22. remember him(思い出して)
「先にお前が名乗れ! それが礼儀だ」
久須那は気を取り直し、険しく眼差し、厳しい口調。イグニスの炎の弓が申を標的として捕らえ、その矢尻は申の心臓を狙っていた。
「……申だ。サラフィの申……。退魔師。ジーゼの保護者」
「ジーゼの保護者?」久須那はつい、申とジーゼを見比べた。「司祭さまとは?」
「――手短に言うと、キミやサムのことを教えてくれた人。そして、俺は……いや、“俺たちは”かな?」手をつないだままのジーゼを見下ろす。「キミの味方。少なくとも敵じゃない」
「敵……じゃない? ……信じてもいいのか?」
「いえ〜す。ど〜んと信じて、申ちゃまと一緒に撃沈しな〜い?」
「……それは嫌だな」
それから、急激に高まった緊張感は地面の下遙か彼方まで下がっていった。久須那はぺたんとへたり込んで、申は立ちつくした。互いに敵同士ではないことが判って安堵したのだ。
「飛べなくて、これ以上、ハンターが来たらどうしようかと思っていた……」
率直な思い。昨夜から続く緊張の連続と寝不足で疲れ果てたまま倒れてしまいそうだった。サムもいなくなり一人きり。誰かの助言にここまで来たのはいいけれど、光の玉を持ったままどうしたらいいのか判らなくなってしまっていた。そこへ申が現れた。
「じゃあ、木に登ろうよ」ジーゼが梢を指さした。「あそこなら、なかなか見つかんないよ?」
「――そうしたら、夜まで木の上で一休みいたしますか?」ジーゼと申の瞳が出会う。
「おりょ? そう言えば、今度はひっくり返らないのね。申ちゃま? 成長したの?」
「そりゃ、多少はね」ウィンク。
「あの、その、でも、わたしは飛べないから……」
「大丈夫さ。俺が連れてく」
そして、三人と一匹は木の上から森の泉を眺めていた。誰も現れない。ここはまだ無傷だったから、さっきまでの出来事がウソのように思えた。全部、幻だったと思いたい。けれど、久須那のウエストポーチは確かにあの時の光の玉が入っていた。それは時々思い出したかのように揺れて久須那にその存在をアピールしていた。
「ねぇ、久須那さん」
「何だ?」
「いや、別に何でも……」久須那の気高さに気圧されて口ごもってしまった。
「途中まで言ったんなら、最後まで聞いちゃえッ! ねぇ? ど〜して、サムと一緒にいたの? って聞きたいんでしょ〜」天真爛漫な笑みを浮かべ、厳しいことも平気で言ってのける。
「無理無理〜。だぁって、申ちゃまは東方随一の意気地なしでさぁ〜」
「うるさいよ、お前」申はちゃっきーをメッと睨み付けた。それから。
「だって、そうでしょう? 久須那さんとサムは敵同士だったはずなのに……?」
出来るだけソフトに柔らかな口調で喋る。せっかくのほのぼのとした雰囲気を壊したくない。
「どうしてだろうな?」
儚い笑みを浮かべて久須那はそれ以上喋らなかった。そのまま、会話もなく時が過ぎるのを待つ。気まずい空気。聞きたいことがもっとたくさんあったはずなのに問えない。枝の上で、申の横に座った久須那はひどく淋しげで申の心をギュッと締め付けた。こう言うときこそ茶化して欲しいちゃっきーも居心地のいい枝を見つけたのかすっかり夢気分のようだった、
そのまま、会話もなく止まってしまったかのような時はそれでも流れて夕方になった。
「――そろそろ、降りませんか。火を付けて、簡単なめしでもぉ……、あ、いや、でも、賞金稼ぎに見つかったらまずいか――」
どこか照れているような申の姿を見て、久須那はクスリと微笑んだ。
「お尻が痛くて、降りないかって言おうと思ってた……」
「ホントですか」申の顔がパッと明るくなる。「じゃ、すぐに降りましょう!」
「え〜っ? おいら、こいつがすっごぉ〜く気に入ったのにぃ」
ちゃっきーはさっきまで抱き付いていた枝に頬ずりしている。申は何とも言えないアホらしさを感じて、ため息まじりでちゃっきーに軽蔑の眼差しを送っていた。
「じゃ、お前だけ、ずっとそこにいろ。腹が減ったら自分でも食ってろ!」
三人と一匹は森の泉で小さなたき火を囲んでいた。そのうちの一人と一匹はどこからエネルギーが湧いてでてくるのか元気いっぱいに飛び跳ねてはしゃぎ回っていた。そして、少し落ち着いた頃に久須那はふと思い出した。
「狭くて苦しかっただろう?」
久須那がウェストポーチのふたを開けるとポンッと勢いよく光の球が飛び出してきた。そして、久須那のそばを漂ったり、文句を言いたげにくるくる回っていた。
「そ、それがウィル・オ・ザ・ウィスプ?」申は思わず指さして、口をパクパク。
「うわっ! ホントにまん丸だ。ね、光ってるよ。白〜いよね? ふわふわしてて柔らかそう。ね、ね、触ってもいい? 触ってもいいでしょう? ねぇ、久須那、申〜?」
ジーゼは哀願する眼差しで申と久須那を交互に見詰めていた。
「それは直接、浮いてるやつに聞いてごらんよ」
すると、驚きのあまりなのか光の玉は動くのをやめてしまった。それから、幾ばくかの戸惑いを隠せない様子でそ〜っと久須那の後ろ側に回り込んだ。
「あらら。嫌われたようだぜ、ジーゼ」
光の玉はおっかなびっくりでジーゼをじっと見詰めてるみたいだった。それを見て、ジーゼはぷ〜っと不機嫌そうにふくらんだ。
「何で、逃げるのよ! ちょっと、待ちなさいよ。こら、待てったら!」
「……あれは、もう、サムじゃないんだ」ことのほか淋しそうに久須那は呟いた。「この世に未練を残した可哀相な魂。サムの記憶を奥底に秘めたただの光の玉?」
「ホントにそうなのかな? それ、随分と久須那さんに懐いてるようだし。ただ逃げてるように見えるけど、ジーゼと遊んでる」
「だぁ〜か〜らぁ。潰しちゃったりしないからぁ!」
ジーゼが追い掛ければ、光の玉はフワフワと逃げ回る。ジーゼの手がひょっと手を伸ばして掴もうとすると、光の玉はフワッと軽く避けてしまう。端から見ていると結構滑稽で面白かったけれど、ジーゼは本気、光の玉もそれなりに必死に逃げ惑っているようだった。
「ホラ、いいかげんに捕まってあげなよ」久須那が言った。
すると、光の玉は「えぇえ??」と言いたそうに久須那の目の前で急ブレーキ。
「やったぁ♪ つっかまえたぁ♪」
ジーゼが光の玉を両手でそおっと捕まえて、嬉しそうな声を上げた。一方、光の玉はやんちゃなジーゼに一体何をされるのか。と、手の中でおっかなびっくり震え出す始末。
「大丈夫だってば! ただ撫でてあげるだけだから。ね?」
「……ウィル・オ・ザ・ウィスプ。これが異界への鍵だって言うなら、ジーゼの記憶への鍵にならないのかな。司祭さまが言っていたんだ。精霊核は記憶の結晶化したもの。普通は森を映す鏡だけど、何か、切っ掛けがあれば精霊核の中身を取り出せるんじゃぁ」
小さなたき火を挟んで申と久須那は差し向かいに座っていた。 ジーゼはさっきからしゃぎすぎたせいなのか、眠い目をこすりながらうつらうつらと船をこいでいた。
「判らない」久須那は枯れ枝を拾って火にくべた。
「判らない……?」
「ああ、判らない。……精霊に詳しい人と言うのもざらにはいないからな」
「そうだよなぁ」申は頭の後ろで手を組んで仰け反った。「でも、本来のジーゼがいてくれたなら勇気百倍は間違いなし。この森は俺たちの味方だけど、やんちゃガールじゃ百パーセントの能力は引き出せていないみたいだし……」
パチン。木が弾けて一瞬だけ辺りがパッと明るく照らし出された。このまま、朝が来なければいい。明けない夜が一つくらいあってもいいじゃないか。理不尽な望みなのは判っていた。でも、明日が来なければ、何も終わらない代わりに何も始まらない。それでもいいのかもしれない。
「けど……試してみる価値はあるのかもしれない」
呟くように久須那は言った。深遠な闇を照らし出す仄かな光を受けながら。
「じゃあ、ジーゼの精霊核のあるところに行こうか?」
「今からか?」久須那のきつい視線が申を捕らえた。
「えぇ、そうしないと期日にはきっと間に合わない」
「期日?」訝しげに問う。けれど、久須那には何となく想像がついていた。
「そおか、久須那さんは知らないんですね……」
申は懐にしまい込んだ手配書を取り出した。一枚目はアルケミスタで牧師にもらったもの、二枚目はエルフの森での入り口でゴロツキからもらったものだった。申はそれらを久須那に手渡した。
「……。なるほど。明日の夕方までか。とすると、昼過ぎまでには……来るな――」
「だろう? だから、試してみるなら夜が更ける前に……」
「夜更け前……か、でも、ジーゼがいるからと言っても夜の森は危険だ。それに……わたしを狙った賞金稼ぎがたくさんいる。松明なんか掲げて歩いたらいい標的だ」
「で・す・よ・ね……」大きなため息。
「大丈夫だよ。みんな、手をつないで、わたしが先頭を歩くから」
オネムだと思っていたジーゼが起きあがって二人に近づいてきた。
「ホントに大丈夫なのか?」久須那が言う。
「いいこと、久須那? ここはわたしの森なのよ。わたしが知らないことはないの」
言われてみればそうだとも思う。けど、子供の姿のジーゼを見ていれば、いささか頼りない。
「ちぇっ! ふったりとも信用してないし〜。あのね、木の一本一本がどこに生えてるのかパーフェクトに知ってるの。暗記とかじゃないよ? この森がわたしの全てだから」
橙色の炎に照らされたジーゼが奇妙に大人びて見えた。本人にも意識されないどこかで、ジーゼはもとの姿に戻ろうとしているのかもしれなかった。
「ジーゼを信用しよう? 久須那さん」
「いや、別に信用してない訳じゃ……」つい、オタオタしてしまう。
「そのアワってぷりはただごとじゃね〜のねぇ」腕を組んで仰け反ってへへ〜んのポーズ。
「だから、その、慌てている訳じゃないんだけど……」
「ちゃっきーには何を言ったって無駄ですよ。軽くあしらって置けば満足なんです。あれは」
「そうなのか?」久須那は半信半疑そうに申を見詰めていた。
「ともかく、行きましょう? 行ってみたら、ホントのことが判る様な気がするんです」
そして、三人は手を取り合って、一匹は申の薬箱の上で揺られながら進み出す。ジーゼは本当に夜目が利くようで下草や木の根に足を取られることなくスイスイと歩いてゆく。その一方で、申と久須那は散々な有様だった。
(空を飛べたら……)正直な思いが久須那の脳裏を駆け抜けていく。
「ひ〜、昼間は苦とも思わなかったのに、つ、辛い」
寝静まる森は恐怖の象徴。けれど、今宵は力強い味方がいる。彼女がいたら森は穏やかに真の眠りにつく。ジーゼの森はそよ風に梢が揺られる音さえも聞こえずに、耳がキーンとするような静けさに包まれていた。
「もうすぐそこだからね、ちょっとだけ我慢」
暗い森に響く明るい声。
ジーゼが例の小さな広場に入っていくと、虚空からフォレストグリーンのクリスタルがスーッと姿を現した。仄かな月明かりを浴びて、囁くように微かに煌めいている。
「でも、何も判らないぞ?」久須那は暗がりの中新の姿をたどって言う。
「俺だって知りませんよ。けど……」
「けど?」訝しげに久須那が問う。
「けど、ジーゼが知ってる……」申はジーゼを指した。
「ジーゼが……知ってる?」久須那は振り向く。
「ええ、ホラ、見てください」
ジーゼは自らの精霊核の前に立っていた。両手を精霊核に差し伸べて、まるで自分の記憶と対話しているようにも見えた。森と、精霊核と、ドライアード。それは実像と、鏡と鏡像なのだと。けれど、精霊核はただの鏡ではなく、その中に「森」という名の記憶を封じ込めた結晶体。
「久須那……。ウィル・オ・ザ・ウィスプを貸して……」
ジーゼのどこかトロンとした眼差しが久須那を捕らえていた。夢見心地。幻想的? 月明かりの闇の中でフォレストグリーンの不思議な輝きが辺りを照らし出していた。
「久須那さん」申はぼうっとしてしまった久須那の腕を突っついた。
「あ? ああ……」
久須那はウエストポーチのふたを開ける。けど、いつもは元気良く飛び出してくるそれは場のおかしな空気を察知したのかこわごわと頭(?)だけを覗かせて、出てくる気配を見せなかった。
「どうした? 狭いところは嫌いじゃなかったのか?」久須那がポーチを見下ろす。
すると、光の玉は視線(?)を久須那に向けて、“いやいや”をして見せた。
「こっちにおいでよ。ぎゅって抱き締めてあげるよ♪」
ジーゼの甘い言葉にほだされたのか光の玉はフヨフヨと漂いながら、近寄っていた。
「――結構現金だぞ、あいつ……」申に耳打ちしながら後ろ指を指す。
「ええ、でも、そんなかたいことはこの際言わずに……」
「見ててみるか――」
久須那は腕を組んでちょっとだけ憮然としているようだった。どうでもいいと言えば、ホントにどうでもいいのだが、自分に懐いてたものがあっさりと手のひらを返したようにジーゼのところに行かれてしまったら、機嫌も悪くなると言うものだ。
「あんな邪なやつのどこが“純心”なんだ?」納得がいかずに、申を責める。
「はぁ……、そんなこと俺に言われても……」
ジーゼは漂ってきた光の玉を優しく抱き留めると、パッと精霊核の上に放り投げた。けど、何も起きない。光の玉は精霊核の六つの頂点の一番高いところにちょこんと可愛らしく収まっていた。
「……危ないから離れていてね、二人とも」
それから、和やかだった空気が張り詰めた糸のような緊張感に取って代わった。ジーゼが目を閉じる。帽子から溢れた長い髪がフワリと宙を舞って、瞬間、ちっちゃなジーゼが異常に妖艶に見えた。申はドキンとして、久須那もたじたじになる。それから、光の玉から下に向かってゆっくりと精霊核が明るいグリーンに輝いていった。不思議な光景。見るもの全てを魅了してならない。精霊核の煌めきが一巡して周囲が暗闇に包まれた。
「ど? どうなったんだ。一体」つい、キョトキョト。
久須那の問いに答えるものはなくて、広場はとても静かになった。いつもうるさいちゃっきーはと言えば、既に興味が失せてしまったようで、と言うよりはここに来るまでに寝てしまって未だに申の薬箱の上でぐ〜ぐ〜と高いびきだった。
「……サムなんか――大ッ嫌い」
なのに、どうして涙が零れてくるのだろう。唇を噛みしめて泣き声を漏らさないように頑張っても無駄な試みになりそうなくらいに胸が苦しい。
「あ……ジーゼなのか……?」
精霊核に再び光が灯り、周囲が微かな明るさを取り戻した時、久須那と申の前からやんちゃなジーゼは姿を消していた。代わりに光の玉を胸に抱いた申の良く見知ったジーゼが立っていた。涙のたまった潤んだ瞳がスッと久須那を見た。
「ありがとう……。久須那」
「礼はわたしに言わずにサムに言え」久須那は照れてしまったのかジーゼから視線を逸らした。
「いいえ」ジーゼは瞳を閉じて静かに首を横に振った。「久須那がいなかったらこれはわたしのところまで届かずに森もリテールももうなくなっていました」
物静かな落ち着いた口調で言われると心の中を淋しい風が吹き抜けていく。
「……でも、わたしと会わなければ、サムはまだ生きていた……。サムはあの日、わたしを殺せたはずなのに」久須那は拳をギュッと握った。
「けど、そう言う人だよ、サムは」
ジーゼは涙を忘れて、出来るだけ朗らかになるようにしゃべり出した。
「会う女、会う女、みんな大事なの。男なんてどうだっていいってほっとくくせに女と見れば見境なし。まぁま。久須那でしょ、レルシアでしょ、玲於那に、レイラにいったい何人囲んでたんだか。会ったら、文句の一つでも言ってやろうかと思ってたのに、勝手に死んじゃってさ……」
「……」無言。久須那はジーゼの話に相づちの打ちようもなくただ黙って聞いていた。
「ここはね、サムの好きな森だったの。森もサムが好きだった。ずっと昔、子供の頃からね……。せっかく、サムの記憶を封じて、わたしも忘れて。森との関わりを切ったのに。みんな思い出しちゃった。わたしと関わりを持った人はみんな不幸になったから……。なのにあのバカ、帰ってきてこんな……」
「協会がサムを異端に仕立て上げ、追い立てなければここには来なかったな。魔法騎士団での居場所も、テレネンセスでの居場所を奪ったのも協会なんだ」
「あ〜、ネガティブに考えすぎるのは良くないですよ、久須那さん」
「サムはそんなこと考えてないよ。この子から聞いたの」ジーゼは光の玉を手のひらに乗せて久須那に返した。「純粋にサムは思ってた。久須那と会えて良かった。久須那と飛べて良かった。でもね……サムは思ってた。久須那の泣き顔だけは見たくなかったって」
「でも、泣くなって言っても、無理だ」ちょっとだけ声が裏返っていた。
「安心して、サムはそんな久須那が好きだった。汚れたハンカチしかなくてごめんねって」
ジーゼを通して初めて知るサムの思い。すり寄ってくる光の玉を優しく撫でて、それをどう受け止めたらいいのか正直、戸惑いを覚えていた。
「ふふ。もし、サムが生まれ変わったら、久須那にあげるよ?」
「え……?」
でも、そんな思いは不意に森の梢がザワザワ騒ぎ出したことで消し飛ばされてしまった。
「……来た。天使が森の上に入ってきた……。もうすぐここまで……」
ジーゼは不安げに空を見上げた。まだ醒めやらぬ夜空に雲は一つもなく、完全な無風。ほぼ無音。森や森に住む者たちが生命活動をやめてしまったかのような異常な恐怖をあおる静寂。しんと静まりかえった嵐の前の静けさ。
「考えてたより、ずいぶん早かったな。……森から出ようか?」久須那が言った。
すると、ジーゼは首を左右に振った。
「行かないで。もう……、誰かがどこかに消えてしまうのは嫌だから。もし、そうなってしまったとしても、わたしの近くで……」
「そうか、ジーゼはもう覚悟を決めていたんだ」と思えば、急にここ二、三日のジングリッドの行動が不可解に思えてきた。「ジングリッドはどうしてわたしを二回も見逃したんだ? ためらう理由なんか一つもなかったはず……」
「自信が……あるんだろうな。でなければ、天使長の無意識下のメッセージ……」
「メッセージ? どんな?」
「でもなぁ、メッセージも何もないよなぁ。やっぱ、いつどこでも絶対勝てるって自信かなぁ」
「自信か? 自信も何も、わたしはジングリッドには敵わない……」
「そう、思い込まされているだけかもしれない。戦場で暗示はかなり効果的なんだ。だから、俺たちはこう考えるんだ。あんなやつらには絶対負けないってね」
「しょ〜しょ〜。しかも、こっちには天下無敵のジーゼちゃまがいらっしゃるのよ」
「ちゃっき〜?」にこやかな笑み。「あなたはいつも二言三言多いのよ!」
「ひぇぇぇえ〜。だから、どうして、こうなるの〜」
「もお、帰ってこなくてもいいですからね♪」
と言うが早いか、ちゃっきーをとっつかまえて剛速球で視界の彼方に消し去ってしまった。
「い、いつもこんなことをやっていたのか?」
「ええ、まあ。そんなものかしらね?」
「そんなものなのか?」
驚きは隠せない。けど、もっと驚いたのはどっかに飛んでったはずのちゃっきーの高笑いが久須那の背後から高らかに聞こえてきたことだった。
「ほ〜ほっほっほ〜。ご安心召されいっ! 久須那どの。これしきのことでやられたりめげたりするちゃっきーではございません! ここからが本番じゃぁ、天下分け目の大決戦! さあ、ジージェ、かかってきやがれぇ!」
「うるせぇよ、お前。そ・れ・に返り討ちにされてお星さまになるのが関の山だろ」
「えぇ、うるさいのは大得意! ちゃっきーが静かになったらちゃっきーにあらず。そりはおいらの殻をかぶったチーズケーキに他なんねぇ」
「はぁ〜ん。そっちの方がうまそうだな」
「いいえ」キョトンとしたあどけない顔。「おいらがうまいの。偽物がまずいの」
「ま、どっちでもいいよ、そんなの。ど〜せ、事の真偽なんて永遠に判らないよ」
「じゃあ! 今すぐ、食え。さあ、さあっ!」ちゃっきーが申ににじり寄る。
「腹こわしたら困るだろ?」クスッとするも結構本気だったりする。
「ちゃ、ちゃっきーは腐ってなどおりませぬ。おいしいおいしいチーズケーキの?」
背後に異様な空気を感じてちゃっきーは勢いよく振り向いた。ジーゼの足が見えた。そのままずーっと視線を上げていくと、大魔神のような険しい形相でジーゼが見下ろしていた。しかも、辺りの大気は電気的に奇妙にピリピリしていて、とってもいやな予感。
「……久須那さん、そばにいたらちょっと危ないかも……」
申が戸惑う久須那を引っ張ってちゃっきーから遠のいた。それから、まもなく、闇を引き裂いて空から真っ白い光の矢がちゃっきーに降り注いだ。
「代わりに焼きすぎの焦げたチーズケーキにでもなってなさい!」
「……うわぁ」焦げてヘロヘロになったちゃっきーを見て久須那は言葉もない。「あの、……ジーゼってあれだな。可愛い顔してやることが――大胆というか、派手というか……」
「大丈夫です。久須那にはこんなことはしませんから」
ニコリと微笑まれて甲斐甲斐しく言われてもいまいち信用していいものやら悪いのやら。久須那の胸中は複雑だった。森の主が本気になれば、天使兵団など造作もなく潰されるかもしれない。けど、どんな精霊との戦いでも天使たちは勝利を収めてきた。それが何故なのか久須那は知っていた。精霊たちはどんな時も優しかった。胸が痛む。その優しさを逆手にとって天使は幾多もの精霊核を手に入れてきたのだ。
「……? 久須那、どうしたの? 顔色が悪いよ」ジーゼが久須那の顔を覗き込んでいた。
「うん? ううん」ハッと我に返る。「いや、ちょっと、考え事をしてただけだ」
「天使兵団を蹴散らすまでは気を抜かないでくださいよ、久須那さん。必ずテレネンセスのあのシェイラルさんの教会に凱旋するんです。約束しました、シェイラルさんと」
「ああ、もちろんだ」
けれど、久須那はその教会がもうないかもしれないことを知っていた。
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