sharon

10 血色の瞳……存在理由。……それを知りたい……。


 

〈あと僅かだ。あと僅かで私の時代が始まる。……止めることは叶わぬ。それが定め。――三千年目の新月。全ては私のために収束してくるのだ。女神、シャロンの血を引く哀れな娘。クレアの一族。自らの意志を持たぬ愚かな人間ども〉 
 それは含み笑いをしていた。自分の思惑の通りにことが展開してゆくことが楽しいのだ。確実に影響力を増しつつ、人間界の秩序を崩壊させてゆくことが至福の喜び。 
〈私が蘇るのは必然なのだ。シャロンよ。思慮の浅い神々よ。――私は落ちぶれてゆく人間を消し去るために、私利私欲に走る人間どもを、建造物を、人間の残した下らぬ文明などというものを抹消するために存在する。お前ら、神々が信じた人間どもはあの時より没落したぞ。――シャロンよ……。そんな人間どもを、もはや、守ってやる必要などない。それでもお前は人を信じるのか。フッ、まあよい。――私の行動を止められるものはない。人間どもは地に落ちた〉 
 血色の瞳が虚空を睨んでいた。 

 シャリアン城、儀式の間。床にはどこから切り出してきたのか判らない、魔方陣らしき円と秘文字が刻まれた巨大な一枚岩が埋め込まれている。恐らくそれが黄泉を封印した女神シャロンの血の染み込んだ封印の石盤なのだろう。その円形の一枚岩の周りには一段高くなる形で石畳の床がある。更には一枚岩から一方の壁に向けて溝が掘られていた。 
 そして、壁には拘束具。シャロンが括り付けられていた。 
「もうすぐだ。もうすぐだぞ、シャロン。――時が満ちれば、貴様はこの世の存在ではなくなる。さあ、その心を恐怖で満たせ。絶望の闇に心を沈めていけ」 
 ピクサスは顔を奇妙に歪めて、非常に満足そうに言った。黄泉の力を手に入れて世界の覇者になるという彼の念願が叶おうとしているのだ。シャロンの血液で女神の封印を満たせば黄泉は完全復活を果たす。恐怖と絶望。その感情が、流れる赤い血潮が黄泉を復活させる。 
 そのシャロンの張り付けにされた壁の右側に黄泉に呼ばれたフェイが腕を組んで壁に寄りかかり、怪訝そうな顔でピクサスの狂気にとらわれた醜い顔を眺めていた。 
(……どうせお前は黄泉様の力を授かることはできない。黄泉様に見初められたのはこの俺だ。椅子に踏ん反り返って結果を待っているだけの奴に黄泉様の力を使いこなすことなどできない) 
 奢った考えだった。自分だけが黄泉に強く魅入られたと激しく信じ込んでいる。黄泉の本当の目的も何も、その存在理由すら知らないというのに。勝ち誇ったようにピクサスを冷めた目付きで観察していた。無知なものへの哀れみを込めて。 
「シャロンよ、壁に張り付けられた気分はどうだ? 自分の自由意志で動けぬ気分はどうだ」 
 シャロンは唇を噛んだまま何も答えなかった。答える言葉をもたなかった。時間は刻々と過ぎてゆき、恐怖と絶望感のみがシャロンの心を支配していく。逃れられぬと言う思いが呑み込んでゆく。どうにもできないもどかしさがシャロンを追い詰める。 
「答えぬか……。まあ、それもいい」 
 ピクサスはいやらしい目付きでシャロンを上から下まで舐め回すように眺めていた。その小さな体を流れる暖かい赤色の液体が黄泉復活の鍵を握ると思うだけでゾクゾクとする。何とも言えない不可解さ、何の変哲もないはずの一人の少女の血がもつ謎。それを余すところなく知りたいという好奇の目が注がれている。そして、恐怖に凍えたような表情がピクサスのサディスティックな一面を満たしてゆく。それは権力を手に入れるのとは別の意味で喜ばしい瞬間だった。 
「……さあ、そろそろ、お別れのお時間のようだ」ピクサスは歪んだ顔を更に歪めて言った。「黄泉様が復活なされる時間なのだよ。シャロン! その血を偉大な黄泉様に捧げよ」 
「血?」震える声で力もなくシャロンは言った。 
「そう、血だよ。君の中に脈々と流れる命の根源。シャロン、君の血は黄泉を目覚めさせる。君は選ばれたのだ。黄泉に。伝承に現れる鍵とは冥界の扉の鍵。この世に混沌、破壊、殺戮をもたらすもの。無秩序、不条理を好むもの。――仮にも神の名をもつ君のことだ黄泉のことは知っているだろう」顔を歪めて不気味に笑う。「喋るか? 喋ってみるか?」 
 有無を言わせぬようにピクサスは言った。何かを喋らなくてはすぐにでも捻り潰されそうな雰囲気だった。シャロンは恐ろしさのあまりに引きつりそうになって答えた。 
「……黄泉……。冥界の神。神々の最終戦争で統率の神に封印された邪神。でも、……それは人間を……抹消しようとしたから。ふ、封印されたって言うわ」 
「よくできた。そうだ、それが我らが神、黄泉様だ。そして、抹殺ではなく封印したというのが君たちの敗因なのだ。奴らは黄泉様を抹殺できたにも関わらずしなかった。三千年の時を経て、黄泉様の魔力が高まるように計算して封印したのだよ。何故だと思う。さあ、答えてみようか」 
 残虐性を秘めた目をシャロンに向け、ピクサスは詰め寄った。 
「わ、判らない……。そんなの私に判るわけがないじゃない! 私は邪神の封印を解くために生まれてきたわけじゃないのに……」虚ろな目付きでシャロンは言う。 
「いや――。そのためだけに生を受けた。それ以外に、君の存在理由などないのだよ」 
 存在理由。シャロンの血を引くものではないと言い張ったことはあるが、そのようなことは一度も考えた覚えはなかった。断じて黄泉のためにだけ存在してきたのではない。と、言い切れない自分がそこにいた。シャロンは何のためにこの十八年間を生きてきたのか、自問自答する。 
「――ただ、漫然と時を過ごしてきた君にその答えがすぐに見付かるとは思えないが……?」ピクサスはうつむいたシャロンの顔を下から覗き込んだ。「フン? 今更、君には関係のないことだ。時は満ちた。その血を黄泉様に捧げるのだ。――怖がることはない、君は死ぬのではない。黄泉様の血となり肉となり、黄泉様の一部として永遠に生き続けるのだ」 
 ピクサスは狂ったように吠え。シャロンは薄れゆく思いのなかで冗談ではないと思った。 
「さあ、その小さな命を黄泉様に捧げるのだ。そうすれば君は冥府の歴史に名を残す」 
「歴史? 歴史って何?」虚ろな表情でシャロンは言った。「私になんて歴史は関係ない……。勝手に周りの世界が動いて、誰かが知らないうちに国のことをまとめている。それが歴史……。個人の出来事なんて何も残らない。――私は全ての中に埋もれていたい」 
「その表舞台に君は立つことを許されるのだ。……お喋りの時間はおしまいだよ、お嬢ちゃん。さあ、我が神、黄泉様の前にその命を捧げよ!」 
 ピクサスは小刀を取り出す。そして、それをシャロンの頚動脈にあてた。鋼の冷たさにシャロンの体がぴくりと震える。死が一歩近付いた感触だ。絶望がシャロンの心を覆い尽くす。小刀が僅かにでも前後に動かされればシャロンは死ぬのだ。頚動脈から生暖かい液体が噴き出すのを感じ、徐々に意識が遠のいてゆくのを感じながら死に至る。動転した神経は痛覚など感じない。 
「……死ね」 
 無抵抗のものを殺傷するのに剣などは必要ないのだ。いるのは怯えた瞳に躊躇しない強靱な精神力だけだ。ピクサスはサディスティックに震える右手を制し、小刀を手前に引いた。短い悲鳴。それは終わりの時なのか始まりの時なのか。シャロンの細く美しい首筋から赤い液体が流れてゆく。吹き出した血はもう誰にも止められない。絶望という名の絵の具に彩られた血が、壁を床の溝を伝って封印の石盤に辿り着く。 
 何かが始まる。ピクサスは期待に胸を膨らませ、フェイは相変わらず壁に寄しかかったまま冷静にその様子を眺めていた。黄泉を封じ込めた封印の石盤に亀裂が入った。そこからは光ならぬ闇が洩れ出し始めていた。地下室の空気はよりいっそう邪悪なものに染まる。亀裂からはもやもやとしたものが溢れだし、次第に形を整えてゆく。それは絵画などでしか見ることのできない黄泉の姿。ピクサスやフェイよりも遥かに背は高く、それだけでも十分すぎるくらいの威圧感をもっていた。 
〈時は来た……。人間どもの滅びの時。……人間界は冥府に沈む……〉 
 非常に低く聞き取りにくい声が儀式の間に陰々と響く。声の主の瞳は真っ赤に燃えていた。矢のように鋭く、それの見詰めたものは何でも見透かされてしまいそうだ。 
 この場にいた二人は完全に黄泉の醸し出す雰囲気に圧倒され、言葉を失い黄泉の行動を茫然とした目付きで追い掛ける。憧れたものを見るような目ではなく、見てはいけないものを見てしまったときのような子供の瞳。好奇に満ちて、それでいて何か大切なことを忘れた目付きだ。 
〈……あれがシャロンか。自らの使命を忘れた哀れな女神の末裔〉それはシャロンの姿を見定めると一歩一歩を確かめるかのように歩き、シャロンの方へと歩きだした。それから、右手の親指と人差し指でシャロンの顎を挟んだ。〈これが私をさんざん唸らせた女神の姿だというのか〉 
 落胆の色を隠せずにそれは言った。三千年も昔に自分を封印したものが力をなくし、無様な姿をさらしていることへの複雑なやるせなさがあった。封印が解けたとはいえ、一度はライバルと認めたものがこの有り様では情けなくなるというものだ。 
「黄泉?」何者かが驚きを隠せない、狼狽した声色で名を呼んだ。 
 リョウが姿を現したのだ。彼が目にしたものはだらんと壁にぶら下がって血色に染まった服を身にまとったシャロンの姿とまるで絵の中から飛びだしてきたかのような黄泉の姿だった。 
〈どうやら来るのが遅すぎたようだぞ。クレアの若者よ。お前の守るはずだったシャロンは既に虫の息、代りに私がこの場にいる。お前はもう、お役ごめんだ。どこへでも好きなところへ行くがいい。冥府に沈みゆくその世界で生きてゆければのことだが〉 
 特に興味なさそうに黄泉は言った。復活を果たした今、クレアなど怖れるに足りないのだ。 
「……いや、まだ終わっていない。できれば、シャロンに傷を付けさせたくはなかったが。――お前は重要なことを忘れている。それを忘れているかぎり終わらないさ」 
〈私はそのような馬鹿なことはしない。お前の勘違いだろう〉 
「答えはもうすぐ判る」リョウは負けじと言い返す。確固たる自信が、根拠があった。それにいかなる理由が有ろうとも黄泉を野放しにすることはできないのだ。「シャロンは死なない」 
「ふざけたことを言うな、リョウ。あれだけの出血で生きていられるはずはない」 
 フェイだ。リョウの姿を見て、言葉を思い出した。 
〈出任せを言う奴など、消してしまえ。このような奴を生かしてこの場から帰す必要はない〉 
 その言葉にフェイが剣を抜き構えた。リョウも瞬時に臨戦態勢をとる。二人の戦いを止める理由はもうどこにもなかった。リョウにとってフェイはリーフの仇であり、フェイにとってリョウとは己の思い、望みの成就を妨げる邪魔者だった。 
 黄泉はその二人に直に手を出さずに見物する姿勢を取った。まるで余興を見ているかのように。直接、手を下せば早いはずなのだが、黄泉はそうはしなかった。楽しみは一つでも多いほうがいいというかのように笑いながら、かつての親友同士の戦いを観戦しようとしていた。 
(黄泉、お前は双翼のもう一人がいることを忘れている……。彼女が生きているかぎり、シャロンは死なない。そして、お前がこの世を冥府に沈めることもできない。問題なのは彼女自身が自分の使命を知らないこと。隠されたもう一方の翼が目覚めたとき、全てに決着がつく。それまではなんとかして、この場をしのがなければ……。邪魔者を消さないかぎり彼女を連れてこれない。彼女が今死んでしまったら全てが水の泡だ) 
 リョウの思いは果たしてそのもう片方の翼に通じるのだろうか。