どたばた大冒険

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02. start various things(動き出した様々なこと)

 リテール歴一〇九六年。盛夏。
 あれから、幾ばくか時が流れた。アリクシアは様々な方面に手を回し、後にシェラを最後に絶えたシェイラルの末裔と呼ばれることとなるレルシアの子供たちとコンタクトをとった。レルシアが鬼籍に入ってから既に久しく、また、同時に私欲に走りがちなものが人知れずレルシア派のトップに入るようになってからはレルシアの一族は協会から遠ざかりつつあった。レルシア派成立当時の理念が忘れ去られようとしている。
「アリクシアさん、本気なのですね……?」ラナは言った。
 ラナは聡明な顔立ちの女性で、アリクシアとも親交が深かった。けれど、内部の無言の圧力もありラナは協会から遠ざかっていたので、アリクシアとラナが会うのも久しぶりのことだった。そして、その再会の理由は決して、明るいものではなかった。
「ええ……。わたしたちがやらなければ、他にする人もいないでしょうし……。協会をレルシアさまの在りし日の頃の姿を取り戻したいと考えています」
 簡単ではあるが、崇高な理念。腐敗臭を漂わせて始めた協会の行く道を正さなければならない。このままでは協会は民衆の心の拠り所からかけ離れたものになってしまう。それだけはどうしても避けなければならなかった。
「わたしも、そう思います」ラナはたおやかに言った。「理念は立派だと思います。しかし、アリクシアさん……。具体的にはどうなさるおつもりですか? 理念だけでは何もなりません。志が高くとも、時が経てばレルシア派のようになっていく可能性も否定できませんし、場合によっては地下活動を余儀なくされるかもしれません……」
 ラナは容赦なく言い放った。事実、レルシア派が表だった活動を出来るようになるまでには数十年の地下活動がある。レルシアの母、玲於那が立ち体制に立ち向かっている期間は温かな家族に囲まれていたとはいえ辛いものだっただろう。
「……ご忠告、ありがとう。――しかし、わたしの決意は揺らがないものです」
 アリクシアは決然と言う。今までに行動を共にできる同士を捜し声をかけ、かつて、レルシア派の中心にいたレルシアの子孫を呼び寄せた。理想を理想として終わらせないためには理想を現実へと導いた者たちの協力は欠かせない。
「――では、そちらのお嬢さまは……?」
 ラナはスッと手を伸ばし、マリエルを指し示した。
「!」マリエルは一瞬、硬直した。
 無論、こうなっていくことは判っていたはずなのに、いざ、改めて問われると即答できない自分がいた。ラナとマリエルはしばらく見つめ合っていた。マリエルは自分の心に再度問い掛けるかのように。ラナはその思いに偽りがないのか確かめるかのように。
「――も、もちろん、わたしもです」
「では、後悔なされないことを祈っています。さて、アリクシアさん」ラナはマリエルから目線を逸らし、再び、アリクシアに向き直った。「あなたとお話しするに当たって、失礼かとは存じましたが、幾つか調べさせて頂いたことがあります」
 ラナは紙を一枚懐から取り出し、読み上げた。
「……アリクシア、クアラパートの寒村出身。父・アラン、天使。母・リンジー、エルフ。保守的と言われるエルフが天使と結婚するとは非常に珍しいですね。――アリクシアさんにエルフの特徴は出ていないようですが……?」
 何が言いたいのだろうか。アリクシアは訝った。天使とエルフの混血では手を貸すに値しないと言いたいのだろうか。そもそも、レルシアも天使と人間の混血だったはずだ。つまり、ラナも天使の血筋と言うことだ。そうでなければ、自分がアリクシア本人なのかを確認しようとしているのかもしれない。対外的にアリクシアの母がエルフだと知っている者は誰一人いないと言っても過言ではない。それを調べ上げたラナ、或いはその情報力を手に入れたい。この手の情報集積力はいざというときに切り札となりうる。
 アリクシアはラナの意図を汲みきれずに慎重に言葉を繋いだ。
「――わたしの場合は天使の血が濃く出たようです」
 さっきまでの緊張の中にも和やかさが混じっていた空気は一転し、剣呑なものとすり替わった。一族の命運をかけることになるかもしれないだけに、ラナも慎重なのだろう。
「どうしても心配なさるのなら、いくらでもお調べください」
「……いいえ、わたしたちには敵が多いですから、確認をとらせて頂いたまでです。協会をもう一度、人々の心の拠り所になるように手をお貸し致しましょう」
 ラナとアリクシアは堅く手を握りあった。

 一五一九年。今日は長雨の間に珍しく晴れ間が覗いた。空を覆い尽くしていた雲は消え失せて、太陽がサンサンとまではいかないものの肌寒さはなくなり、仄かな温もりを感じさせる心地よいそよ風が吹いていた。
「けど、迷夢もさあ、物好きよねぇ、どうしてこんな面倒くさいことに首を突っ込むの」
 長弓を負った金髪碧眼のエルフの女が黒い大きな翼を持つ女と話していた。
「面倒くさい? そうかしら? あたしには血湧き肉躍る大冒険の入口に立ってるような気がするんだけど。キミだってそうでしょ? まー、キミの場合はトレジャーハンティングに赴く時がそうだろうと思うんだけど……違うかしら?」
 迷夢はチッチッチと指を振って、セレスの鼻先を突っついた。
「なぁにすんのよっ!」セレスはカッカと怒り出した。
「はぁあ、あれだけの冒険をこなしたいかしたお姉さまだってのに、相変わらず子供よね。もっと大人にならないと、デュレに絞められるわよ」
 セレスは思わず自分の首を大事そうに押さえた。
「そんなキミの方が可愛くていいんだけどね。……ま、そゆことよ」
 迷夢はケラケラと笑いながらセレスの肩をポンポンポンと叩くと、手を振り振り行ってしまった。セレスはその迷夢を呆気にとられた様子で見送った。昔、会った時から訳が判らなかったが、今もなお、訳が判らない。
「――ま、迷夢ならそんなもんか……」
 セレスは人差し指でポリポリと頭を掻いた。大きくため息をつくと、セレスはそのまま歩いていった。人と会う約束がある。迷夢と出会ったせいで約束の時間に遅れそうだが、何とかなるだろう。セレスは楽観的に考えて、長弓をカチャカチャと揺らしながら歩く。と、不意に人影がセレスの前に立ちはだかった。
「デュ、デュレ?」
 思わずセレスはたじろいだ。腕を組んで、仁王立ち。約束の時間を過ぎてしまった上に待ちきれなくなってセレスが油を売っていそうな場所を見て回っていたら、見付けたのだ。急ぐ素振りも全く見せずに呑気そうに歩いているセレスの姿を。姿を現さないセレスに苛々してたところを捜しに出て、こんな状況を見せられたのでは堪らない。デュレはカーッと頭に血が上っていくのを感じた。
 その様子を見たセレスは期せずに後退った。流石に怖い。
「あ、あたしには弁解する用意があります」
「……わたしには聞く用意はありません。時間厳守! 何度言ったら判るんですか!」
「うぃ〜〜」最悪だ。
 既に聞く耳は持てないらしい。こうなっては弁明すること自体が火に油を注ぐことになりかねない。ここは黙って嵐が過ぎ去るのを待つのが得策だろう。
「――何故、黙っているんですか……?」
 デュレはタンと大きく一つ地面を踏み鳴らした。逆効果だったか。セレスは内心で思った。けれど、いい訳をするとさらに激しい追及を受けるのは目に見えている。つまるところ、どっちに転んでもろくなことにはならないのだ。
「イヤ、何故って言われても、理由なんか特にない訳で……。ただ、気が付いたら、約束の時間が来ちゃったかなぁって……。ダメ……?」
 セレスは怒りのオーラを立ち上らせるデュレを上目遣いに見た。
「ダメですっ!」間髪入れずにデュレは言った。「迷夢さんに一時に呼ばれているんです。だから、これ以上はセレスのために時間は割けないんです。全く、『たまには一緒にお昼を食べよう♪』なんて言っておいて、もう、食事をしている時間がないじゃないですか!」
 デュレはキッときつい眼差しでセレスを睨め付けた。
「そりゃ、申し訳ない……。けど、あれ、ちょっと待って、迷夢になら今さっき会ったよ。ケラケラと笑いながらどこかに行っちゃったけど、機嫌だけは良さそうだった」
 さて、困った。デュレは頭を抱えたい気分に襲われた。セレスに悪態をつきまくりたいのだが、そんな悠長なことをしている時間はなさそうだ。迷夢にキレられるとセレスがギャンギャン喚くのよりも数倍始末が悪い。
「あぁ、もう! いいですっ。お仕置きは次の機会に!」
「お仕置きは次の機会って何じゃそりゃ?」
 とセレスが言った時にはデュレは既にいなくなっていた。セレスと言い合いをしていては迷夢との約束の時間に遅れてしまう。しかも、迷夢が妙に上機嫌だというのがデュレは気になってきた。いつだかの初顔合わせの時も迷夢は妙なテンションでいて、狭苦しい場所で攻撃魔法をぶっ放したのだ。その時は大きな被害はなかったものの、また、そんなことが起きるかもしれないと思えば精神衛生状大変よろしくない。
「……おかしなことにならなければいいんだけど……」
 デュレはさらに駆ける。約束の場所は迷夢のオフィス。しかし、それは名目に近くその場にあるのは大きな机と椅子が一組、その奥には居室があるだけだった。付け加えるべき点として迷夢は一応そこに住んでるようなのだが、まるで生活感がなかった。
 セレスと会った場所から、十分も走ると目的の場所の小さな看板が見えた。
“黒翼・迷夢のステキオフィス”
「……怪しい占い屋さんみたい……」
 デュレは迷夢の妙なテンションと妙な感性にどうも付いていけない。セレスなら、考えることが単純だからすぐに手玉にとれるのだが、迷夢は複雑怪奇に訳が判らなすぎて手が出せない。でも、凄く高度なことを考えているのは目の輝きを見ればよく判る。
「……こんにちは……」
 あまり気は進まないが、デュレは思い切ってノックをした。
「おー、時間ピッタリ、流石、デュレ」
 ドアがガッと勢いよく開いたかと思うと迷夢の陽気な声が聞こえた。デュレが少々の憂いを抱えているのに対し、迷夢はこれっぽっちの悩みなんかないかのようだった。それから、迷夢はデュレの腕をひっつかむとオフィスに引き込んだ。
「ねぇ、デュレ、ちょっと、頭貸してくれない?」
 突然の物騒な物言いにデュレはドキンとした。もちろん、意図は“知恵を貸してくれ”と言うことなのだろうし、さらには独善的な迷夢がデュレに向かってそんなことを言ってくるとは思いも寄らないことだった。
「でも、わたしが迷夢さんに知恵を貸すようなことは何も……」
「あ、知恵じゃなくて頭……。つまんない冗談はやめるか」デュレが乗ってこないのを見て、迷夢はつまらなさそうにため息をついた。「若い世代を教育するため……と言うこともなくて、つまり、キミならこの事態をどう打開するかを知りたいの。ま、ストーリーは決まったんだけど、イレギュラーがないと面白くないから、キミの意見を拝聴してやろうと思ったワケですよ」にやり。「デュレなら、どうする?」
「……どうするって、何をどうするんですか?」
「あ、そうか。肝心なことを言ってなかったね。エスメラルダにもう一度、王制をしくとしたらどういう風にしたらいいかってことを訊きたいの。キミなら、どうする?」
 意地が悪い。デュレは本気でそう思った。聞いたところで参考にもしてくれないだろう。大抵の場合は意見を聞くと言って聞きっぱなしでそれでお終いなのだ。
「……王位継承者をたて、エスメラルダ国王の即位式典をしてしまえばどうですか? 一応、国として立ち上げて、政体を確立させれば何ら問題はないと思います」
 デュレは当たり障りのなさそうな答えを言った。
「キミ、やっぱ、勉強不足よね。そんなんじゃ、あたしに続く策士にはなれないぞ」
 流石に、そんなのには興味ないとは言えなかった。どうやら、迷夢はデュレのことを自分の後継者にしようと画策してるのか、ちょくちょくこういった発言をする。どこまで本気かが判れば対応のしようもあるのだが、今の時点では本気とも冗談ともとれて判別がつかない。だから、デュレもついどっちつかずの対応をしてしまうのだ。
「リテールを裏から操れるようにもぉっと勉強しないと」
 迷夢は意味ありげにニマッとした。
「う、裏から操る必要なんかないと思うんですけど……?」
「物事、表ばかりじゃ上手くいかないものなのよ。そゆ時に、裏側から糸を操り、正しい方向とまではいかないまでも適正な方向に向けてやるのがお仕事よ」
 敢えて何も突っ込まなかったが、それだけしか考えていないなんてあり得ない。絶対に、大儀を隠れ蓑にして何かをなそうと考えているはずだ。
「ところで、デュレ、キミ、――トリリアンの信者になりなさい」
「わっ、わたしが?」驚きすぎて言葉にもならない。「な、何で?」
 何か無理難題をふっかけられるような気はしていたが、こう来るとは思わなかった。そもそも、何故、自分がトリリアンの信者にならなければならないのか全く判らない。
「理由なんてこの際どうでもいいじゃない」
 無茶苦茶だと思った。けれど、デュレはその思いをおくびにも出さずに頑張った。
「いえ、でも、せめて、ちょっぴりでもいいですから」
「――理由なんて、いずれ判るわよ。とにかく信者になりなさい。適任はキミしかいないんだから。セレクトされたことに感謝するのよ。セレスやシルトじゃ何をやらかすか判らないし。ウィズや、サム、久須那は面が割れている。あたしは……目立ちすぎる。その点、キミは知られているようで知られていない。そこんところのポイントが高いのよ」
「はぁ……」
 どうあがいても、この役から逃れられないらしい。
「じゃあ、わたしはどういう手順を踏んで、トリリアンの信者になったらいいのですか?」
「簡単よ」迷夢は悪辣な笑みを浮かべた。「アルケミスタにあるトリリアンの教会に行って、そこで洗礼を受けなさい。トリリアンにエルフの信者は多いけど、闇の力を持つダークエルフなんて珍しいからいいことがあるかもよ?」
 迷夢は気乗りしなさそうなデュレの背中を力一杯バンバンと叩いた。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「い、今からですか?」デュレは目をまん丸くした。
「そ、今から。時間的な猶予があまりないから、可能な限り早いほうが嬉しい。まぁ、どっちかというと、フォワードスペルを使えるからキミに頼んだの。ああ! 久須那の許可は取ってあるから、安心してとっとと行けっ!」
 いつものことだが、理不尽極まりない。それでいて、物事が上手く運ぶのだから、迷夢の思惑は摩訶不思議だった。デュレも色々と計算高く物事をやってみたりするのだが、なかなか思い通りにはならないものなのだ。
「でも、多少の準備は……」
「ああっ、それも必要ないから。着の身着のままで行ってごらん。聡明そうなキミだったら、何の疑いもなく宿泊させてくれるだろうし、食べさせてもらえるわよ」
「――そこまでしないと……ダメなんですか?」
「ダメですっ♪」迷夢は何故か、少しだけ嬉しそうに言った。
「では、具体的に何をしたらいいかくらいは……」
「あ〜そんなのも必要ない。行けば判るから。そのうちに」
 迷夢は終始ニコニコとしていた。一体、その笑顔の裏にどんな思惑が隠れているのかと考えると、背筋に悪寒が走ってしまう。迷夢がトリリアンの討伐に首を突っ込もうとしていたことは迷夢よりもウィズの挙動から薄々感じていた。そして、こうだ。デュレの予想では迷夢は自分をトリリアンに潜入させ、何らかの情報を得ようとしていると思われた。実際、何を狙っているのかさっぱりだが、そのようなところだろう。
「じゃ、何も知らないでトリリアンの信者になれって言うんですか?」
 デュレは少し憤慨した。
「何も、本気でトリリアンに入信しろと言ってるんじゃないから、いいじゃない」迷夢はアッケラカンと言いはなった。「そう、キミの聞きたがってることだけど、色々と知ってると先入観が入っちゃうから困るのよ。だから、何も知らない方が好都合ってワケ」
 既に、そのことが先入観になってしまったような気がする。
「しかし、無知は時として大きな罪だと……」
 デュレは必死に食い下がる。トリリアンに入信して取り殺されるようなことはないだろうが、下準備も何もなしにただ“行け”と言われても困ってしまう。せめて、最低限の情報をもらわなければ、怖すぎてオチオチしていられない。
「そうね。でも、今はその“時”じゃないから安心して」
 取り付く島もないというのはこういうことを言うんだろうとデュレは痛切に感じた。何を言ってみても軽く流されて、全然聞いてもらえない。ひょっとすると、セレスも自分に対してそんな思いを抱いているのかもしれないが、そんなことは今はどうでもいい。
「……判りました――。行ってきます」
「いい心がけね♪ じゃ、よろしく頼んだ。幸運を祈る!」
「はい……」
 返事をすると、デュレは大きく深呼吸をした。フォワードスペルを使うために精神を統一するのだ。フォワードスペルの空間飛翔精度は集中力と精神力に影響される。目標を逸らさないためには高度な精神力に裏打ちされたイメージングが重要なのだ。
「我が名はデュム・レ・ドゥーア。闇の力を操るものなり。闇は邪にあらず。追憶の片鱗に住まう孤独の想い。善良なる闇の精霊、シルトよ。呼び声に応えよ。空間を歪め、飛翔する力を我に与え賜え。……テレネンセス、黒翼・迷夢のステキオフィスからアルケミスタに通ずる道を開け――」
 すると、はじめに正三角形と逆三角形が組み合わせられた六芒星が形成され、その各頂点を円周に配置した円、その外周にはエスメラルダ古語の羅列が浮かび上がった。そして、その中央に閉じられた瞳が存在するオーソドックスな魔法陣が白い軌跡によって描かれた。
「――フォワードスペル!」
 最後に実行の合図を送ると、眠そうなまぶたが開いて瞳が露わになった。その瞬間に、デュレは魔法陣に吸い込まれるかのように跡形もなく消えてしまった。まるで、最初から迷夢の正面にデュレがいなかったかのように。
 迷夢はしばらく、その余韻にひたった後に、虚空に向かって呼びかけた。
「……いい? ベリアル。今の娘を紛れ込ませるから。上手くやって」

「――はい。……では、その娘の名前をもう一度?」
 何者かが物陰から、スッと音もなく姿を現した。爽やかな顔立ちに金色のショートヘア。エルフだった。十三世紀末からついこの間までなら、テレネンセスの街でもエルフは数多く見かけられたが、ここ最近は再び見かけなくなりつつあった。かつてほどひどくはないがトリリアン=エルフの図式が出来上がり、危機的状況にあった。エルフたちの多くはトリリアンの活動が沈静化するまで町を出ることを選んだ。
「……デュム・レ・ドゥーア。通称、デュレ」
「デュレ?」
 聞き覚えのある響きを持ったその名前はしばらくベリアルの脳裏から離れなかった。それ程遠くもない過去にどこかで聞いた耳の奥に木霊するかのように残っている名前。“デュレ”と言う名を直接知っているのではなく、似た名を聞いたことがあるような気がした。
「どうかした? ベリアル」
「……いいえ、何でもありません。判りました。デュレですね」
「あの娘は信用できるから、キミの思い通りに使っちゃって結構よ。ただ……、まだ、あたしとキミの関係は伏せておこうかしら。……時には無知は罪だけど、時には知らない方がいいこともあるのものよ」意味深な含みを持たせて迷夢は言う。
「ですが、知れたからと言って今後の計画に支障をきたすことはないと思いますよ?」
 ベリアルは率直に意見を述べた。
「そりゃそうかもしれないけど。むしろ、キミとデュレがあたしのことを話すことによってトリリアンに期成同盟に通じるものがいると悟らせないことが目的なのよ。少なくとも、あたしが表立って行動するようになるまでは。ま、思慮深いキミたちのことだからあたしのことを話題に上らせたりはしないだろうけど、万一のことを考えてね」
「――デュレから話を持ちかけられないようにするためですね? では、今までのいきさつを考えると、つまり、接触はあくまでわたしからで、何食わぬ顔をしてその娘を巻き込んでしまえと受け取ってもよろしいんですね?」
「ええ、まさにその通りよ。あたしとキミが直接、やりとりを続けるのは危険すぎるから頃合を見て、デュレを仲介役をやらせるつもりでいるの。そうなるためにはやっぱり、トリリアンの連中からある程度の信用を得ていないとね」
 ベリアルは迷夢の意見に対して、無言で頷いた。確かに迷夢の言うことで間違いはない。迷夢とベリアルが直接会う回数を減らし、リスクを分散していくにはこういう方法をとるしかない。百パーセント安全にはならないが、一信者が自由な行動をするのと参事たるベリアルが不穏に動き回るのとでは訳が違う。
「……では、計画通りに事を運んでいきましょう」
「そうね。じゃ、幸運を祈る」
 迷夢の言葉を聞くと、ベリアルは軽く一礼をして裏口から歩いて外に出ていった。誰かに見られてしまうことよりも、魔力の痕跡が残ってしまうことの方が怖い。シルエット程度ならいくらでも誤魔化しは利く。しかし、魔力となると完全に各人固有であるだけに一度見付かってしまうと言い逃れのしようがない。
「さ・て・と。ベリアルも行っちゃったし、あとは期成同盟ね」
 期成同盟さえ思う通りに動かせたらと常々迷夢は思っていた。盟主のアズロは慎重派であり、流れるようには物事は進んでいかない。国の再建に関わることで考えなしも困るが、必要以上に慎重なのも困りものだ。
「パーミネイトトランスファー!」
 迷夢はここの場にいたことを悟られないように空間飛翔魔法を使って姿を消した。

 その日、アルケミスタ教会にはアリクシアと志を同じくするものが大勢集まっていた。協会の多勢を占めるレルシア派に比べれば大した人数ではないが、それでも、世俗的になってしまったレルシア派を嫌って協会の立て直しを望む人たちが集まった中では最大級の集団と言っても過言ではないだろう。
「皆さん。お忙しいところをアルケミスタまで足を運んでくれてありがとう。ここにお集まり頂いた皆さんは己の世俗的な欲望に負けることなく、協会の教えを忠実に守り、布教活動を推進してくださっている方々です。――皆様方には是非、協会に真の信仰を取り戻すためにご助力を願えればと考えています」
 半ば予想されていたのか、アリクシアの発言にどよめきすら起きなかった。
「……協会における新教派の末路はご存じなのですか……?」
 誰かが恐る恐る発言した。実際問題として、協会内に出来た教派、或いはそれに類しレルシア派とは考え方が異なる者たちの集団はことごとく潰されてきた経緯がある。
「わたしたちは潰されたりはしません」
 アリクシアは断言した。潰されることがあってはならない。
「皆さんがわたしと同じ思いを抱いている限り、わたしたちの思想は生き残ります。拝金主義に陥らず、皆の幸せを心から願い、異なる種族間の愛を慈しむ。そのようなリテール協会へと回帰、成長を遂げましょう」
 紀元後間もない頃、レルシアが天使兵団の解体と、天使たちの送還を考えた時はどういう気持ちだったのだろう。過ぎた力は人を狂わせる。“他種族との和”を考えた時、天使の追放に近かったこの決断をどう思っていたのだろう。アリクシアは初期協会でレルシアが掲げていた理念を純粋な形で受け継いでいくつもりでいた。
「……アリクシア派……」それは静かな囁きだった。
「わたしたちはアリクシア派を名乗りましょう」誰かが言った。
 落ち着いてはいて、それは決然とした響きを持っていた。
「いいえ……。わたしたちは名もなき草花のようにひっそりと、しかし、確かなものとしてその存在を示していきます。派閥を名乗り、レルシア派と対決しては力に頼る彼らと何ら変わりありません。レルシア派を糾弾するのではなく、わたしたちはわたしたちの考え方を広めていきましょう。協会の改革に必要なことは“アリクシア派”ではなく、皆さん一人一人の良心と行動力です。今、組織を作り、それを拠り所にしたくはありません」
 組織を作らず、個人として行動し続けることは難しい。無論、そんなことはアリクシアにも判っていた。遠くない将来、かっちりとした組織を作らなければならないだろうし、その青写真までは出来ていた。ただ、そう、レルシア派の二の舞を踏みたくはない。
「しかし……、そのようなことで、巨大なレルシア派に立ち向かえるのでしょうか?」
「大丈夫です。わたしたちにはアリクシアさんがいらっしゃるのですよ」
 マリエルはアリクシアが話そうとするのをスッと遮って発言した。この返答はアリクシア本人がするよりも、彼女を支持するものが発言した方が多少説得力が増す。
「……アリクシアさんがいたら、大丈夫ですか……」
「ええ、間違いありません。アリクシアさんがいる限り協会は必ず良くなっていきます」
 でも、それは真実なのだろうか? 胸がチクリと痛むのをマリエルは感じてた。

文:篠原くれん 挿絵・タイトルイラスト:晴嵐改