sharon

05 神の意志……クレアの長老はシャロンに伝説を語った。


 

 シャロンはリョウに言われたように地下の奥の部屋に向かっていた。そこではクレアの族長がシャロンの知りたい真実をもって待っている。期待と不安が入り交じる。会えばここに連れ去られた理由が判る。シャロンが物心ついてからもち続けていた謎を解けるかもしれない。しかし、同時にそれは知ってはいけないことのような気もしていた。全てを知れば何かが瓦解するのではないかと。 
 暗い廊下の突き当たりに辿り着いたいた。左手の方を見るとこんな辛気臭い地下には不似合いな重厚な扉が見える。木製の扉にはシャロンの知らない鳥の紋章が刻まれていた。それを開ければ色々と知ることができる。しかし、シャロンはしばらく固まっていた。 
――娘よ、そこにいるのだろう。立ち止まらず入ってくるがいい。 
 ぴくっと体を震わせた。突然、呪縛から解き放たれたようにシャロンは動きだした。手がノブに伸びる。開いてしまえ。開けば楽になる。感情はそうシャロンに問いかけていた。その感情に素直に従えば心臓のバクバクと不快な緊張感の鼓動を感じなくても済む。 
 シャロンは心に従い重い扉を開けた。扉が軋んだ。内側は廊下よりも暗い。中には燭台も明かり取りになるようなものはない。廊下からの光が扉の隙間から漏れてくるくらいだ。シャロンの目にはまだ、何も映っていない。 
「君がシャロンか。シャロン・クロフか……」 
 しわがれた重みのある声が奥から聞こえた。誰もいないように思えるのに声だけが耳に届く。それはシャロンの心の同様を悪戯に高める役目しか果たしていなかった。数十秒の間を置いてシャロンは頼りなく声を発した。慎重にできるだけ短い言葉で、相手に失礼にならないように。 
「――どうして、私の名を知っているの?」 
「それが運命だから……。運命にそって物事が動いてゆくかぎりわしの知らぬことはない」 
「うん……めい?」半ば茫然とした様子でシャロンは言った。 
「そう、運命……。人の力だけではどうにもできぬものそれが運命だ。――わしと君がここで出会うこともその運命によって決められていたこと。さあ、シャロン、立ち話もなんだ。そこの椅子に腰掛けるがいい。捕って食おうと言うんじゃないんだ安心して座りなさい」 
 ようやく目が暗さに慣れてきたころ、シャロンの瞳に映ったのは奥行きのある老人だった。 

* 

「シャロン、大丈夫かしらね……」心配そうにティアが言った。 
「多分ね。シャロンは君が思っているほど弱い子じゃないさ。見なかったのか」リョウは顎の下に手を組み、目は遠くを見詰めていた。「シャリアン城を出るときの彼女を。あれが普通の娘だとは俺は思えない。戦場で取り乱しもせず、泣きもしない娘など初めて俺は見た。――じいさんが何もかもを、シャロンが生かされている理由を話しても、きっと毅然としていられる。しかし、シャロンがそのことを受け入れるかどうかはまた別の問題だ」 
「でも、望むと望まざるとに関わらずシャロンなんでしょ?」 
「残念だがね。シャロンは女神の血など引いていないと言っていた。本当にそうだったら良かったのだろうが、現実はそうではなかった。あの娘は知らないんだろう? 自分の出生の秘密も何も。ファメルの両親の元に生まれ育ったと信じているんだろ? シャロンにとって辛いほうに時間は進んでいる。運命なんてものがこれほど憎らしいと思ったことはないよ」 
 弄んでいた珈琲カップを口元に運ぶと一気に飲み干した。 
「そして、そんなシャロンと関わりをもってしまった俺たちもまた辛いのさ」 
「ええ……、そうね」 
 そのまましばらく二人は沈黙していた。カウンターの奥の方では店の主人が洗い物をしている。時折、カチャカチャと食器同士のぶつかる音がする。それ以外、店内は静かだった。深夜を回ったばかりの時間に客など来なかったし、外も異様なくらいに静まり返っていた。壁の燭台で蝋燭の芯が燃える音が微かに聞こえている。怖いのかもしれなかった。シャロンが覇気を失わずに戻ってこれるのかどうか気にしているのかもしれなかった。シャロンの気持ちがどうなろうとクレアの連中には関係のないことのはずだったのに。 
「リョウ、シャロンとは無関係にことを進めることはできないのかしら」 
「できるならとっくに黄泉など封印している。じいさんが言うにはシャロンの血しかないそうだ。それも大量に! 封印を刻んだ石盤が真っ赤になるまで必要だというんだ。そうやって女神が封印したというんだ。そして、セレスに全てを託してシャロンは消えた。黄泉の力を抑えるのにはそれだけの犠牲が、代償が必要なんだ。それはティアも判っているだろう」 
「反乱軍や正規軍の間にも戦死者が出ているしね。もう、止まれないか……」 
「これから犠牲になる人たちのことを考えれば――シャロンの死などないに等しい……」 
 喫茶店の中には重苦しい空気が流れていた。ティアはリョウの口から冷酷な言葉を引きだしてしまった後悔からかうつむいたままでいた。ここにいた人は誰もシャロンの死は望んでいない。だから、悩み傷付き、シャロンに嘘も言った。シャロン一人の命とシャリアン市民全ての命か。天秤になどかけられない命というものを相手にクレアは立ち止まっていた。 

* 

 老人はシャロンの心を推し量るかのようにその瞳を見詰めたまま、あれから一言も喋らずにいた。シャロンも老人の濁りかけた瞳を見詰め返していた。 
「わしに尋ねたいことがあったのではないのかね。押し黙られたのではわしも困る」 
 シャロンは驚きの表情を見せた。向こうから自分の知りたいことを喋ってくれると思い込んでいたがそうではないようだった。シャロンは引きつった笑いを見せて何かを言おうとした。どれから聞いたらいいものか整理がまだついていない。 
「あの……、取り敢えずあなたのお名前を教えて下さい」 
「ジャンリュック・クレア。この町の最長老だ。一応な。――さあ、聞きたいことを問いなさい。時間はあまり残されていない。次の新月まであと二日しかない……」 
「それが私に残された時間なのですか? もし、本当にシャリアン公爵の言っていることが事実だったのなら私はもうあと二日しかこの世に留まっていられないことになる。でも! クレアは私を守ってくれるんでしょう? 信じたくないけど、黄泉から守ってくれるんでしょう? 私はシャロンの血を引くものでも何でもない、ただのどこにでもいる女なのに。どうして……」 
 再び泣きそうになりながらシャロンは喋った。 
「……何も認めたくないか」ジャンリュックはため息をつきながら言った。「認めたくなくとも無理はないのかもしれないが……。いいか、シャロン、よく聞くんだ。君はこの町を黄泉から守るためにどうしても必要なのだ。君がその気になってくれなければ効力は発揮されない」 
 ジャンリュックは幾つかの核心を外しながら言った。ジャンリュックとてシャロンの気持ちを考えればやすやすと全てを話してしまうことはできないのだ。シャロンの決意をもってすれば黄泉の封印を強固にし、恐怖と絶望をもてば封印が解けてしまう。女神シャロンのかけた封印とはそのようなものなのだ。月の魔力の弱まる新月も然ることながら、人々の現状に対する不満や鬱積が黄泉の復活を手助けしている。 
「それはどういうふうに受け取ればいいの。私は何のためにここにいるの?」 
「君は、もう何度もピクサスから聞いただろうが、そう――シャロン、その名をもつものは黄泉の封印を司る。いや、そんな生易しいものではないな。どう言えば適切だろうか」 
 その時、ジャンリュックは右の眉を吊り上げた。何かを感じたらしい。首を右側の奥に向けてひねった。そして、一言だけ言葉を放った。 
「来たな……」 
「え、誰が来たの?」 
 シャロンはジャンリュックが途中で言葉を切ったのが気になったが、一瞬後にはジャンリュックの言うものに興味の対象が移っていた。この地下室の湿った空気が占める空間に誰が好き好んで現れるのだろうか。しかも、ジャンリュックの態度はその者に対してあまり友好的ではないようだ。 
〈だいぶ勘がよくなったようだな、ジャンリュックよ。褒めてやるぞ〉その太く重い声は不快な笑い声を地下室に響かせた。〈いや、いや、それとも、私の魔力が増大してきたのかもしれないな。力のあるものは隠れるのにも苦労するのだな〉 
「わしはお前になど用事はない。黙って、早急に冥府に帰るがいい!」 
 声を荒らげてジャンリュックは言った。 
〈そう、邪険にすることはないだろう。お前とて考えていることは私と同じ。どちらの悲願を達成するためにもこの娘の……〉 
 この瞬間、シャロンは体に突き刺さるような冷たい視線を感じた。けれども、視線を放つべき人間の姿などどこにもなかった。ジャンリュックが何者と喋っているのか未だに判らない。シャロンは自分を話題の中心にして話を進めようとしているものがどこにいるのか、何者なのか見付けだそうと挙動不審にキョロキョロと狭い部屋を見回していた。 
「黙れ! 何も喋るな」 
〈どうした? 動揺しているぞ。――フン、そうか、お前はまだこの娘、シャロンに何も話していないのだな。ならば、私もやぶさかではない。お前からじっくりと時間をかけて説明してやるがいい。どちらにしても恐怖に囚われると私は思うがね。せいぜい、頑張ってみることだ〉 
 それから、いつかと同じようにその嫌な雰囲気を伴ってその声はしなくなった。 
「……あの変なこれが言ったことは何なんですか。あなたたちの悲願を達成するために私は死ななければならないんですか……? そんなのいやです。困ります。どうして、どうして! 何をするにしても私が邪魔なの? 私が生きていたらダメだというの。……死にたくない、まだ死にたくないよ。弟も、父さんも母さんもファメルで私の帰りをきっと待ってる。シャリアン兵に連れられてもう駄目かと思っているかもしれないけど。生きて、帰りたい。ねぇ、ジャンリュックさん。私を助けて……。クレアは黄泉の封印を守るためにいるんでしょう?」 
 シャロンは懇願の眼差しでジャンリュックの瞳を覗いていた。しかし、ジャンリュックはそんなシャロンの眼差しを避けるかのように立ち上がった。まるで、シャロンの願いは叶わないとでも言ったふうに。 
「――残念だが、わしにはどうにもできないのだよ。……結局、黄泉の目論むこともわしら、クレアのしようとしていることも君にとっては変わりのないこと。――聞いているか、娘よ」 
 ジャンリュックはシャロンとは背を向けて奥の壁を見詰めたままで言った。そのジャンリュックの後側でシャロンは力なく椅子に腰掛けたまま頷いていた。ジャンリュックは続ける。 
「ピクサスにもう聞かされたかもしれぬが、一応言っておく。黄泉の封印の話だ。君が鍵なのだよ。黄泉の封印を完全に解き放つのにも、逆に完璧に封印するためにも君の血がどうしても必要なのだ。無論、致死量だ。それが黄泉の言っていたこと、どちらの悲願を達成するためにも君は命を奪われることになる。――君がシャロンの血を引くものではないといくら突っぱねたところでこの運命の道筋は変えられぬのだよ。事実、君がシャロンの血を引くものなのだから」 
「……違うわ、絶対に。私は絶対に女神の血を引くものじゃない。私はただの女の子」 
 シャロンは放心したように、目は焦点を結ばないままジャンリュックの背中を見ていた。 
「君は気が付いているはずだ……。紛れもなくその本人であることに。名前など関係ない。それこそ本当の偶然に過ぎないだろう。だが、生まれながらにして君に刻まれた……天使の羽の紋章は隠し通すことはできない。クレアの一族にその片翼は深遠な闇に放った蛍のようによく見える。人が判らなくともわしらには判る。君が女神セレスに選ばれた娘であることが」 
 しばらくの間、地下室をどうしようもないくらいの沈黙が支配していた。ジャンリュックは机の向こう側でゆっくりと行ったり来たりしている。シャロンはぐったりとうなだれていた。 
「そんなものに選ばれたくなかった。でも、そう、父さんも母さんも言ってた。お前は女神に選ばれたと。だから、シャロンと名付けたのだと。幼いころの私にはそれがどういう意味なのかまるで判らなかった。こう言う……ことだったのね」 
「君の苗字は確か、クロフだったね」確認するようにジャンリュックは問う。シャロンはまた、黙って頷いた。「クロフは女神シャロンの末裔なのだよ。黄泉の封印が弱まるごとに片翼の紋章をもった娘が生まれた。……その度に、娘を生贄に捧げてきた。しかし、今回ほどのは初めてかもしれない。黄泉とコンタクトがとれる始末だからな。こうなってしまっては君は両刃の剣なのだよ」 
 ジャンリュックは椅子に座ると腹の辺りで手を組んだ。それから天井の隅を見詰める。 
「――そろそろ、黄泉と決着を付けろと言うことなのか。これは悪しき慣わしを排するために神様が下さった好機なのかもしれない。三千年の時を経て、黄泉との直接対決の時が来たか。――長年封印されていたとはいえ、あの強大な魔力に打ち勝つことはできるか……」 
「それは……どう言った……?」 
「もしかしたら君は生きてファメルに帰れるかもしれないと言うことだ。確約はできないがね」 
 シャロンの顔がジャンリュックの言葉にパッと明るくなった。“生きて”と言うその言葉の重みを知ったような気もした。一方のジャンリュックは頭を抱えていた。今まで情けをかけたことはなかった。彼が長を務めている間に二度ほどあった封印の危機の時には迷わず、生贄を出したのだが。何故かためらいがあった。それもやはり黄泉の影響なのかもしれない。新たな時代の始まりなのかもしれない。