18. meimu vs. jet（迷夢 対 ジェット）
「……ここか……」
感情も抑揚も全くない声だった。黒き翼のジェット。幾つかの情報からほぼ間違いなく新生エスメラルダ王国の国王となるべくアルル王子もこのアイネスタの小さな教会にいる。目的はアルル王子、その人の命。ジェットは敢えて、策を弄そうとはせずに正面突破を試みた。教会から逃げ出したとしても、必ず捕まえる自信はある。
ジェットは正面を切って――裏口からの侵入を試みた。
流石に様々に自信があるからと言って、礼拝堂から入り込む気にはなれないし、さらに何かの破壊魔法を使い壁に穴をあけて入ることもない。ジェットは裏口のドアノブをガチャガチャとしてみたが、開かないのでそのまま壊して中に入った。
「……やれやれ、困ったお嬢さんだ。最近の若い娘はノックも知らないのかな？」
「……お前は誰だ……？」
裏口から入った先にヒトがいたことに驚きもせず、平静にジェットは問う。いや、ジェットの目的を鑑みれば、目の前の人物を張り倒してしまっても何の問題もないはずだ。
「わたしを知らないのですか？ ――あなたの……敵ですよ」
黒翼の天使を前に臆することなく男は答える。
「……お前にわたしを止められるのか？」
「いいえ、わたしはあなたを止めるつもりはありません。あくまで王子を守るだけです。――あなたを仕留める役回りの方が別にいますからね」
「……。誰が……？」
「それはあたし」開かれたままのドアの柱に寄りかかって迷夢が佇んでいた。「いやさ、ベリアルが急かすから急いで来たんだけど、結局待ちぼうけよねぇえ。もう、来ないかと思っちゃった。――待ち侘びたわよ、ジェット……！」
「お前は……？」
三度目の出会いもやはり、初めての出会いと変わらなかった。結局、意識封じの呪法が発動されている間とそうでない間との記憶の整合性が全くないようだ。
「……はぁ――。もう、三回目……うん？ 四回目かな？ ともかく、いい加減にあたしの名前を覚えてよ。あたし、そんなにインパクトがない奴に成り下がったかと思ったら、凹んじゃうじゃない？ そ、あたしは迷夢。いいこと？ め・い・む！」
「迷夢……。お前は何故、わたしの邪魔をする」
「う〜ん。あたしはキミの邪魔をしてつもりはないんだけどなぁあ？」わざとらしく言う。そして、嫉ましいほどにきらびやかな笑顔。「むしろ、キミがあたしの邪魔をしているのよ。だから、あたしにはキミが目障りなのよねぇ？」
「わたしもお前が目障りだ。黒い翼の天使はわたしだけでいい」
「そう。奇遇ね。ちょうどあたしもそう思っていたところなのよ」熱血風でもなく飄々とした様子で、迷夢は答えた。「だから、あたしの前から消えてもらうの。永遠に」
「だが、もちろん、ここで剣を交えるのは遠慮していただけるのだよね？」
後ろの方で、こっそりと覗き見ていたアズロが言った。
「あら？ あたしはキミたちに危害が及ぶような場所で何かしらをしたいとは思わないんだけどぉ、問題なのはこの娘の方よねぇえ？ むしろ、キミたちにいなくなってもらいたい方なんだから。けど、大丈夫。パーミネイトトランスファー！」
魔法詠唱の素振りも見せずに、パーミネイトトランスファーを使ってジェットをどこかに空間移動させてしまった。
「これで、安心でしょ。そして、ここから先はあたしの仕事。キミたちはまた変な輩が来ないかしっかり見張って、……天使以外なら全く問題ないでしょうから」
朗らかにそう言って迷夢はジェットを移動させたとおぼしき場所に消えた。
＊
それは意地と意地が張り合うだけの無意味な争いなのだろうか。それとも、今後のリテールの未来を占う決戦の一部となりうるのだろうか。ベリアルとサラ。かつて、トリリアンでアリクシアの元に理想の実現に燃えていた二人がこのような形で争うことになろうとは少なくともベリアルは考えていなかった。いや、むしろそうなって欲しくないと言う願望だったのかもしれない。サラの“力”を使うこと、そして、ベリアルの敢えて何もせずに時期を待つと言うこと、親しい二人が理想実現に道筋を違えたときから、やがてはこんな日が来ることが運命づけられていたのかもしれない。
「あなたたちは当初の予定通りの作戦行動を続けなさい」
サラのその一言で、ガーディアンは一斉に動き出した。
「さて、わたしに執着しているとガーディアンを止められなくなりますよ？」
「――ガーディアンを止めるのはわたしではありません。わたしが止めるのは……あなただけです、サラ。――覚悟はよろしいですか？」
ベリアルは決然と言い放つ。剣はあまり得意ではないが、そこら辺のヘボ剣士よりは十分にサラと渡り合える自信はある。しかし、サラは剣よりも高等魔法を得意とするハイエルフ、下手に追い込んで剣と魔法の複合技を炸裂させられたら、ひとたまりもない。その危険な事態に陥らないためにはサラの一挙手一投足にも気を配らなければならない。
「覚悟など、当の昔に決まっています」
サラは言う。今まで協会に向けていた武力を期成同盟に向けるのだから、期成同盟を潰しそれを支持する協会の権威を貶め、自分たちのトリリアンの影響力を強めていくことを望んだ時から、捕らえられてどんな目に遭うかまで織り込み済みなのだ。ただ、仮にそのようなことになるとしても、ベリアルに後れを取るつもりはない。
そして、覚悟の決まったヒトほど始末の悪いものはない。それこそ自ら退路を断っているために負けが鮮明になったとしても決して引かない。引かなければ、行き着くところまで行ってしまえばいいのだが、ベリアルとしてはそうもいかない。
「……未だわたしの前にいると言うことは引き下がるつもりはないと言うことですね」
わざと間延びさせ、立ち去る時間を与えたが、それは無駄だったようだ。ならば、加減する必要もない訳だ。半端に情けをかけてしまったら、のちの自分の邪魔になる。
「では、あなたにはここで消えてもらいます」
その冷たく感情のこもっていないサラの言葉に、ベリアルは静かに首を横に振った。互いに互いを言葉で理解することは不可能なのだろう。
「……消えるのはあなたです……」
ベリアルは静かに、けれども、決然と言い放った。
一方、エスメラルダ期成同盟軍は軍の最前線でガーディアンの姿を確認できる状況にあった。未だ戦闘は始まってはいない。サムの予想ではガーディアンの要たるサラがベリアルに足止めをされてしまったために意思決定が鈍くなっているのに違いない。その隙を狙って先制攻撃、一気にガーディアンを叩きつぶすことも出来なくはないが、現状の期成同盟軍の戦力を考えると何もしない方がよいような気さえしてくる。
と、ああだこうだと考えているうちに、サムの視界に何かが見えた。
「……なあ、さっき、てめぇがベリアルを投げ込んできた辺りで、かなり激しく土煙が舞い上がっている。あれは大丈夫なのか？」
「知らん、そんなことは。……しかし、迷霧が連れてきたエルフだからな、魔法にも剣にも、戦術にも何かしら長けているところがあるんだろう？ しかも、サラとの一騎打ちと言うことなら、まぁ、それなりに……」
「それなりに……何とかなるのか？ 何だか、ロクでもないことになりそうなきがしないでもないが……。心配するだけ、無駄と言うことか……」
サムは幾分の不安を抱えているようだった。
「ロクでもないのはいつものことだ。無茶、無理は力技で何とかしてきただろ？」
「確かにな。けれど、それは少人数の時だろ？ 流石に、これだけの人数で、これだけの戦いで、力技だけじゃあどうにもならん。俺が魔法をぶっ放したところでちーとばかり足りないような気が済んだけどね？」
「じゃあ、秘密兵器を使うのか？」
「使いたい気分だね、俺は」
「アズロ盟主は何だって言ってる？」久須那は問う。
「アズロ盟主は人的被害を最小限にとどめろとは言っていたな」
「それだけか？ 他には何か言ってないのか？」久須那の疑問にサムは頷いた。「――それでよく、期成同盟の盟主が勤まるな？」
「今更、言うほどのことでもないでしょ？ アズロ盟主は以前からそういう感じだし、先代のアズロ盟主もあんな感じだったらしいぜ？ だが、しかし、ちゃあんと先を見通して作戦を練り、行動しているようだぜ？ なあ、アズロさんよ？」
サムはクルリと振り返り、二人の最も近くにいた男に声をかけた。
「――そうですね。今回はわたしの作戦と言うよりは迷夢さんに振り回されているとも思いますが、おおよそ、思い通りに良い展開をしていると思います」
「い、いつの間に、どこから？」久須那は狼狽した。
「そうですね。ついさっき、ひっそりと」そして、奇妙ににこやかな笑み。「気配を消して、存在を悟らせないことなどは朝飯前ですよ」
こう言う男が敵でなくて良かったとつくづく思う。神出鬼没で、気が付いたら既に任務が遂行されている。或いは気が付かないうちに全てが終わっている。実際、久須那はアズロと言う男の正体はよく知らないが、少なくとも全てに関して手回しがいいことはよく判る。そして、自身の采配が必要な時には必ずそこにいる。
「それでよ。その朝飯前は何をするつもりでいるんだ？」
「主力ガーディアンのトップはベリアルさんが抑えているようですから、心配の必要はないでしょう。ですから、わたしたちのすべきことはトップを欠いている彼らの戦意を喪失させること万一、サラに戻ってこられると厄介ですから、早めにケリをつけましょう」
丁寧な言葉遣いの中にも絶えず刺々しさが宿っていた。
「……一旦、軍を引き揚げて、……秘密兵器を使ってしまいましょうか？」
「だってよ、久須那。スタンバイ、よろしく頼むぜ？」
「……。卑怯な気がして、非常に気持ちがよろしくないのだが……？」
「また、細けぇことを……。まぁ、大筋で否定するつもりはねぇがよ。こっちが卑怯なら、向こうはもっと卑怯だろ。さして、気にするようなことでもねえと思うぜ？」
「相手が卑怯だから、こちらも卑怯でいいと言うことにはならないのだぞ」
「そりゃな。だが、こっちは向こうよりも遥かに非力なんだぜ？ 知略を駆使し、策略を巡らせ、いかにこっちの被害を最小限に、向こうの被害を最大に……と言うか、鮮やかに戦力を喪失させるかが腕の見せ所だろ？
「そこで秘密兵器の登場となる訳です」
もはや、返す言葉もない。何を言っても“秘密兵器”に戻ってくるのなら、どんな発言も意味をなさない。もう、黙ってうんうん言ってる方がいいような気分に久須那はなった。
「……それで結局、その秘密兵器は何をしたらいいんだ？」諦めた。
「久須那の得意な魔法は何でしょうか？」
「魔法なら、概ね何でも。得意なのは無論、光か、炎の魔法だが、それ以外の属性が使えないと言う訳ではないからな。聞いたこともないような魔法をいきなりやれといわれると、流石に困るが、それ以外なら……」
「なるほど。では、目眩しに閃光を放ち、気を逸らせている間に空間飛翔系の魔法……光属性で選ぶのなら、パーミネイトトランスファーですね。その魔法でガーディアンたちをバラバラの場所に転移させてしまうことは可能ですか？」
間を置かずに答えが飛び出してくるところをみると、ある程度は最初から参段をつけていたようだ。期成同盟軍の被害を最小限に、尚且、無駄な戦闘はしない。ガーディアンもばらけさせてしまえばすぐに集まって何かをしようと言うことにはならないだろうし、構成員が再終結する前にガーディアンのまとめ役ともいえるサラや、その他のガーディアンにおけるヘッドも期成同盟の保護下に置かれていることだろう。
「やって出来ないことはないが、大幅に魔力を消耗しそうだな」
「何も一人でやれと言うのではありませんよ。魔力の供給源としてわたしとサムがいますから、心置きなく存分にやってもらって構いませんよ」
「おいおい、俺を抜きにして勝手に決めないでもらいてぇもんだね？」
「ダイジョウブです。サムに拒否権はありませんから」アズロは微笑む。
「あーそう。俺ってばいつもそんな役回りを受け持つんだな」
「まぁ、そう腐るな。そこまでやっていいのなら、すぐに決着はつく」
「じゃあ、まあ、さっさとやってくれ」
サムは投げやりに答える。正直に言えば、現状の期成同盟軍の実力ではガーディアンを打破することは不可能に近く、蹴散らすどころか、戦意を喪失させることも出来ないだろう。かといって、自分の出る幕もなく、撹乱作戦で決着がついてしまうのも何とも淋しい。
「あぁ、それからウィズ」アズロは更に言う。「空間飛翔系の魔法から零れ落とす者たちもいると思うので、そちらはしっかりと対策をお願いしますよ」
「了解。変な気をおこされないように頑張ってみるよ」
「では、さっさとやってしまいましょうか？」
久須那は視界の開ける上空へと舞い上がった。
＊
ガーディアンと期成同盟軍が膠着状態を続ける中で、もう一つ、密やかに一対一の戦いがあった。迷夢とジェット。迷夢としては何とか無傷でジェットを手に入れたい考えだが、これまで数度のやり取りでは不可能に近い。ならば、完全実力行使の上、強引にジェットを手中にし、さらに意識封じの呪法を解くしかない。そのためにはヘクトラを生け捕りにしておく必要があって……。もはや、考えるのも面倒くさい。
「いい加減、これで最後にしましょう」迷夢は言う。
「……お前が勝手にしつこいだけだ。放っておけばいい」
「あら、そぉお？ キミはそれでいいかもしれないけど、あたしはそういうワケにはいかないの。キミをひっつかまえてお持ち帰りになるまではね」
「お持ち帰り？」
「そお、お持ち帰りよ」迷夢はニンと笑った。「キミをあたしのおうちまでもって帰るの。そして、しっかりと本当のキミに戻ってもらうの」
ジェットには迷夢のいっている意味が判らない。自分は自分にほかならないし、そもそも呪法により元の人格が押さえつけられている認識はかけらもありはしない。
「ま、キミに判ってもらう必要はないけど。いいや、正確にはキミの中にいる本当のキミに用事があるの。だ・か・ら、キミは消えて欲しいの、あたしの前から永遠に」
「永遠に消えるのはお前だ」
「そお？ 今までは思いっきり手加減してきたんだけど、もう手加減はないわよ。全力でキミを叩き潰してあげる。そんなこと出来るはずないとでも思っているでしょ？ けど、そんなことが出来ちゃうんですよ〜。期待していてね♪」
意味深長な冷たい笑みを浮かべて、迷夢は虚空から銀色に煌めく物体を取り出した。レイピア。天使は何かしらの得物をもって生まれてくといわれ、迷夢が手にして生まれたのはその刀身の細いレイピアだった。そして、ジェットが持っているのは幅広のブロードソード。剣だけで見れば、突き刺す剣と叩き斬る剣との戦いだ。
（出来るだけ、短時間で決着をつけないと……）
それだけ、迷夢自身が不利になっていく。対魔法、対剣で何の制約もない戦いならば、決して負けない自信がある。けれど、今回はジェットに出来るだけケガをさせないと言う戦うこととは相反する条件が課せられている。しかも、それは迷夢にだけ付けられた条件であり、ジェットには迷夢を傷つけてはいけないと言う条件は一切ない。故に、始めから、条件はジェットが有利なのだ。
「お前に用事はない」ジェットは迷夢に言う。「わたしが用事のあるのは……」
ジェットは迷夢に背を向けて、教会に向き直った。が、当然のごとく、ジェットと迷夢が対峙して、自分たち三人から視線が外れたうちに見えないところに逃げ込んでいた。
「――いなくなった……」
「いなくなったわね」迷夢は三人の行動の早さにちょっぴり感心した。「だから、これで心置きなくあたしと勝負が出来るってワケでしょ？ いや？」
ジェットは迷夢を凝視したまま答えない。
「おっと。あたしを無視して、王子さまを捕獲しに行こうってのかしら？ けど、行かせてやんない。どうしてもってんなら、地面に這いつくばらせてからにしなさい」
挑発的に迷夢は言う。軽く喋ったくらいではジェットは逃げる。しかし、今、ここからジェットに逃げられては困るのだ。何としても適当に言い包めてジェットから迷夢に仕掛けたがるように仕向けなければ、いくら迷夢がきっかけを作ろうとしても手のひらから零れ落ちる砂のようにスルスルと逃げられてしまう。それは避けたい。
「――。キミ、自信がないんだ。あたしに勝って、王子さまを追いかける自信がないのね。だから、いつまでもそうやって、あたしの隙を窺っているんでしょう？」
ジェットは答えない。そして、迷夢はさらにジェットを挑発する。なかなか感情的にならない相手だが、アリクシアよりも数段扱いやすい。前回、前々回とジェットの性格分析の甘さと事前準備の足りなさとが相まって迷夢にとっての良い結果は導き出せなかったが、今回ならいける。いや、絶対是が非でもジェットを手中に収めなければならない。
「あたしに隙なんてないのよ」迷夢はケラケラと軽く言う。
「お前を倒すのに隙などいらない。すぐに今ここで、剣の錆にしてくれる」
「それはあたしのセリフなのよ。ま、キミを錆にするワケにはいかないんだけどね。だぁって、死んでもらったら困っちゃうんだもの、あたしが！」
ジェットは瞬間、戸惑った表情を見せたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
そして、真剣勝負。迷夢がケラケラと笑っているうちにジェットは動く。迷夢は数度、やり合っているとは言うが、ジェット自身にははっきりとした記憶がない。しかし、この短いやり取りの中で迷夢が厄介そうな人物だと言うことは悟ることが出来た。ならば、短期決戦だ。こう言う掴み所のない相手は長くなるほど、始末が悪くなるものだ。
「死ねっ！」ジェットの口から無意識のうちに声がほとばしった。
「ダイジョウブ、あたしは死なない！」さらに迷夢は対抗する。
ギィイィイイイイイィイン。激しく、剣が交錯する。そこら辺のヘボ剣士がやりあうようなレベルではない。並の剣ならへし折れるほどの衝撃であり、魔力のぶつかり合いだった。
「やっぱり、うかうかしているとやられちゃいそうだね♪」
余裕のありそうな言動をとるが、全くもって余裕はない。迷夢の二度ほどのジェットとの戦いでおおよその癖だけは掴めたが、それに対抗するのは容易ではない。呪法により形成されたジェットの第二の人格は感情に支配されにくいため、迷夢の常套手段、舌先三寸の感情撹乱作戦になかなかうまくかかってくれないのだ。それでも、一応、迷夢も魔法、剣術ともに一流ではあったから、それなりに何とかは出来るだろうが。
「――うかうかしていなくとも、お前ごときはわたしの敵ではない」
「ホ〜ントにそう思うのかしら？」にんまり。
相変わらず迷夢にとって分が悪いとは言え、前回、前々回のように力を推し量るための探りを入れる必要はない。それが迷夢に本の少しだけ、心の余裕を持たせていた。長期戦は避けるために、ひたすらにジェットを挑発し、正確な判断能力を鈍らせた上で一気に叩く。
「あたしを手玉に取れるってなら、とってごらんなさいよ。――あ、そっか、口では色々言ってるけど、自信がないんだものね、キミは。――だって、そうでなければ、二度までもあったチャンスを一度もものに出来なかったんだものねぇ」
悪意に満ちている。これまでの経緯を踏まえれば、呪法により形成されたジェットの人格は挑発に乗りにくいようだが、ここまで言われて黙っていられる者もいまい。そして、明らかにジェットのまとった空気が変わった。絶えず飄々として、まるで迷夢など眼中にない様子だったのが、ここで迷夢を蹴散らそうと言う意気込みに変化している。少なくとも、迷夢はそう幹事とたった。それこそが迷夢の最も扱いやすい精神状態なのだ。
「――。くたばれ……」
「そうこなくっちゃねぇえ……」舌なめずりしそうな勢いで、迷夢は微笑む。
ジェットは瞳を閉じて、大きく深呼吸をした。絶対にやっつけてやる。そんな雰囲気を全身から発していた。こうなれば、まさに迷夢の思うつぼ。正常な判断力を欠いたものほど手玉に取りやすい相手はない。二度までも挑発には乗らなかったジェットだが、かかった。
と、ジェットはブロードソードで切りかかった。
ギイィィインン。迷夢の細身の剣と激しく交差した。
「えへへ。切れが足りない」悪辣に笑みを浮かべる。
「くっ」一瞬、ひるんだ。取るに足らないと思った相手に何故か恐怖を感じた。
間合いを開くためにジェットが後方に飛び退こうとした瞬間、迷夢はジェットの左腕を掴んだ。得物が非常な至近距離にあるからには危険極まりない行為ではあるが、今この時、この瞬間ならば、やれる。やる他ない。
「ごめんねぇ、ジェット。散々のせておいて、こんなんで」
迷夢は細身の剣を虚空に消すと、ジェットのみぞおちを力一杯に殴打した。
「まあ、ざっとこんなもんよね。――さてと、この娘はどこに預けようかなぁ。流石に誰もいない野っ原に放置もあれだし。万一、目を覚まされてどっかに行っちゃったら、振り出しに戻る……、一からにはならないだろうけど、ちょっと厄介よねぇえ……？」
しばらくして、迷夢は何かにピンときたような明るい笑みを浮かべた。
「振り出しに戻る。本日の振り出しに預けちゃおうっと♪」
迷夢はジェットを抱えると、空中に勢いよく舞い上がった。
文：篠原くれん 挿絵・タイトルイラスト：晴嵐改