12の精霊核

←PREVIOUS  NEXT→

25. the calamity angels(災厄を呼ぶ天使たち)

 ドンっ。薄く白い雪が積もった緑の茂みを白い影が軽々と飛び越えて疾走していった。風のごとく、軽やかに。地面の凹凸などまるで存在しないかのように疾駆する。
「全く、世話の焼ける連中だ」その白い影は独り言を言う。
 北から南に下るにつれ、風景が変わる。
「しかし、迷夢に、レイヴンにとは厄介な連中に関わったものだ」
 間に合わないのかもしれない。彼はその時点で微かな予兆を感じていた。ゼフィが知らせを送ってよこした頃には既に夜半を回っていた。今は早朝。北リテールから中央に抜けるまでには、彼の足でも最低、半日から条件によっては丸一日を要する。
「……ちっ、パーミネイトトランスファーか、フォワードスペルでも覚えておけば良かったな」
 今さら、ぼやいたところで手遅れだというのは彼自身が最も理解していたのに違いない。
 ゼフィとシリアを中央リテールに送り出した時には、まだ霞がかかってはっきりしていなかった事象も今なら鮮やかに浮かび上がる。確定した将来ではないが、方向が定まるにつれ鮮明になる。彼はそれを“予兆”と呼んだ。避けられるか、否か。それは迷霧の果てにある。
「……どうせ、お前は気が付いていたのだろうな」
 彼はフと儚い笑みを漏らす。彼は最後に振り返りざま見せたゼフィの淋しげな眼差しを忘れられなかった。旅の装束、羽織ったボロボロのマントにはゼフィと彼の思い出がたくさん詰まっていた。そして、何よりもゼフィの傍らには自分ではなく、シリアがいること。
 その瞬間、確実に時が移ろうことだけは避けようのない事象として彼の瞳に映っていた。
 時代が変わる。などと格好良く言うつもりはない。長き混乱への幕開けか、それとも安寧の世の礎になるのか。どちらにしても劇的な変化の伴う何かがあることは承知していた。
 彼はこの旅路の果てに精霊王としての役割を終えることを予感していた。

 別れの朝が来る。そんなことを欠けらも思っていなかったシリアにもようやくそれが実感できるようになった。朝、起き出して、昨日までとは空気が明らかに異なっている。もう、朝食の時間だろうというのに、台所から届くはずの暖かい調理の音も、食卓を囲むはずの賑やかな声さえない。
「……ゼフィ?」ベッドから飛び降りてシリアは囁くようにゼフィを呼ぶ。
 返事はない。
「ゼフィ、いないの?」急速に不安に囚われる。「ねぇ。……久須那? マリス? レイヴン? ……迷夢ぅ〜〜。どこに行っちゃったの?」
 昨日の晩まで、わいわいと騒いでそのまま寝込んでしまったはずなのに。誰もいない。シリアが歩けば、床がぎしぎしと軋む音が聞こえて、心細くなっていく。ずっと歩いて、シリアは寝室から居間に出てきた。けど、そこは綺麗に片づけをされていて、人の気配すらなかった。
「あっ……」シリアは息を呑んだ。
 目に留まったのはイーゼルに乗せられたままの大きなキャンバス。レイヴンが夜遅くまで描いていた絵が一応の完成を見てそこにあった。肝心のレイヴンもみんなの姿も見えないのにその中にはみんながいた。不思議な感覚。シリアはその肖像に心を奪われ、暫く見惚れていた。そして、視線を下ろしていくと、キャンバスの隅っこに文字が書かれていることに気が付いた。
「――再び、この瞬間が訪れることを願って……。この、瞬間?」
 この瞬間とはどの瞬間なのか、シリアにはすぐには判らなかった。みんなで集まるのがこれで最後になるはずもない。ゼフィとシリアが北リテールに帰るまでにはまだ日にちがある。
「この瞬間……」シリアは血の気が頭から引き、心臓がドクンと大きく脈打つのを感じた。「この瞬間って、そんな。――そう言うことなの? レイヴン」
 シリアは期せずに後ずさりをした。急に恐くなったのだ。最後、最後と言っていた迷夢の言葉の意味がようやく届いた。仲間としてみんなが集うのが最後。
「そんなのイヤだよっ! みんな折角、仲良くなれたのに、どうしてそんなことするの!」
 シリアは目から涙が溢れそうになってくるのを感じた。彼らがどうして仲違いをしたのかシリアにはまだ理解できない。でも、居間に残された一枚の絵とレイヴンの短い文が端的に全てを物語っていることはシリアにも容易に理解できた。
 ガタン! シリアは朝の町へと飛び出した。恐くなった。そこには誰もいないのに、絵の中にいるみんながどうしようもないほど暖かく微笑みかけてくる。昨日の夜まで談笑していたはずのみんなが今日は背中を向け、別の方向に向かって歩いてる。
 虚像になってしまった絵の微笑みがシリアの胸を押し潰してしまうほどに締めあげる。
「シェイラルさんのところに、行かなきゃ……」
 シリアに今、できることはたったそれだけしかない。シメオンの町をシリアはひたすら駆ける。夜明けからかなりすぎ、陽がもっと高く昇っていてもいいのに。陽の姿は空にない。その不吉な事実に気が付いた時、シリアは大聖堂に駆け込んでいた。
 そして、シリアは迷うことなくシェイラルの部屋を目指す。辿り着くと、シリアは扉に身体をぶつけてノックした。
「誰ですか? 騒々しい」扉が開き、シェイラルが顔を覗かせる。「あれ?」人がいないことに気が付き、シェイラルは下を向いた。「シリアくんでしたか。どうしました? 泣きそうな顔をして」
「だって、みんながいなくなっちゃったんだもの。ケンカしてどこかに……」
 シェイラルはスッとしゃがむと瞳を涙で潤ませて、シャックリをあげるシリアを抱き上げた。
「……思っていたより、早かったですね……」
 シェイラルは泣きじゃくるシリアの背中を撫でながら言った。
「知っていたの?」シリアはシェイラルを見上げた。
「こう言ったら、シリアくんは怒るのかもしれませんね。でも、知っていました。マリスの願いも、迷夢の思いも。いつかきっとこうなることも……」
 だったら、何故止めなかったのと、シリアの瞳はシェイラルに訴えていた。
「わたしが彼女たちを止められると思いますか?」
 優しくシェイラルは言う。すると、シリアは静かに首を横に振った。
「わたしに出来るのは被害を最小限にとどめることだけです。レルシアを呼んで行きましょう。どうなるにせよ、ここで指をくわえて待ってるだけという訳にはいきません」
 シェイラルはシリアを抱っこしたまま部屋を後にした。

 一方の迷夢は自分の目的を果たすために、細々とした準備に余念はない。これで最終段階。過去、何度かの予備試験を経て、最も効果的なサブアイテムの配置を決めた。かなり大雑把に見える迷夢だが、その実、几帳面だったりするのだ。
「これでオーケーかな?」
 迷夢は 魔法を発動するその効力範囲とする四隅に避雷針のようなものを立てて歩いていた。迷夢の実行しようとする魔法は非常に特殊で、魔術書はおろか、禁断の秘術にもない。いわば、迷夢のオリジナル。ある種のパワーを元にして他のものに変換する魔法だった。そして、迷夢が用意した避雷針のような長い棒はマーカー、迷夢の魔法の有効範囲を決めるものだった。それは他の領域に要らぬ損害を与えないためであり、同時に魔法をそこに集中させるためのものだった。
「上手くいけばいいけどな」
 それだけは予測不可能だった。と、迷夢が最後のマーカーを立て終えて、腕を組んで見詰めているところへ、氷色の髪と瞳を持つ女性が現れた。
「迷夢――」
「うわっ?」予期せぬ声に、迷夢は飛び上がりそうになるくらい驚いた。「ゼ、ゼフィ? ど、したのこんなところで。いつまでも来ないからマリスのところに行ったとばかり」
「あっちには久須那が行きましたよ」胸を押さえる迷夢とはよそに、ゼフィは落ち着いていた。
「ふ〜ん。叶わないって判ってるのに、健気だよね?」
 と、迷夢が言うと、ゼフィは首をそっと横に振った。
「あなたのための時間稼ぎです。マリスに先を越されて“通路”を作られると困るんでしょう?」
 ゼフィは少し意地悪そうに目を細めて、横目で迷夢を見やった。
「まあね。境界が不安定になっちゃうから。そうなったらおしまい。とは言わないけど。ちょっと厄介だよね。手間がかかるし、今までよりもっと慎重にしなくちゃならなくなるものね」
 迷夢は腕を組んで空を見上げた。
「で、久須那は判ったんだけど。ゼフィは何だって? そう、レイヴンはどうしたの?」
「いっぺんに聞かないの。子どもじゃあるまいし。レイヴンは見かけてないけど、あの人はマリスに付いていくんでしょうね。きっと」
「じゃ、ゼフィは――」ちょっと興味があるのか迷夢は瞳を煌めかせていた。
「あなたのサポートです。一人じゃ出来ないくせに大見得を切るから心配で……」
 どこまで冗談で、どこからが本心なのか迷夢にもいまいちよく判らない。
「でも、何だ、結局、手を貸してくれる気になったんだ、ゼフィ?」嬉しそうだ。
「仕方がないでしょう。どうあったって迷夢はやめる気なんてなさそうだし」
「あはは。短時間でよくわたしの性格を捉えたね」
「それはね、長い間生きてますから」ゼフィはウインクする。「でも、時間はあまりないよ」
「うん、判ってる。多分、全部は無理だと思う。だから、スケール四分の一でいくつもりなんだ。とりあえず、今、持てばいい。後のことは……後で考えることにした」
 迷夢はとても嬉しそうに朗らかに言った。
「ありがとう、ゼフィ」
「お礼を言う相手を間違っています」
「そうだね……。もう、下準備のための詠唱は終わったの。まだ、あなたの存在に妨害されてるから上手くいかないけど、もう少し、パワーを上げたら……」
「オーバーロードしたら、もう、どうにも出来ないんでしょう?」
「うん……」迷夢は珍しくただ黙って素直に頷いた。
 自分の能力を超えた魔力を御するのは危険極まりない。特にこの場合はシメオンの持つ潜在的な魔力が逆流してしまう可能性もあって、一筋縄にはいかない。
「なら、こうします」ゼフィは目を閉じて、深く息を吸った。「イレーズフィールド」
 ゼフィは普通なら外側に放つその魔法を、自分の周囲に漂わせるように調整した。
「居心地が悪いから、イヤなんですけどね、少し我慢します」
「……はぁ〜ん♪ それにはそう言う使い方もあるんだ」
 妙に感心したように迷夢は言う。しかし、ゼフィは真剣そのものになっていった。
「とにかく、時間がありません。迷夢は呪文を完成させて。わたしはあなたの魔法の効力範囲の住民を強制退避させます。ホントは……気が進まないんだけど……」
「あはは。ごめんね、ゼフィ。そして、ありがと。きっと、成功するよ」
「迷夢がそんなこと言うと変です。それに恥ずかしいから……。妙に……」
「あら? ゼフィったら」ニマッとした。「まいいや、ゼフィ、あたしに掴まってくれるかな。ここは魔法の効力範囲だから、でていないと危ないんだ。一緒に冥界に落ちるならいいけど」
「冗談じゃありません」ゼフィは迷夢に掴まった。
 迷夢は空中高く舞い上がると、右手を前に突き出してシメオンに目標を定めた。まずは下準備を完成しなくてはならない。迷夢はマーカーを町に配置しながら下準備の魔法を詠唱していたから、それについては実行の合図を残すだけになっていた。
「キャリーアウトっ」
 すると、最後に置いたマーカーから、地面一メートルくらいの辺りから横に白い光が一直線にほとばしり、隣のマーカーまで繋がる。それを繰り返し、一辺が数キロにも及ぶ正方形が出来上がり、さらに、正方形が出来上がった時点で、それぞれのマーカーから四角錐の頂角になるように光が上空を目がけて立ち上った。四角錐の表面は淡く白い光で包まれる。その様子とは対極的に内部にいるものは闇の中に埋没していくように感じられる。外側でさえ、副次的なフィールドに覆われてしまい陽の光が届かなくなるのだ。
「光に住まう闇の言霊。我が意志に応えよ」
 真摯に言うも、額からは汗が滴る。呪文自体はかなり短く、闇と光の形なき者との対話がメインだった。迷夢の声に何者も反応しない時間が暫くあって、それから、迷夢から二メートルくらい前方にポッと“瞳”のようなものが現れた。それはちょっとの間、事態を飲み込めない様子で周囲をキョロキョロと見回して、迷夢とゼフィを見付けるとそこで視線を安定させた。
「――闇に住まう光の言霊は如何に。汝の求むるものと引き替えに差し出すものを示せ」
 迷夢は上空からシメオンを指した。胸がドキドキする。瞳は迷夢の示した方を向き、吟味するかのように暫く眺め回していた。そして、お眼鏡にかなったのかくるっと向き直った。
「汝はそれと引き替えに何を望む?」瞳は迷夢を見澄ました。
「……」迷夢は息を呑んだ。「異界と当世の境界面の修復と強化……」
 すると、瞳は再びくるりとシメオンを向いて、今度は暫く動きが止まった。
「大丈夫なの? あれ? 本物?」ゼフィは迷夢の耳元で囁いた。
「た、多分――」迷夢も急に自信がなくなってきた。
 こういった手法は迷夢のオリジナルと言っても、結局は原型となった魔法が存在してるので、その選択を誤ったのかと少々不安にもなってしまう。しかし、中空に浮かんだ瞳のようなものも元を正せば、迷夢の魔力から具現化されたものなのだ。
「……与えらえた範囲では魔力が足りない。完璧な修復は不可能……」
 やはり、迷夢は思う。シメオン全市の四分の一程度では疲弊しきった境界を完全に修復するのは不可能なのだ。と言って、放置することも出来ない。
「無理でもやってっ! そしたら、どれだけ持つの?」
「……」迷夢の無理難題に瞳は何だかイヤそうにしていた。「……千年」
「千年?」
 迷夢は我が意を得たりと思った。それだけ持てば後は何とかなる。マリスを出し抜いて境界面の強化さえしてしまえば、こっちのものだ。あとはなるようにしかならない。
「ゼフィ、お願い。今よ」迷夢は叫んだ。
「我が名はゼフィ。闇と氷雪の力を操るものなり。闇は邪にあらず、追憶の片鱗に住まう孤独の想い。善良なる闇の精霊、シルトよ。我が呼び声に応え、空間を歪め、飛翔する力を分け与えたまえ――。フォワードスペル、広域エフェクト」
 ターゲットが遠いだけに実行された感覚に乏しいが、そこはゼフィ、間違いはない。
「ゼフィ? 闇魔法を使えるの?」
「氷だけが能じゃありません」ゼフィはニヤリと迷夢を見詰めた。「さて、これで準備は出来たはず。邪魔が入らないうちに実行した方がいいと思いますよ?」
 ゼフィはどんな局面に置いてもその冷静沈着さを崩さない。
「そおだね♪ キャリーアウトっ!」
 迷夢の合図と共に瞳は虚空に呑まれるように姿を消し、四角錐に取り囲まれたシメオンの領域は今度は地面から伸び上がるような淡く白い円柱の中に消え失せた。

ほぼ、同じ頃、久須那はシメオン外れの街道筋にいた。レルシアの家からマリスが去る後ろ姿を見送った後、そのままここに来た。あれを実行するなら今日しかない。迷夢はそれを察して、昨日のイベントを仕掛けたのだろうと久須那は思っていた。そして、迷夢自身も今日、やるつもりなのに違いない。来ないで欲しい。久須那は切に願った。
 久須那が選び取ったのはマリスを止める道。
 しかし、迷夢の願望を完全に黙認したのではない、ただ相対的な問題だった。ジーゼの精霊核を破壊されたり、なくされてしまったら取り返しがつかない。まだ、シメオンの町だったら。北リテールからわざわざ出向いてくれたゼフィもいるし、何とかなるだろう。
 と、町から黒い翼がエルフの森に飛んでいくのが見えた。
「マリス――」呟く久須那の落胆の色は隠せなかった。
 エルフの森に向かおうとするマリスを久須那はシメオン郊外の原野で呼び止めた。
「マリスっ! 降りろ、話がある」
「用があるなら、手短に頼む」
「手短に済むはずがないだろう?」久須那はマリスの期待を裏切るかのように言う。
「……そうだな」マリスはゆっくりと瞳を閉じた。そして、久須那の前に降り立った。
 黒い翼の天使、マリスと白い翼の天使、久須那はしばし対峙した。始めに口を開いたのは久須那。
「マリス、お前はまた同じ事を繰り返すつもりでいるのか?」
「どちらにしても、わたしたちはこのままではいられない。なら、少しでも自分たちの有利にしてもいいと思う。間違っていると思うか?」
「しかし、マリスは知ってるはずだ。ドライアードの精霊核を壊してしまえばリテールは守護者を失う。判るか。魔物の徘徊する魔性の地に変貌してしまう――」
「脅かそうとしてもダメだよ、久須那。知ってる。破壊したらダメなんだろう。解放された余ったエネルギーを餌にして魔物が集まる。エネルギーは余すところなく使うよ、安心して」
 久須那は抵抗する術を全てなくしてしまったかのように儚い笑みを浮かべた。
「どうしても、ダメなんだな。――なら、わたしはこれでマリスを止めるしかない」
 と言って、久須那はイグニスの弓を構え、マリスに狙いを定めた。
「……お前ではわたしには叶わない」マリスの瞳は険しく、クールに煌めいた。
「それはやってみなくちゃ判らないだろ? 一度、手合わせしてもらいたいと思っていた」
「減らず口もそこまで来るとたいしたものだ。受けて立つ」
 マリスは迷わない。その言葉を吐いた瞬間、剣を構え、久須那に向かっていた。
 目は真剣で、瞳の中にはいつものような優しさの欠けらもない。マリスは本気だ。ならば、そのマリスにイグニスの弓で立ち向かうことは愚かしい。レンジが近すぎ、太刀打ちできない。しかも、矢を射れるだけの間合いをとらせてはくれないだろう。
 推して謀り、久須那は弓を剣へと変幻させた。その刹那、マリスのノックスの剣と久須那の剣が激しくぶつかり合った。橙と黒い炎がせめぎ、もつれ合う。マリスは引かずに、剣を交錯させたまま力任せに久須那を押す。刃が己にかかることがなくても、得物が近づき過ぎれば、魔力の炎に身を焼かれてしまう。視線は互いの瞳を突き刺し、決してはなさない。
 久須那は押してくるマリスを除けるために、身を引いた。黙っていては力負けをしてしまう。
 しかし、マリスは右足を軽く前に出すことにより体制を維持し、向かって左によけた久須那に向け、切っ先を向けた。マリスは休むことなく攻撃を仕掛け、久須那はすっかり守勢に回ってしまった。呪文を詠唱させる隙を決して与えない。
「どうした、久須那。手合わせしたかったのだろう?」マリスは嘲笑する。「……しかし、選ぶ相手を間違えたな。……身の程を知れ!」
 マリスはさらに打ち込みを続ける。久須那は強引にマリスとの距離を空けるために後方に飛んだ。しかし、マリスは何事もないかのようにすぐに距離を詰めてくる。
「くっ」久須那は太刀筋の全てを捉えていたもののいよいよ辛い。
 呪文を詠唱する時間をえられなければ、本格的な魔法は使えない。他のものにとって脅威になりうる簡単な魔法でも、マリスには虚仮威しにもなりはしない。
「もう、おしまいか」
 瞬間、マリスは剣を下ろした。今しかない。しかし、正式な魔法は使えない。久須那の使える魔法の全てをマリスが知っていると言っても過言ではない。呪文の最初の句を言葉にした瞬間、マリスにはその魔法が何なのか理解できる。そもそも、最後まで詠唱させないだろうが。
 しかし、久須那も何かをしないと気持ちが収まらない。
「ファイアーボルト」もう、ダメで元々の試し打ちしか手だてがない。
 炎の球が久須那の元から離れていく。その間、マリスはただ残念そうに首を横に振っていた。
「マジックシールド」慌てるでもなく、余裕の声色でマリスは対処した。久須那の放った炎の球はマリスのシールドの触れると、霧散し、跡形もなく消し去られた。
「はぁ、はぁ」久須那は激しく肩で息をし、マリスの瞳をにらみ据えた。
 どう頑張っても、マリスを止める決定打には至らない。マリスも久須那相手にここまで苦戦するとは思っていなかったようだが、それでもまだ余裕が感じられた。久須那は既に打つ手なし。流石に、マリスを相手にしてサシで勝負するのは無理すぎたと今さら思う。
「……もう、やめにしよう」マリスは静かに言った。「結果は見えてる」
「いいや。お前が諦めるまで、やめない」
 マリスの声色は既に哀れみを含んでいた。だが、同時に久須那のそう言ったある種の諦めの悪さには敬服していた。と、マリスは全くの不意に何かを感じて、振り返った。
「……あれは何だ?」
 目を細めてシメオンを見やる。シメオンの一角が一辺数キロの正方形を底面にしたような四角錐の淡く白い光に包まれていた。
「……迷夢だな」一言呟き、再び久須那を見やった。「久須那。裏切っていたんだな? 迷夢には手を貸し、わたしにはこうか」
「何もしていない」久須那は瞳を煌めかせ、ニヤリと、しかし、疲れたように微笑んだ。「手を貸したのはゼフィだろ? わたしじゃない」
「――迷夢は何をしようとしている?」
 マリスが知らないはずはないと久須那は思う。久須那は首を静かに横に振って黙っていた。
「お前はわたしが何でも知ってると思ってるようだが……。迷夢より知ってることは少ない。迷夢が一番知ってるんだ。わたしが何を望み、久須那が何を考え、ゼフィやシリアのことでさえ。迷夢はそう言う奴だ。人の心理を巧みに操る……だから、あいつは“策略家”の名を恣にしてるんだ」
「そうだとして、マリスより幾らかましだろう?」
「否定はしないな」マリスはフッと笑う。「だが、あいつのしようとしてることはわたしと同じかそれ以上に危険だ。……あれは古代魔法だ。口述によってのみ伝えられたあれは……精霊の類と直接触れる魔法だ……。成功したらいいが、失敗したらシメオンが魔都になるくらいでは済まないぞ」
「知らないという割には知ってるじゃないか……」久須那は切れ切れに言った。
「それくらい空気を読めれば判る。……目的は何だ?」
 久須那はマリスの尖った瞳を見詰めたまま、何も応えなかった。
「そうか――。ならば、わたしが止めに行くっ!」
「マリス、どこへ行く!」久須那の叫び声をマリスは完全に無視した。「くっ」
 久須那は矢をつがえ、マリスに放つ。が、射る瞬間にはマリスは物理防御の結界をはっていたらしい。矢は見えない何かに弾かれるかのように落下していく。そして、見下し嘲笑うかのような冷めたマリスの眼差しが久須那を襲う。
「くそ!」久須那はマリスを追った。

 タタッタ……。静まり返る、夜でもないのに薄暗い街を彼は歩いた。以前、こっそりと来た時と空気が違う。例の大事件がおおよその集結を見たあと、訪れた時には邪な雰囲気は払拭されたはずだった。無論、同情すべきことはあったにせよだ。
「……闇に堕とす気か……?」
 彼は思った。このままでは取り返しのつかないことになる。薄暗い街並みに彼は奇妙な胸騒ぎを感じた。
「シメオンは魔都になる……」
 と言っても、むしろ、爽やかなほどに空気は澄んでいた。夜の街とは違った意味合いで、すっかり静寂の中にある。死に絶えた街。けど、死に絶えているのではない。何者かが、息づかいをかき消しているのだ。それは始まりの予兆であり、同時に終わりだった。
 そよ風が吹き、微かに空気が動いた。
 彼は何かを敏感にも感じ取って、立ち止まった。鼻先を中空に向けて、全神経を一点に集中し、大気中に霧のようにあるものを見付けようとしている。
「変わったな……」彼は灰色に沈む空を見上げた。
 表情は険しさを増し、眉間にしわが寄った。このままにしておく訳にはいかない。素直に彼は思う。先の精霊狩りの終末より大事には至らないだろう。が、ほぼ間違いなく、このシメオンは闇の領域に位相を移す。
「……迷夢。街一つを犠牲にしてお前は何を望む……?」
 白い毛並みの彼はポツリと呟くと、再び走り出した。