fairyfiery

<4> おはよう、ベルクール


 

『お兄ちゃんなんか、大嫌いだ!』
 記憶の狭間から、不意にそんな呼び声が沸き上がった。誰が叫んだのだろう。どこで決別の言葉を放ったのだろう? 子供の甲高い声で、瞳は潤んでいるように見えた。
『お兄ちゃんなんか、お兄ちゃんなんかぁあぁ』
 どこかで微かに緋色の閃きが感じられた。その場はとても熱くて灼熱の地。夜なのに昼のように明るくて、ワイワイガヤガヤと何かを見詰める烏合の衆がいた。それは……?

「おはよう、レイ。今朝も早いな」
「ああ、オレの出来るのはそれくらいのものだからね」
(あれは……誰だったか――)
 上の空。無意識のうちに返事をし、漠然とした気持ちで毎日の繰り返しの行動をする。ロッカー室で仕事着に着替える。それから、朝礼があって煩雑な一日が始まる。
「レイ?」挨拶をした同僚は訝しげ眉をひそめ、名を呼ぶ。
「あ、ああ? 何だ、リーブス」心臓がドキリとして、そちらの方を振り向いた。
「どうかしたのか。朝っぱらからぼんやりしてるぞ。――ははぁ〜ん、さてはベルさまと喧嘩でもしてきたのか? お前ら、他愛のないことでよく喧嘩するよな?」
「いや、今朝は違うんだ」短い間、話そうかどうしようかと迷う。「……昨日、弟のウィリアムが帰って来てね」
「それで、早速、喧嘩の上にご機嫌斜めか。レイはかたいんだとか何だとか言われたのか?」
「ま、そんなようなもんだ」頭をポリポリとかく。
「いつもはクールなくせに、弟のこととなると感情的になるのな。おかしなもんだ」
「無理さ……」レイトグリフは済ませると、きゅっと帽子を深く被った。「ウィルの方が喧嘩腰だ。――無論、オレに非がないとは言わないがね」
「何だかんだ言っても、結構、楽しそうだな。言葉でそう言っても、心の中では……か?」
「かもしれん」憂いを含んだ複雑な顔。
 あれはいつの頃からだろう。泥んこになって笑いあったあの日はどこに行ったのだろう。近所の空き地、資材置き場。立ち入り禁止の有刺鉄線、剥き出しの土管下水道。危険なんて知らずに、怖さなんてどこ吹く風で二人、駆け回っていたころ。
「レイ? 今日は少しおかしいぞ。帰って休んだほうがいいんじゃないのか?」
「……いいんだ。大丈夫」
「ホントか? 一日くらいならお前なしでも何とか」
「心配してもらって済まんが、病気でもないのに休むわけにはいかんさ」
 レイトグリフは振り向きざまリーブスの肩をポンと叩いて、ロッカー室をあとにする。
「ホラ、のんびり着替えなんてしていたら、局長が真っ赤になって怒りだすぞ」
「うへ、もう、そんな時間なのか? 局長にどやされるのだけは勘弁だゼ」

「お兄ちゃんなんか……、大嫌いだ……か」
 ウィリアムはベッドに転がって天井をボーッと眺めていた。雨漏りの描いた年輪のような縞模様を感じては、この家、喫茶『停車場』が出来てからの月日の流れを思ったりもする。
「フフ、二年ぶりにベイグリフトに来たせいか、嫌な夢を見たもんだ」
 ウィリアムは眼を閉じて物思いに耽る。
「オレはまだ、あの頃の気持ちを引きずっているのか。――あれは誰のせいでもなかったはず」
「ウィル兄! いいかげんに起きなさいヨ! もう、お昼なんだからネ」
 階下から、ベルクールの苛立たしげな怒声が聞こえてきた。
「他ではどうだったか知らないけど、ウチじゃあ、これ以上の寝ぼすけタイムは許さないヨ」
(ベルのやつ、ますます、お袋に似てきたな)
「起きてるよ、ベル。オレだってそんなにいつまでも寝てはいないぞ。脳みそがとろけちまう」
「アラ、そうなの? もうとっくにとろけちゃってるのかと思っていたワ」
 まるで容赦のない言い方をする。だけども、それはウィリアムやフィントと言った仲だから出来ること。フツウのベルクールはとってもお淑やかで絶対にそんなことは言わないし、しない。
「いくら何でも、それは言い過ぎだぞ、ベル」
「ハイハイ、判ってるから、早く降りてきなさい」
 聞く耳もたず、ベルクールはウィリアムの言葉を意に介さずに、ブランチの準備に取り掛かる。とは言っても、既に面倒くささが先に立っているので、珈琲と食パンの簡素なものだ。
「おはよう、ベル」そこへ、ウィリアムがトタトタと階段を下りて、店に姿を現した。
「おそようでしょ? ウィル兄」珈琲を淹れながら、瞳はウィリアムに固定する。
「……おそよう、ベル。――だがな、珈琲、溢れているぞ」
「あ、あら、ヤダ」ホホホと笑って誤魔化してみる。
 カップに居場所を失った焦げ茶色の液体はカウンターの上に小さな水たまりを形作っていた。ベルクールとウィリアムでそれを覗き込むと、水面がゆらゆら揺らめいて二人の顔がゆがんで映る。
「昔は雨上がりの水たまりを蹴飛ばして歩いたもんだな」
「そおなの?」
「ベルは女の子だからな、そうはしなかったのかもしれない」ウィリアムはどこか、懐かしさを滲ませながら言う。「そう……、いつも、兄貴がいたよな。資材置き場で秘密基地ごっこ。夕暮れがやけに早くて憎らしかったけなぁ」
 パンを口に運んでモソモソして、苦い珈琲をがぶっと飲む。
「あの頃は……こんな未来なんて考えもしなかったな。霞の向こうだった」
「ふ〜ん?」興味なさそう。手許を見て食器洗いだ。「わたしは……見えていたヨ」
「どんな未来?」
「こんな未来」間髪入れず、すぐさま答える。
「はぁ?」
「ウフフ、ずっと、喫茶店を営んでみたいと思っていたわ。子供の頃からね。あとは素敵なだんな様だけなんだけどな。なかなかいないのよネ〜、これが」
「だんな様よりも先に、珈琲を淹れる腕じゃないのか? ベルは?」
「それは言わないヤ・ク・ソ・クよ」ウインクして、ちっちっちと左手の人差し指を左右に振る。
「約束をした覚えはないけどな。――そう言えば、ミーナは?」
 このままでは“お見舞い”は時間の問題と話題を切り替える。ベルクールとお母さんはウィリアムの中で、苦手の一位と二位を占めているから二人に囲まれた日には最悪だ。どうしても、逃れたくて仕方がない。これが最後というわけでないから。
「あ・そ・こ・ヨ」ベルクールは頬杖をついて、そちらの方を指した。
「ふん……、そうなっているのか……」
 ベルクールの指し示したテーブル席を見やると、ミーナとミーくんが遊んでいる。いやいや、ミーくんがミーナに遊ばれている。ミーくんはその場から逃げたいらしいが、ミーナは放そうとしないでいる。
(ベルクールはカウンターの裏。ミーナはミーくんと戯れ中。――今が、チャンスか?)
「ミーナ〜、オレちょっと、ごめん、夕暮れまで一人でいてくれ!」
 と、言うが早いか、ウィリアムはやにわに立ち上がると、戸口に踵を返した。それからは一目散。カランコロンと鈴を鳴らす前に、扉の押し引きを間違うも束の間、ウィリアムの姿は窓の外。
「あっ! 逃げたな、ウィル兄!」けれど、予期していたのか取り乱す様子もない。
「すまん! ベルクール。この埋め合わせはそのうちするからな。ミーナで我慢してくれ」
 去り際のウィリアムにベルクールの声が届いたのか、大声が返ってくる。
「!」
 ウィリアムが逃げ出したことに気が付いた。ミーナはミーくんをほっぽり投げて、外に飛びだした。でも、手遅れ。遠くに走ってゆくウィリアムの何だか情けない姿が、ちょっぴりの悲哀さを感じさせながら見えるだけだ。
「! 〜〜!!!」
 ミーナはジタバタしてウィリアムを引き止めようとして、途中で諦める。ちょっとの間だけしょぼんとすると、また、ケロリと忘れてしまったかのようにニコッとしてベルクールの上着の裾を引っ張った。それは『ウィルなんて放っておこうヨ』と言いたげだ。
「全く、困った兄貴だヨ。まるでガキンチョだもんねぇ。あれで二十代も半ばだって言うんだから信じられない!」腕を組んで右足でトントンと床を蹴りながら、ぷんぷん憤慨する。
「ま、いいワ、わたしたちだけで行きましょ、ミーナちゃん」
 ミーナはニコリとして頷いた。既にウィリアムのことは思考の外にあるようだ。
「……でも、鍵、閉めとけば良かったわネ。そしたら、見物だったヨ、きっと」
 ベルクールはミーナの碧眼を見詰め、ミーナはベルクールのとび色の瞳をキョトンと眺めていた。どこか楽しげで、どこか非日常的。普段の喫茶『停車場』では見られない光景の一つだったからかもしれない。
「じゃあ、パッと行ってきましょうか!」
 喫茶『停車場』に本日休業の札を掛けて、ベルクールとミーナは昼の街に繰り出した。