思えた。カラ、カラランラン。諦めたのか、何かを掴んだのか、扉が開いた。すると、長身のシルエットだけが浮かび上がった。 |