<13> 遠き思いは炎に還る
フィントの前口上が終わると、事は始まった。幻想的。少し濁った水だけど、そんなのは気に留めるほどのものではない。水が自らの意志をもって動く。奇怪でありつつ、誰しもの心を捉えてはなさい。夢を見ているのだろうか? フと考えたくなる。
「ミーナ、こっちに来て」
「?」ベルクールの傍から離れて、トトトとフィントの前にやってきた。
「いい? 流れてく水に『凍れ』って念じるの。他に何も考えなくていいから……」
「!??」ミーナはフィントの言ったことに困惑して、周囲にオロオロと助けを求めた。
「何も……心配は要らないヨ。ミーナにはそれだけの素質がある。だから、お願い。水蒸気が上がりすぎると――圧力鍋みたいになるよ。だったら、床の凍ったおかしなサウナの方がましでショ」
「……」心を決めて、真剣な眼差しをフィントに向けながらコクリと頷いた。
「ありがとう」
すると、見る間にファンタスティックで気味悪いの光景が広がっていく。熱いタイルに触れるとジュッと瞬間に蒸発してしまう。それからがフツウと違っていた。ミーナの放つ強烈な冷気が水蒸気を元の水へとあっという間に状態変化させてしまうのだ。
「これって、凄いことなのかしら……ネ」
「多分……そお……なんでしょうね〜」
あまりに現実離れしていて、リアリティーが感じられない。
水と冷気で熱いタイルが完全に冷えてしまうと、今度は前線を追いけるように水が凍りだす。スベスベのスケートリンクというわけにはいかないけれど、磨りガラスのような氷の向こうには無残な姿を晒すコンクリートの土台とプラスティックの燃えかすが見える。
「さ、こっちへ……」レイトグリフが言った。
非現実的な現実の中を四人がレイトグリフとウィリアムのいるほうに来た。これですぐそこの本館への渡り廊下まで行けるはずだった。
「何か、全然、リアリティーが湧いてこない……」
おどけた顔を見せてベルクールはレイトグリフに抱きついた。
「む〜〜。焦げくちゃい。でも……」消防服に顔付けてしまったので、ススだらけの顔でレイトグリフに微笑んだ。「ホントに会えてよかったヨ。もしかしたら、このまま会えないのかって」
レイトグリフはベルクールの髪の毛をクシャッとした。
「安心するのは、まだ、早いんだゾ」消防士の顔ではなく、優しい兄の顔。
「――ガンフォードさん、ガンフォードさぁん」
と、そこへリーブスの声が届いた。ずっと向こう側から走ってきたようだ。消防用品の重装備をガチャガチャと鳴らしながら駆け寄ってくる。多少の煙が上っていたからリーブスにはレイトグリフたちの様子は全く判らない。手探りで進む雰囲気がそこはかとなく感じられていた。
「こっちだ、リーブス!」怒鳴る。それと同時に煙と微かな水蒸気の陰からリーブスが現れた。
「そこか、レイ! ぬお!」勢いよく滑って転んだ。「何だよ、これは」
「『何だよ』とは何だよ、リーブスくん!」空中で仁王立ち。
「え?」よく聞いたことのある女の声。けれど、声はすれども姿は見えず。リーブスの見る方向にはどう疑ってみたところで、その声の主とは違う四人がいるだけ。
「……ハイハイ!」パンパンと手をたたく音がする。「もっと上を見よ〜ね〜」
「――」目を丸くした。「レイ。詰まる所、さっきの話は……」
「ああ、本当だってことだネ」途切れた言葉を補って伝える。
「はぁ、まあ、何というか。筆舌に尽くしがたいとはこう言うことを言うんだろうか」
妙に感心した様子でリーブスは自分を見下ろすフィントを眺めていた。
「ザ……一班、そちらはどうだ? 梯子車は既に待機させた。応答せよ」
いきなり、無線が入った。リーブスは立ち上がろうと試みるが慣れない氷に滑って立てない。ついでに色々な装備を背負っているものだから、重心が後ろにあってそれに拍車をかける。
「今、渡り廊下のところにいる。上げてくれ」
「本部、了解した! 渡り廊下の窓を開け……或いは割って待機せよ」
「リョウカイ! けど、フライパンがオーブンになりつつある」これはウィリアム。
「あ? ともかくちょっと待て」無線の相手は訝しげな目付きでレシーバを眺めたのに違いない。
「――手回しがいいな、リーブス」
「そう思うんだったら、取り敢えず手を貸してくれ!」刺すような視線を向けながら悪態をつく。
レイトグリフは笑いながらリーブスに手を差し伸べた。
「よいせっと」おかしな掛け声がでてしまう。
「新館は全焼だな、これは……」助け起こしてもらったあと、リーブスが漏らした。「レイが、ウィリアムのところに駆けていったあと、しばらくして、東区三階の床が落ちた。もう、下手をしたらあっちの方は倒壊しているかもしれないぞ?」
「だが、鉄筋コンクリの柱くらいは残るだろ。普通の火事なら」
リーブスの言葉に応えてレイトグリフは急いで渡り廊下へと走った。今更、放っておかれることもないだろうが、合図を送らなくてはならない。窓から地上を見やるとちょうど梯子が上に延びてくるところだった。スライド式の窓を開けて居場所を知らせる。
(これで終わる……)レイトグリフは安堵のため息を漏らした。いつもの現場では考えられないこと。全員が炎の恐怖から完全に逃れるまでそんなことは考えないはずだった。
「レイ兄は知ってたの? フィントが妖精だったって事」
「あ?」ちょっと驚いて声が裏返った。「知ってたよ、ずっと前から」
「まあ、あれだけのお鈍さんなら、気が付かないかもね」
フィントがレイトグリフの横に飛んできて、ベルクールの顔を得意げに眺め回す。『流石はわたしのレイトグリフ』と言いたげで、フィントはご自慢のレイトグリフに鼻高々らしい。
「じゃあ……ミーナは?」キッとフィントを睨みながら、声色だけ優しそうに問う。
「……そう、ミーナも妖精だ。フリージングフェアリー」
「ウィル兄さん……」
「“声”のない妖精は姿を変えられない……。“声”は妖精にとって全て、魔力なのに」
「だから、妖精はお喋り好きなのさ」説明にはなっていなかったけれど、ウィリアムには通じた。
「お喋り好きね……、お喋り好きか……。……長老さまに会えばいいのか?」
物思いに耽り、空中を彷徨っていたウィリアムの視線がフィントの上にはたと止まった。
「え?」瞬間、嫌な顔。
「長老さまに会えば、もっと、ミーナのこと判るのか?」
「――」目を閉じて、フィントは静かに首を横に振った。「今のミーナを誰よりもよく知ってるのはウィル兄だよ。昔の……私たちがよく知ってる、ブレーズの好きだったミーナはもういない」
「つまり、何」訝しげに問い返す。
「だから! どうして、この朴念仁は!」
「判ってるよ……。でも、“声”は取り戻せるんだろ?」
ホンの少しはフィントが答えてくれるのではないかと期待していた。
「多分ね。……長老さま、会ってくれるのかしら」憂いを含んだ視線が中を漂った。「結局、あれは――ミーナの独断でやったことだから。そして……十二年もかかった」
困ったようなフィントの眼がウィリアムに掴まっているミーナを向いた。
「つまり……知らないってのは嘘だったってことだな。あの瞳にすっかり騙されたよ」
「それがミーナの望んだことだから――。ま、あんだけで騙せた人は初めてかナ?」」
「だけれど、やっぱり、このまま帰すわけにはいかない」涙声と涙ぐんだ瞳が痛ましい。
「ブレーズ! まだ……いたんだ」
「いたよ!」噛みつきそうな勢いでフィントを睨む。「グシュン。こいつらがいなくなればミーナはきっと戻って来るんだ」
「……」フィントは瞳を閉じて静かに首を横に振った。「無理だよ」
「無理じゃない!」譲らない。
「どうしてこう、どいつもこいつも分からず屋なのサ。大体、あんたが悪いんでしょ? あんたがあの時……!」フィントはハッとして言葉を切った。
「ちょ、ちょっと、レイ、レイ? わたしたちのことは放っておいても大丈夫だから、先に避難してね」よっぽど慌てたのか吃ってしまう。ブレーズに余計なことを言われてはたまらない。
「だって、あの時はああするしかなかったんだ。ミーナが、だって、ミーナがあんなことするなんて思わなかったから。だから……未練を断ち切るにはそれしかないんだ」
「し〜っ! ブレーズ、ちょっとこっちに来なさい!」
フィントはブレーズの耳を思いきり引っ張った。
「痛ててて。何すんだよ、フィント!」
「要らないこと口走ったら、ミーナの思いが台なしになっちゃうでしょ!」
「うえぇぇ〜〜〜ん! だったら、オレにどうしろって言うんだよォ〜」
呆れ返ってものも言えない。だけれど、皆はそんなブレーズを好きだった。
「……帰りなよ。ミーナの好きだった場所へ――」ため息交じりにフィントは言った。
「イヤだ! 追憶に身をやつすくらいなら、思い出を燃やして過去へ還る!」
ぱぁあん。微かな騒音を残して辺りが一気に静まり返った。澄み切った力のこもった音。フィントの涙。激しい息遣いと震える肩。揺れる目線。
「……」頬を押さえたブレーズの呆気にとられた瞳がフィントに釘付けになる。
「あんた何様のつもりなの?」手厳しい発言。「あんただけが辛くて哀しいんじゃない! あんただけが大切なものを亡くしたワケじゃない!」声が震えていた。「ここにいる人たちがあんたのせいでどんな十五年を過ごしたのか、考えたこと、あるの……」
フィントの問い掛けに、ブレーズに答えられることは何もなかった。
*
そして……。
「あ〜あ〜。何もかも燃えちゃったね、病院」
ベルクールはたくさんの赤い消防車の陣取る正面広場から、煤けた白の建物を見上げていた。窓は至る所で割れ、未だ炎が上がっていた。それはブレーズの点けた恨みという名の火。
「火元の調理場は鎮火したのか?」誰かの声がする。
「ああ、一応はな。だが、延焼の方はどうにも……」
「お母さん。もう、大丈夫だからね」
「……今日は――いっぱい、妖精を見たね。フィントに、ブレーズに、ミーナ。懐かしい顔触れだね。皆。どこから、擦れ違ったんだろう……」シスケットは空を見詰めていた。
「おかぁさん。皆、知ってたんだ。――知らないのは……わたしだけ?」
淋しそうにベルクールはポツンと呟いた。ずっと昔、自分の覚えていない時からの思い出が尾を引いている。何でもなかったはずの日常の裏にはそんな忘れられない思いがあった。
「シスケットさぁ〜ん」さっきまで一緒にいた看護婦さんの声がした。「本館の方に、受け入れの準備ができましたから……。取り敢えず……」看護婦さんは新しい車椅子にシスケットを促した。
「――誰もホントウのホントは知らないのよ。知ってたのはお父さんだけ」
「お父さんだけ……?」
「そ。前は皆仲良しだった。――また、……昔のように戻れたらいい」シスケットは車椅子に腰を下ろした。「昔のような……笑い声の絶えない、そんな楽しげ場所に――」
「フィントとミーナちゃんがいたらドタバタ喜劇調のお店になるヨ?」
「ふふ」ホッとしたような笑い。「それもいいかもしれないね」
「そろそろ〜、行きましょうか」会話の合間を狙って看護婦さんが言った。
「あ、わたしも一緒に行く。レイ兄、ウィル兄。また、あとでお話しよネ」手を振る。
「……なあ、兄貴……。出来れば、ブレーズに思い出も燃やして欲しかったよ――」
ベルクールとシスケットを見送って、ポツリと漏れたのはウィリアムの本音だったのかもしれない。燃え上がる『停車場』を愕然と見詰めたあの日まで戻れたのなら。レイトグリフとの間にわだかまりを残しまま今を迎えずに済んだかもしれない。
「いいや。このままでいいんだよ」蚊の囁くような声をレイトグリフは聞いていた。「直すものも消すものも何もない」レイトグリフは静かに首を横に振った。「そもそもいいか? 過ぎた時間をやり直そうだなんて甘えなんだよ! だから――」
「振り向いて後悔なんかしないように先へ行け!」ニヤリとした含み笑い。
「……。オレの話を邪魔するな!」
「でもいいじゃん。どうせ、言うことは当たったでしょ?」
フィントの澄ました語調にぐうの音も出ない。ついでに、いつからフィントに尻に敷かれっぱなしなのかは皆目見当もつかなかった。おかしい。
「おい……」そこへ僅かの間姿を消していた、リーブスが戻ってきた。「言い訳……。少しは考えているんだろうな? 局長。カンカンでレイを捜しているぞ、どうする」
「う……」背中に冷汗を感じた。「まあ、言いたいのはそ、言うことだ。オレは仕事に戻る……」
スッと背を向けてレイトグリフは去る。
「済まないね、ウィル。レイは貸してもらうよ。仲直りの挨拶はあとでゆっくりしてくれ」
「ああ、そうさせてもらうよ」ウィリアムは静かに言った。 |