16. an oblivious city(忘らるる都)
リテール各地に散らばるガーディアンがそれぞれの思惑を胸にして、アイネスタに集結しつつある。当然、トリリアン総長たるヘクトラの要請に従って動いたガーディアンもあれば、好き勝手に動いているガーディアンもある。しかし、エスメラルダ期成同盟を討ち、その存在を容認するリテール協会の権威を貶めようとする意図はほぼ共通していると言っても間違いはないだろう。
そして、その頃のアルケミスタのトリリアン総本山ではちょうど、ヘクトラとクローバーが執務室にて顔を突き合わせていた。先頃、教会に迷夢がふらっと姿を現したばかり。いくらつかみ所が無く飄々とした天使との風評を持つ迷夢でも、わざわざ、トリリアン総本山に乗り込んでくるくらいだから、この場に何かがあるととらえるのが自然だろう。
「地下室に黒い羽根が落ちていたそうですね」
ヘクトラは机上で両手をあわせ険しい眼差しでクローバーを睨みつけていた。
「そのようです。ですが、黒い羽根と言うだけではジェットのものかもしれません」
「……。クローバーがそのように言うのは理解出来ます。ですが、あの羽根はジェットのものではありませんでした。魔力の色が明らかに違っていましたからね」
重苦しい沈黙。その羽根が何者のものなのかクローバーには知りようもないかもしれないが、ヘクトラにはすでに理解していた。黒い羽根を持つものなどそう数はない。その羽根をカラスのものとして無視することも出来ようが、羽根に秘められた魔力の大きさがその考えに靡こうとするのを押しとどめていた。
「――まさか、ジェットとは別の黒い翼の天使が……」
「ジェットの居場所を突き止めてしまったようです。ジェットをあちらこちらへ出向かせ、使役していることを考えれば、早晩、このような事態に見舞われたことでしょう。ですが、問題はそこではありません。迷夢や久須那と言ったリテールに住まう少ない天使がジェットの居場所を見つけるのはそんなに難しいことではないでしょうし、意識封じの呪法を使っている以上、彼女たちには何も出来ません」
「では、どのようなところが問題なのでしょうか?」
クローバーは恐る恐るヘクトラに問いを立てた。察するにリテールで“唯一”の黒き翼の天使・迷夢が地下室に訪れたのだろう。それはそれですでに大問題なのだが、それが問題ではないと言いきるのなら、一体何が問題に浮上するのか。
「裏切り者がいます」吐かれた語気には刃のような鋭さがあった。「トリリアンの内部事情を外部に広報する不届きものが」
「それは一体、誰……でしょうか……?」
「少なくともクローバー、お前でないことだけは確かですよ。――この」ヘクトラは地下室で手にしたひとひらの羽根をくるくると弄んだ。「羽根には持主本人の魔力の他にちょっとした痕跡が残っていました。偶然なのか、故意なのかまでは判別はつきませんが、恐らく、この羽根の持主が地下室にいる間に接触していたと思います」
ヘクトラは羽根を机上に置くと、不気味ににやりとした。
「クローバー、ベリアルを呼んで来なさい」
*
「……来ましたね……」誰に話しかけるでもなく、半ば独り言のようにアズロは呟く。
「そうですね。――かなりの人数ですが……、大丈夫でしょうか……?」
デュレはとても不安そうな眼差しをアズロに送った。実際、迷夢にアズロの手助けに行ってこいと指示を受けたのはいいものの、自分が本当に助っ人になれるのか心許ない。アズロのことはよく知らないが、エスメラルダ期成同盟の盟主をするだけの人物が木っ端魔法使いのような自分の助けを必要とするのだろうか。
「大丈夫です。さて、デュレ。手筈通りに進めましょうか?」
段取りはすでに臨時司令部で整えてきた。あとはその作戦通りに進めるだけ。問題があるとしたら、ガーディアンがこちらの思惑に嵌まってくれるか否か。それだけだ。
「心配は必要ありません。わたしたちの仕事はあくまで足止め。それ以上のことはしませんよ。――ですから、安心しててください。それとも……わたしが信用できませんか?」
アズロは発言しつつ、ガーディアンの進軍方向に足を向けていた。
「あの、いいえ、そう言う事では……」
デュレはアズロの後ろ姿に追いすがろうとした。アズロはデュレの言動を全く気に留めることなく、アクションを起こそうとした。氷の魔法。俗に造形魔法とも呼ばれ、基本は空気中に含まれる僅かな水分を凍らせることで氷を作る。アズロが得意なのは“氷雪”と呼ばれる部類の中の特に氷の方向だった。
「さてと。デュレはわたしにあまり近づきすぎないでください」
そう言って、アズロは大きく息を吸った。
「我、氷の精霊、フラウの御心に従い、氷雪の意を司るものなり。――アイスメイク」
感情を露にすることはなく静かに短い呪文を唱える。
すると、空気が冷たく、張りつめてくるのが感じられた。しかし、それは長時間に渡る現象ではなく、体感した時間は長かったが、僅か数瞬の出来事に過ぎなかった。
「……アイススピアっ!」
呪文の締めくくりの言葉を放つと、魔法は具現化する。刹那、空気中の水分を凍らせることで形作った氷の槍がガーディアンの軍隊を襲っていた。その槍は空の彼方から、しかも、敵襲など全く予想のつかない場所から大量に降ってくるのだからたまったものではない。氷の槍がガーディアンを襲ってから、僅かな時間しか経過していないにも関わらず、その現場は大混乱に陥っていた。
「……これが、アズロさんの魔法……」デュレは呟く。
何でもなさそうにサラリと詠唱を済ませた氷魔法が敵を混乱に陥れているなんてにわかには信じがたい。デュレ自身が闇魔法で同じようなことをやろうとしたら、敵を混乱させる以前に自分がひーひー言ってしまいそうだ。
「そう、これがわたしの魔法です。しかし、これで驚いてもらっては困ります。今のは氷の槍を大量に生成しただけで難しいことはしていませんからね。――しかし、これだけでもあちらさまには十分な効果があったようですよ?」
アズロは驚いているデュレの顔を見て、天真爛漫な笑みを見せる。
「さて、あのガーディアンのボスにご挨拶でもしてきましょうか」
「そ、そんな大胆で、その無茶苦茶な……!」デュレは言葉を失った。
「デュレはそこで見物していてください。危ないですから」
危ないとか、危なくないとかそんな問題ではないような気がするが、デュレもアズロのすることに口を挟みようがなくて、黙って見ていることにした。
「ここまで、氷魔法を使えるのがいるとは知りませんでした。わたしたちの邪魔をするのはどなたですか。姿を現しなさい」
女性の声だ。ガーディアンのボスと思しき女性が周囲に向けて大声を張り上げている。
「姿を現せと言われて、現すほどの素直なヤツはいないと思いませんか?」
そのように返答しつつ、アズロはサラの前へと姿を現した。
「フツーはいないと思っています。ですが、中にはあなたのような変わり者もいますからね。攻撃を仕掛けて無用に騒ぐよりも、よい場合もありますよ」
「そうですか。わたしは……変わり者ですか? ハイエルフのサラ……」
「わたしの名をご存知とは流石はエスメラルダ期成同盟と言うべきでしょうか。――しかし、これだけの軍勢を前にあなた一人だけとは狂気の沙汰としか思えないが……」
サラは静かな視線でアズロを見つめつつ言った。
「狂った人間でないと期成同盟の盟主など務まりませんよ」
アズロは不思議な柔らかい笑みを浮かべながら、サラへと少しずつ近づいた。その様子を遠くから見る羽目になったデュレは気が気ではない。デュレはただの付添役のような者だったし、何よりもアズロと言う人物がどれだけのヒトなのか、全く予備知識がない。唯一、知っていることは事実上、氷の魔術師と言うことくらいだった。
「大丈夫なのかしら……。あれは、きっと、ハイエルフ……」
無論、デュレの呟きがアズロに届くはずもない。
「あなたは本当に狂っているのですか?」サラの静かな問い。
「……さあ? あなたはどう思いますか。ハイエルフのサラ」不敵に笑む。
「狂っていると言うヒトほど狂っていないと思いますが。あなたは狂者を装いつつも非常に計算高く行動する方とお見受けしますが、期成同盟の盟主さん」
「アズロ・ジュニアと申します」アズロは丁重に礼をする。
「アズロ・ジュニア……。そう、そのような方が何故、二人でこのような場所に……?」
「それをわざわざ聞かなければならないほど、物分かりの悪い方ではないでしょう?」
アズロは敢えて、挑発するかのようなあざとい口調で発言した。
「なるほど、わたしたちの足止めが目的ですか。……ですが、足止めしたところで、あなたたち期成同盟の部隊が先にアイネスタに到着すると言う以外に大したメリットはないと思いますが、いかがでしょうか? むしろ、盟主を人質にとられるリスクが大きいかと」
サラはどこか他人事のように淡々と意見を述べた。
「いいのですよ。わたしの目的はあなたと会話を交えることですから」
「……。言葉を返すようですが、わたしはことの首謀者ではありません。わたしから何かを聞き出そうとしているのなら、無意味な行為だお思います」
「確かに、首謀者はあなたではなく、総長・ヘクトラでしょうし、秘密兵器たる天使を擁するのもヘクトラですね。ですが、この部隊を率いているのはあなたにほかならない。ヘクトラが何を思っていようと、アイネスタに向かい、行軍途中、もしくは目的地で我が期成同盟軍と一番最初に一戦を交えるのはあなたの部隊で間違いないと思いますよ」
実際に、トリリアンのガーディアンは完全に統一されているのではなく、それぞれの地域の部隊がそれぞれの意思に従い動いていることはアズロも知っている。しかし、今、エスメラルダ王国復興の象徴の儀式としての戴冠式に乗じ、ガーディアンが見かけ上は統一されているような行動を示している。そして、その最も始めにアイネスタに到着し、まず間違いなく一番最初にサムとウィズのいる期成同盟軍とぶつかるのがハイエルフのサラがいるこの部隊になるのはほぼ確定した事実なのだ。
「なるほど。たった二人で乗り込むなど、何も考えていないようで、考えているのですね。しかし、わたしたちをここで止めたとしても他の部隊が先にアイネスタ入りするだけかとも思いますよ。どちらにしても、トリリアンは王国の復興を認めることは出来ない」
サラは毅然とした態度を全く崩さない。
「そうでしょうね。あなたたちが協会と対立する道を選んでしまった以上は避けられません。むしろ、トリリアン設立時の状況を考えれば、今まであなたたちが無事に存在してきたことの方が不思議でしょうね」アズロも不敵に言い放つ。
「それは……トリリアンが滅ぶとでも言いたいのでしょうか?」
「さあ、どうでしょうか。その問いの答えはクロニアスのみぞ知るところでしょう」
「……なるほど。つまり、あなたは何をしに来たのですか?」
一通りの話を聞いてサラは言う。言わんとすることは判らないでもないが、わざわざ、敵部隊のど真ん中に乗り込んできてまで言うほどのこととは思えない。
「ただ、わたしに講釈をたれに来ただけとは思えませんが……」
「最初に言いましたよ、わたしは。あなたと会話することが目的だと」アズロの目は煌めいていた。「たった二人で乗り込んで、殲滅できるなどとは考えていません。ですが、一応、氷雪の魔法であなたの部隊にダメージを与えることは出来ましたから、全軍がアイネスタに向かうためにはまた調整が必要なことでしょう」
「……やはり、あなたは敵に回すと厄介な男のようです。今日のところは仕方がありませんが、中途半端に我がガーディアンを傷つけたことにきっと後悔することでしょう」
その一言を残し、サラはアズロの前から立ち去った。サラにはアズロを拉致することも、殺すことも出来たはずなのに手を出そううとすることはなかった。逆にうけとれば、それは自らの所属するガーディアンと言うものに全幅の信頼を置いているのかもしれなかった。
「……さてと。だいたいいい感じでしょうかね?」
アズロは建て直しに入ったガーディアンを確認しつつ、少し離れた場所に放置してきたデュレのもとへと足を向けた。ハイエルフのサラとは僅かな接触時間ではあったが、その人となりを少しは知ることが出来たし、所期の目的はほぼ果たせた。
「アズロさん……?」
「思ったよりはうまくいったと思いますよ」
「でも、ここで、あの、戦力をそがなくても大丈夫なのでしょうか?」
「正直なところ、大丈夫のはずがありません。潰せるのなら、潰してしまうのが常套手段ですが、あまり効果的ではないでしょうね。デュレも知っているでしょうが、トリリアンは一枚岩ではありません。表層を引っ張る総長・ヘクトラと、事実上、ガーディアンをまとめる……、まぁ、正確にはまとめているというよりはサラの率いるガーディアンがもっとも強いので影響力があるだけなのですが。その二つに分かれています」
アズロは言葉を切って、しばらく、デュレの双眸を見詰めた。
「……わたしたちはガーディアンを潰したいのではなく、トリリアンを潰したいのです。サラの部隊をここでやっつけたところで、他の部隊がアイネスタ入りするだけのこと。それを潰したところでインパクトが足りません」
ここまで言われると、アズロの意図したいことがデュレにも通じた。
「つまり、アイネスタを決戦場にして、トリリアン最強のガーディアンを相手に勝ちをとる。そして、リテール協会によるエスメラルダ王家の復興の戴冠式を執り行う。エスメラルダ王国の強さと影響力を見せつける……」
デュレはアズロの目を見ながら、半ば呟くように発言した。
「よくできました。しかし、実際には総長・ヘクトラが直々に操っている黒き翼の天使がいますから、一筋縄にはいかないと思います。ですが、成功した暁にはエスメラルダ王国の復活と言うものを皆さんに印象づけられると思いませんか?」
アズロはかなりの策士だとデュレは思った。不確定要素も計算に入れて、可能な限り期成同盟の有利になるように作戦を立てる。サラのガーディアンを足止め、エスメラルダ王子を無事にアイネスタ入りをさせ、戴冠式のためにテレネンセスから教皇をアイネスタの協会に連れてきている。ここまではきっと誰にでも出来るとデュレは思う。けれど、ここから先のシナリオを今の時点で思い描くヒトと言うもそういないだろう。
アイネスタで期成同盟の主力とガーディアンで最強の部隊をぶつける。
そこを勝ち抜き、協会の威光を借りた王国復興の“イベント”を行う。長い間、協会とトリリアンとの間の軋轢もキレイになくなり、エスメラルダは過去の栄光を取り戻す。
「……何か、悪いことをしているような気がします……」
「そうかもしれませんね。――ですが、それが政治と言うものです」
意味深なアズロの言葉がデュレの耳から放れることはなかった。
*
ザ、ザ、ザ……。複数の足音が荒れた土地に響いた。エスメラルダ期成同盟軍。テレネンセス臨時司令部より出発、途中、エスメラルダ王子を迎え入れ、まもなく、エスメラルダ王国第一王朝が栄華を誇ったかつての王都に足を踏み入れようとしていた。
「久須那、向こうの様子はどんな感じだ?」サムは上空を舞う久須那に問い掛けた。
「……。至ってフツーとしか答えようがない。――が、周囲にガーディアン、協会軍の姿も特には見当たらないな。恐ろしいほどに順調だな」
「と言うことはつまり、アズロ盟主とデュレの作戦はうまくいっているということだな」
「もしくは完全にあてが外れて、思いの外にガーディアンの結束力がなかっただけかもしれないが。むしろ、順調にことが運んでいるときほど警戒を怠るべきではないな」
久須那は比較的お気楽なサムに代わって、慎重論を唱える。
「まーそーだなー。盟主とデュレが動きを鈍らせられるのはせいぜい一部隊くらいだろうからな。ガーディアンは各地に散らばっているし、……結束力はないと思うぜ? それなりに横の連絡は取れているらしいが、てんでばらばら。そのうちの最大勢力と思しきものが“ハイエルフのサラ”が率いる部隊と言うわけさ」
「それを足止めに行ったんだろ?」
「そーゆーこと」
「……。何だか、いちいち、腹の立つヤツだな。わたしがそんなに嫌いかっ!」
「誰もそんなことは言っていない!」
「痴話ゲンカは遠慮して欲しいものだな。志気が下がる」
ウィズは横からポツンと呟いた。
「そうだな。――が、敵さんが動きを見せないから退屈で仕方がないな」
「サムはそうかもしれないが、うちの連中にとってはアイネスタまで何事も起きない方がいいだろうさ。戦力温存。ここらあたりで一戦やらかしたら、アイネスタでは持ちこたえられない。期成同盟の戦力なんて、所詮、そんなもんだぞ?」
「知ってるよ」
今さら、指摘されるまでもないと言いたげな涼しい顔だった。
「だから、てめぇがいるんだろ、久須那ちゃん?」
「それは……、そうだが……」
「てめぇがいれば一騎当千。トリリアンの天使は迷夢が何とかするだろうから、俺たちはガーディアンを降参させればいい訳だ。ちなみに、俺たちが全員役立たずでも、久須那一人で全部やっつけるってことも出来ると思うけどね?」
「それでは期成同盟の存在価値が問われると思うが……そこはどうなんだ?」
「ま、そうはなんねぇよ。久須那を含めての期成同盟だしな。それに期成同盟軍の連中に能無しは誰一人としていねぇ。戦力はたいしたことねぇとも言えるが、臆病風に吹かれていなくなったヤツはいねぇだろ。だから、ちゃあんと最初の予定通りにしてみせるよ」
「……その要の人材が一番、信用できないんだけどな……?」
「ほー。それは一体、どなたのことでしょうか?」にーっとサムは微笑む。
「――お前のことだろ? サム」
「否定はしねーな。しかし、俺の作戦は信用してくれねぇと二進も三進もいかなくなるぜ」
「信用に値する作戦なら、わざわざ何かを言おうとは思わないが……?」
「あーそう。もう、好きにしな。後で吠え面をかくなよ」
「お前こそ、泣き面を晒すんじゃないぞ」久須那はサムの顔を覗き込む。
「そんなワケはございません。さっさと行くぜ」
サムは久須那を残し、ズンズンと先に進んだ。近くにいると色々と突っ込まれてどうにも分が悪い。実際、久須那の言う通りに期成同盟軍の戦力など高が知れている。それを最大限に活用し、活路を見いださねばならない。ハッキリ言って最悪の極みだ。それでも、サムはテレネンセスから、王子を拾い、アイネスタに至る道すがら、どのように軍を動かすことがベストの選択となりうるのかを考えていた。
「しかしなぁ、結局は久須那を頼らざるをえねぇんだろうなぁ……」
頭が痛い。とは言え、最小の兵力で最大の成果を出すのがサムと、そして、ウィズの役目だ。グダグダと愚痴を言っている暇があれば、まともな戦術の一つでも一つでも捻り出した方がいいに決まっているが、未だ、妙案は捻り出せないでいた。
そして、行軍を続けるエスメラルダ期成同盟軍の目にアイネスタの看板が目に留まった。
「――アイネスタ……か……」
サムは周囲を一回り見回したあとで言葉を洩らした。その昔はリテールの中心地として、東方西方の交易中継点としてとても発展していたのだという。それが今は……忘れられた南の小さな田舎町。トリリアンが産声を上げたころの寒村とまで言われたクアラパートとさほど変わりのないほどの寂れっぷりだった。
「おい、久須那。空から見てるとどんな感じだ?」
サムはいつの間にか再び上空を飛んでいた久須那に声をかける。
「そうだな……。何の変哲もない小さな町だな。今、ざっと周囲を確認した限りでは以上はないと思うが、いくつかこちら側からは完全に死角になっている場所がある」
「なるほど、油断は大敵、その行く末は未だ神のみぞ知る、ってワケか」
「クロニアスも知っていると思うがな?」
「クロニアスが知っていても、俺たちに助言をくれねぇのなら、結局は同じさ」
すると、久須那はちょっとムッとした様子でサムを見つめていた。
「ともかく、軍は街の外に野営させて、俺たちは王子を連れて教会に向かう。久須那は手抜かりなく周囲の警戒を怠らないでくれ」
「当たり前だ。むしろ、わたしはお前たちの方が心配だ。ガーディアンの狙いは期成同盟そのものではなく、期成同盟に“国家”としての役割を与えられる――」
「わざわざ、説教しなくても判ってるよ」サムは非常に面倒くさそうに左手をふりふりして久須那を遠ざけようとした。「アルル王子その人だろ。王子が死ねば期成同盟がいくら頑張ろうとも“エスメラルダ王国”は復活を遂げることは出来ねぇからな。――ただ、それで復活出来ないのは“王国”だけだ。軍事政権でも国を建てることは出来る」
「危険な思想だな」
「それも判ってるよ。だが、どっちにしたってよ、このリテールに国を建てるチャンスは今しかないんだ。何がどうなったとしても、最後までやり遂げるしかないだろ?」
サムは遠くから久須那の顔を見詰めた。
*
「――何か、ご用ですか」いつものように全くの冷静にベリアルは言った。「わたしにも予定がありますから、細かいことでいちいち呼ばれても困ります」
「これからわたしの言うことが細かいことだとお思いですか?」
ヘクトラは幾分の嫌みを込めてねっとりと言った。
「今までの経験からするとそのようになるでしょうね。……または、あなたにとっては重要なことなのかもしれませんが、わたしにとっては些細なことかもしれません。……あなたはこのような大きな組織を取りまとめるものとしては狭量すぎます」
「そうですか。あなたはトリリアン一聡明な方と思っていたのですが、この程度の考えの持主だったとは正直、失望しましたよ」
逆にそんな発言しかしないヘクトラに対して、ベリアルが失望したのは言うまでもない。が、ベリアルもわざわざその考えを表現しようとも思わなかった。既にヘクトラに抱いていた負の感情がより成長したに過ぎなく、発言したところでヘクトラが自身の負の部分を改選しようともしないことも知っていたのだ。
「さて、ともかく、わたしが言いたいのはそんなくだらないことではありません」
ヘクトラは毅然とした態度を示すと、執務机を離れ、窓際に佇んだ。ベリアルはヘクトラの動きを目で追っただけで、ホンの少しも動かなかった。けれど、ヘクトラが何を言い出すのかはほぼ見当がついていた。迷夢がこのアルケミスタの教会に現れたことで、何かを掴んだのだろう。
「――あなたは黒翼の迷夢をご存知ですね?」
誘導尋問のつもりなのだろうか。ベリアルは訝しげな表情でヘクトラの顔をのぞく。
「……単刀直入に仰ってはいかがですか? わたしもヒトと約束がありますから」
「その約束の相手は……迷夢ですね」
「そうですね」ベリアルは否定することなく言い放った。「もし、そうだとしたら、何か問題でもあるのでしょうか? わたしはわたしの友人に会いにいくだけです」
「迷夢はあなたのご友人ですか。あなたは彼女の内偵ではないのですか?」
「どのような根拠がお有りなのでしょうか?」
全く気にも留める様子もなく、ベリアルは平静さ百パーセントの返事をした。
「根拠などありませんよ。ただ、迷夢がこの教会に現れたのと、あなたが帰ってきたのとはあまりに時間が近すぎませんか? そして、あなたは迷夢をジェットのいる地下室へと導いたのではありませんか? ――少なくとも、迷夢が地下室にいたことは明らかです」
ヘクトラはそこまで言って初めて、黒い羽根をベリアルの視線の高さに持ち上げた。
「……迷夢がそこにいたとしてもわたしが彼女の内偵だと言う理由にはなりません。それに……会いに行くのは迷夢ではなく、ガーディアンのサラです」
そう言い残すと、ベリアルはヘクトラの許諾を得ることもなく、部屋を立ち去った。
文:篠原くれん 挿絵・タイトルイラスト:晴嵐改 |