12の精霊核

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42. a sign of the end of show(終演の予兆)

 白い衣と、お揃いのトパーズ色のマントをまとった年少の男女がいた。少年は右手に顔くらいの大きさの砂時計を持ち、少女は肩丈ほどの柄と紫色の宝玉がついた鎌を持っていた。二人は時計塔の屋根に立って、“聖者”の街を見下ろしていた。
「どおする、ルーン。予想以上に進行してるようじゃない? このまま放置したら、元に戻せなくなることは請け合いだね。けど、ぼくはあのリボンちゃんは好きだな。『時は万人に開かれたものだから』絶えず未来は確定しないだっけ?」少年はひょっと顔を横に向けた。
「ラールぅ? ……だいたい、あんたはお喋りが過ぎるのよ。少し黙ってなさい」
「そお? けどさ。あの黒翼にアルケミスタで大暴れされて、封印の絵には傷が入っちゃったよね? ぼくらの守るべきは精霊核に封じられし記憶の年代記じゃなかったっけ?」
「あんたは首を刈られたいの? わたしがいいって言ってるからいいのよ」
 ルーンは鎌をひょいと持ち上げて、刃をラールの喉元に押し当てた。
「ぼくは良くないと思うけど。毎回毎回、ちょっとずつ違うけど、今度のは危険じゃない?」
「そ、そんなことないわよ。わたしは必要以上に触りたくないの。判るでしょ、いくら、鈍感なあんただって。時間とはとてもデリケートなものなの。今、触ったら、壊しちゃう」
「けど、今が必要な時じゃないかな、ルーン」
 ラールは砂時計をルーンの眼前にかざす。間もなく上から下に完全に砂が落ちきろうとしていて、まるで、何かの終わりを密やかに暗示しているかのようだった。それを見て、ルーンはピクッとして、ちょっとだけ目を見開いたが、努めて冷静に言葉を発した。
「もっと慎重に! ギリギリまで見定めてから、わたしが決定します」
「はいはい……。首を刈られちゃ、たまらないもんな」ぼそぼそ。
「何か言った? ラール」ルーンはバンと足音を立てて、ラールににじり寄った。
「何も言ってないよ」ラールはそこだけを強調した。
「ならいいわ」ルーンは鎌を上下逆さにして屋根につくと、腕を組んで、つーんとそっぽを向いた。

 地下墓地から外に出た瞬間、デュレは身震いをした。とても一言では言い表されないような恐ろしいことになっている。邪とも言うべき重苦しい空気が辺りを支配していた。空は灰色の雲に閉ざされ、すでに陽の光は射し込んでいない。夕暮れにはまだ早い時間だったし、雲の厚さを考えるとうっすらとでも太陽の所在を確認できそうなはずだが、気配すら感じない。
 街に躍動感はなく、まるで死に絶えた街に辿り着いた哀れな旅人のような気分だった。
「さっきまでと雰囲気がかなり変わりましたね……。凄く嫌な感じに……」
「太陽……どこに行っちゃったのかな?」
 セレスは額に手をかざして何気なく空を見上げる。
「――マリスが何かを仕掛けたのかしら……?」確証はない。
「マリスじゃなくて。あの例の、ホラ、召喚じゃなくて……迷夢の」適切な言葉が出て来ない。
「えぇ、“境界面の補強”ですね。でも、それとはちょっと違うような気がします」
「と言うと?」セレスは歯がゆくなって、デュレを促した。
「禍々しいような。そうでないような微妙なラインだけど、本格的な邪なる闇魔法の発動準備中のような気がします。天使には本式の闇魔法は使えないんです。簡単な闇だったら使えるはずですけど……。闇は天使の反対属性に近いですから、波長が合わないんです」
「じゃ、何よ、これ?」セレスは暗い空を指さした。
「気象制御魔法の一つ……。きっと、いわゆる集団魔法だと思います。けど、これだと、大嵐が来てそれで終わりになってしまうと思うけど……、どうなんでしょうね?」
「――そんなこと、あたしに訊くな」セレスは怫然とした。
「別にあなたになんか、訊いていません! ただのあやです」
「あら、そ。――けど、時計塔に行って帰れと言われても……?」
 地下墓地からどの経路を経たら、時計塔まで辿り着けるのか判らない。大聖堂からの位置関係は掴んでいたが、地下墓地からは時計塔が確認できず、その位置を把握できなかった。
「……俺についてこい……」
 まるで、いつかのようにアルタが前触れもなくデュレとセレスの前に姿を現した。民家の陰、ちょうどセレスとデュレからは死角になる位置に佇んでいて、二人が来るのを待っていた。
「父さん? 何で、こんなところに?」
「四の五の言うな。……もうすぐ、マリスが追ってくる。こんなところでモタモタしていたら斬り殺されるぞ。あの女に躊躇う理由はなくなったんだ。――マリスがああやって、お前たちに手をかけるのを先延ばしにしてきたのは久須那に嫌われたくなかったからだぞ……」
 アルタの言葉を聞いて、デュレとセレスはキョトンとした。
「そおなの……?」セレス。
「それ以外に理由があると思うか?」
 セレスは黙る。その一方で、デュレは様々な角度から検討してみた。確かにアルタの主張には一理ある。と言うよりはむしろ、それしか考えられなかった。
「……しかし、わたしはあなたを信用できません。色々ありすぎて、色々判らなすぎて、あなたは信用に足りません。あなたの言葉に従う義理はありませんっ!」
「……いいから、デュレ」セレスはデュレの肩にそっと手を置いた。
「でも……。いくら、セレスのお父さんだからって……」
「たまにはおねぇさまの言うことを聞けぇ!」
 セレスはデュレの胸ぐらを掴んで、つばを吐きかけるような勢いで怒鳴りつけた。
「はい……」デュレはセレスの剣幕にそれ以上、何も言えなかった。
 釈然としないものを持ちながらも、デュレはセレスに従った。
 ぽ……。ぽっ。ぽつ、ぽつん。ストリートの灰色の石畳に黒い大きな染みが出来はじめた。大粒の雫がまだ半分は青い空から零れ落ち始めた。雨。比較的、近くに大きな雨雲が見えて、そちらの方は薄暗く雲の下では土砂降りの雨が降っていそうな気配だった。それがこちら側に広がってくるのも時間の問題だった。
「デュレ……、雨だよ」
「言われなくても判ります」
 突っ慳貪にデュレは答える。雨が降り始めたことは時間に猶予がなくなってきたことを暗に示されていることをデュレは感じていた。セレスの見た夢を信じるならば、残り時間はたかだかしれている。この季節に一週間も、何週間も降り続く雨の記録も残っていないし、降り続いてもせいぜい二、三日だろう。そして、ことは確実に雨降りのどこかで起きる。
(――もうすぐなんですね……)
 デュレは雨粒が顔に降りかかるのも構わずに天を仰ぎ見た。予想していなかった結末が訪れる。何もかもが中途半端のままに、何事にも決着をつけられずに去らねばならない。ここで何かが始まるのではなく、帰ってオリジナル久須那の封印が解けてから、始まるのだと信じていたのに。デュレの胸に深く去来する無念があった。
「デュ〜レ? 雨水飲んで何か楽しい?」
 セレスの声にデュレはハッと我に返った。
「――何でもありません。ただ、ちょっと考え事をしていただけです」
 そう言ったデュレの表情は明らかに疲れに曇っていた。
「後はこの通りを真っ直ぐ行けば、判る。俺はこの辺でお暇する」
 アルタは通りの先まで指さすと、くるりと踵を返してすぐに歩き出した。
「どうして、父さん? 最後まで一緒に……」
「この時代はクロニアスに目をつけられている……。彼らに言わせれば、ここは大きな分岐点を抱えているそうだ。だから、普通ならミクロ的な揺らぎで済むはずのこともマクロ的に常軌を逸する事象として現れてしまうこともある……とね」
「アルタさん……、もしかして、あなたは……?」
「会ったと言いたいところだが、背後から大鎌を首筋に当てられて警告も受けた……だけだ。見て歩くのはいいが、触るな……と言われた。だから、俺はもう帰るよ。一足先に……向こうで。……全部、終わったら、会おう。いいな、セレス」
 アルタは左手をスラックスのポケットに突っ込んで、右手を振り振り去っていく。
「父さん……」淋しそうにセレスは呟いた。
「このまま、行かせてしまっていいんですか……?」
「……だって、しゃあないじゃん……。あれがあたしの父さんだから」
 ため息交じりに言うと、セレスは走り出した。既に時計塔は視界に入った。文字盤はガラスで出来ているらしく背後から仄かな明かりに照らされているのがよく見えた。この季節、この時間、日の入りにはまだ早い。普通ならば、明かりを灯さなくても文字盤の文字、黒い短針、長針もくっきりと浮かび上がるはずなのだが、今日の天候はそれを許してくれないようだった。
「十六時四十五分……」セレスは吐息を漏らすように時刻を読んだ。
「……何だか、寒気がします……」
 デュレは両腕で肩を抱いた。
 ドォオオォオオン! 雷鳴に呼応するかのように雨がやんだ。けれど、これは束の間に過ぎず、間もなく降り出すことは疑いようがなかった。
 ピカッ。再び、稲光が走った。その閃光はデュレとセレスは視界の右隅に捉えた。
 二人は光の見えた方向に振り返った。自然の雷鳴だったのだろうか、それとも術師による雷の魔法なのか。その空気をつんざく大音響は二人の緊張感を悪戯に煽った。
「デュレ、今のどっちだと思う……」ひどく真剣にセレスが問う。
「……嵐が近付いていますし、多分、普通の雷だと思うのですが、……正直、よく判らないです。色んな魔法使いの……“色”が充満してて……。悪意が……」
「そっか、じゃあ、きっと、もうすぐなんだね」
「セレス、時計塔は今、何時を指してますか?」
「さあ? 十六時五十分くらいじゃない? ここからじゃ、よく見えないよ」
「……早すぎますね……。時計塔を指さして、わたしが言ったという十三と言う数字が出てこない」
「でも、あれ、別に予言って事じゃないでしょ?」
「いえ、他ならぬわたしが残したメッセージならその片鱗が必ず近くにあるはずです」
 セレスはどこにそんな根拠があって、自信が湧き出てくるのか不思議でならない。けど、デュレに言わせると、大胆不敵さを通り越えた無謀が売りのセレスは理解不能になるだろう。
「で、デュレ。時計塔に何があるって?」有無を言わさぬ口調だ。
「残念ですけど」デュレは不本意そうで申し訳なさそうな視線をセレスに差し向けた。
「残念だけどってどういう事なのよ! リボンちゃんはただ行けという。だから、あたしはてっきりキミが全部知ってるものだとばかり思っていた。判らない、判らないって行ってたけどさ、リボンちゃんにきっちりと教えてもらっているものだとばかり思っていた。……ウソつき」
 セレスは憤りを感じてしまって収まりがつかない。そして、最後の一言をポロリとこぼした。
「何ですって?」その言葉はやはり、デュレの逆鱗に触れてしまった。「そこまで言うんだったら、セレスが自分で何とかしなさい。わたしはもう、知りませんっ」
「あ、あ。ごめん。だから、その、……見捨てないで?」
 セレスは顔の前で両手を合わせるとデュレを拝み倒しにかかった。
 ドォオオオオオンッ! 閃光が走って、さっきよりも近くから雷鳴が聞こえた。そして、再び、雨音がし出す。ポッ……ポツ、ポツ。石畳の舗装に黒い染みがいくつも出来、やがてそれは灰色を呑み込んで黒一色に塗り替える。雨足は激しさを増し、水たまりが出来、波紋が幾重にも重なり、複雑な文様を描き出していた。
 今度はにわか雨などでは済みそうにない。空は完全に暗雲に閉ざされ、青空はひとかけらも覗いていない。全天は雨雲と雷雲に埋め尽くされ、陽の光が射し込む間隙はどこにもなかった。
「……天候制御魔法が効力を発揮しだしたようですね」
「それが発揮するとどうなるの?」
「後は野となれ山となれです。つまり、どうなるかなんて全然判りません」
「――非道い話……」
「自然制御系の魔法なんて、何でもそんなもんです。魔法を発動させるための仕掛けは大仕掛けになりがちだし、魔力もそれなりに“量”が必要です。けど、結果は神のみぞ知るなんです」
「一言で言って行き当たりばったりの魔法って事か」
「身もふたもなく言えば、そうなりますね。しかし」デュレはちょっとだけ口元を歪めて、セレスを見据えた。「一度上手くいってしまえば、持続性があるだけにどんな魔法よりも強力です」
 などと、会話をしている間にも雨脚はどんどん強くなってきていた。
 激しく降りしきる雨。雨粒は石畳で弾け、さらに小さな飛沫となる。
「デュ、デュレぇ? 急ごう? 風邪引いちゃう」
 言い出しながら、セレスが駆けた。今更、どうしようもないくらいにずぶ濡れだが、痛いくらいに叩きつけてくる雨の下に長居は無用。二人は水飛沫を上げながら、アルタに指示された方向に走る。雨が壁のようになって視界はほとんどひらけない。けれど、時計塔には近づいていた。閉ざされかけた視界の向こうに、仄かな光が大きくなり、やがて、見上げる位置に文字盤があった。
「1285年に建築されたリテールで初めての時計塔です。……あれだけ大きなガラスの文字盤を造るのは至難の業で、機械式の時計が発明されたのもここの機械時計が出来るホンの少し前のことだと言います。正確な“時”と言う概念が民衆に行き渡ったのは最近のことですね、きっと」
「デュレ、物思いにふけるのはあと、あと」
 セレスは一足先に時計塔の内部に足を踏み入れていた。
 シメオン時計塔は一階、二階部分は集会場を兼ねていて、時計のある部分は地上からほぼ四階に相当する高さに設置されていた。シメオンでも一、二を争うほどの高さであり、それと同等かそれ以上の建築物は大聖堂の他は数えるほどしか存在していない。
 デュレたちは時計塔に入ってすぐ左手に階段を見つけると、迷わず上りだした。
「うぁ〜ん。この階段って一体、何段あるのよぉ」
「ぼやかないでください。セレスのぼやきはやる気を根こそぎにするから。黙って、走って」
「へ〜い……」セレスは唇を尖らせて、眉間にしわを寄せつつ目を細めた。
 デュレの説教もイヤだけど、無意味に疲れることはもっとイヤなのだ。
 階段を上った最上階は鐘楼と機械室を兼ねた形になっているようだった。幾つかのとても大きな、下手をすると身の丈はあるだろうか、歯車と太いロープで吊り下げられた重り。抱きつけそうなほどの大きさの鐘。そして、それらの向こうには身長よりも長い直径のガラスの文字盤、爪先からウエストくらいの長さの長針、腕の長さはある短針が時を刻む。
「貴様らは生きて帰さんぞ。ここで大人しく死んでおけ」
 ガラスの文字盤の向こうにあらゆる負の感情を体現したかのようなマリスがいた。中空に浮かんだマリスのシルエットを雷の閃光がくっきりと浮かび上がらせる。
「――リボンちゃんは負けちゃったの? そんなはずないよね?」
 マリスは剣を大きく振りかざし、ガラスを突き破った。
 ガッシャァアアン。激しい雷鳴に交じりながら、崩れ落ちるガラスの悲鳴が響く。
「覚悟しろ、小娘ども。わたしを怒らせたことを後悔させる」
「マリス……っ!」デュレの顔色は一気に青ざめた。
 この場でマリスに攻撃に出られてはもはや、為す術はない。狭い階段を下りる選択をしたら、マリスと一対一で戦うことを余儀なくされるだろうし、その他の選択、鐘楼に残ったとしてもこの狭い空間ではセレスの長弓は使えず、デュレも自分も巻き込まれ可能性がある以上は簡単な魔法でも使うことは気が引ける。
(……どうしたら、マリスを退けられる……?)
「あたしに任せて」
 セレスはデュレの肩にポンと手を置いて引き下がらせると、自分は前に出た。
「セレス……、何をする気ですか?」途方もない不安がデュレの脳裏をよぎる。
 真顔で、少し震えた声色のセレス。何をしでかすか想像もつかない。そこへマリスの背後に黒い影が伸び上がってくるのが見えた。右手には細身の剣を携えたセミロングの女。黒い翼、黒い衣装、黒い剣、そして、真白い肌。デュレの困惑の瞳に映ったのは――。
「マリス、……あなたの相手は子猫ちゃんたちじゃない。あたしよ」
「迷夢?」マリスは時計塔にはいるのを躊躇い、振り向いた。「レイヴンはどうした?」
「レイヴンなんかにやられる訳がないでしょ。あたしは策略家の迷夢よ」
「そうか……、レイヴンは死んだんだな」
 マリスは唇をギュッときつく噛みしめ、迷夢は静かに頷いた。
「……今まで謀っていた訳か。優柔不断で弱いふりをして、真の実力はいざという時まで決して見せない。迷夢には……“能ある鷹”というイメージは少しもなかったんだが……。まぁ、いいさ。ガキどものお守りをする前に貴様と決着をつけてやる」
「望むところ……と言いたいけど、あたしはヤなのよね」脱力感に溢れている。
「何だ? 自分から誘っておいてもう、怖じ気づいたのか?」
「そおじゃないのよ。正直、面倒くさいのよねぇ。何だかんだ言っても、マリスって強いしさぁあ? キミを引き留めるだけの戦いをするったら、大変なのよ。判る? ねぇ、取引しない? 地獄の沙汰も何とやらって言うじゃない? ね? これで――」
「策略家・迷夢の本領発揮だな――。だが、そんな見え透いた手には乗らん!」
「そぉお? キミはすでにあたしの術中にはまっているのだっ!」
 迷夢は右手を腰に当て、左手で勢いよくマリスを指さした。

 

(急げ、急げ。……くそっ、何でオレは空を飛べないんだっ)
 リボンは持てる限りの力を使い時計塔を目指す。急がなければならない。デュレやセレスがマリスの手にかかってしまってからでは遅いのだ。
「時計塔まで迷夢に送ってもらえば良かったのか……?」
 気がついても今更、手遅れ、リボンはげんなりとしつつも時計塔に向け駆ける。

 

「わたしに手向かうのは貴様は命は惜しくないのだと理解して構わないのだな?」
「う〜ん、そんなに悲愴になるつもりはないんだけどなぁ」
 迷夢は一瞬だけおどけたような表情を見せた。正直申せば、時間稼ぎが出来たらそれでいいのだ。マリスと決着をつける必要なんか、どこにもない。今、この瞬間、階下から駆け上がってくるリボンと、デュレとセレスのために数分から十分程度の時間が出来れば足りる。
 その役割を上手にこなすことが出来たなら、後は野となれ山となれ。どうにでもなってしまえという気持ちが微かにあった。迷夢にとっての勝ち負けはマリスとは関係ないところにある。異界とこの世界の境界面の増強を成すことさえ出来たら、大満足。隠居生活を始めてしまっても全然、問題ないくらいの気持ちでいる。
「迷夢にそのつもりはなくても、わたしにはある。貴様に散々かき回されてきたからな。いいかげん、うんざりなんだ。そろそろ、片づいてもらわないと、わたしの気が済まない」
「あっ!」迷夢はパンと手を打った。「その気持ちは判るような気がする」
「判ってもらう必要はない」
 マリスは闘気を孕んだ怒りの眼差しで迷夢を突き刺す。そして、迷夢も普段の彼女からはあり得ないほどの真面目で、真剣、研ぎ澄ました眼差しをマリスに送っていた。
「なぁんだ、折角、理解を示してあげたのに、いらないんだ?」
「……っ! 貴様の人を小馬鹿にしたような態度が気に入らん。いいか、わたしの二つ名を忘れるな。“災厄を呼ぶ天使”生きている限り、貴様らに安寧の時は来ない」
「そぉ、じゃあ、殺せばいいんだ」
 迷夢はケロッとして、さらに薄笑いを浮かべていた。
「殺せるものなら、殺してみたらいい」
「じゃあ、遠慮なくやっちゃお〜かなぁ〜」迷夢はわざとらしく頭の後ろで手を組んでニンと笑った。「それともさぁあ? あたしたちのためにどこかに消え失せて、二度と姿を現さないでもらえたら、とぉっても感謝しちゃうんだけど……?」
「……」マリスは物凄く強張った形相で迷夢を睨んだ。
「はは……。そんなにイヤ? あたしは饒舌絶好調なんだけど……」
「わたしは貴様のお喋りは聞きたくない。小娘どもに用がある。貴様は邪魔だ」
「じゃ、切り伏せたら良かったじゃない」迷夢の瞳が悪辣に輝いた。「以前のキミなら、絶対にそうしたはずなのに。怖い? 天使としてただ一人、リテールで生きていくのが怖い?」
 刹那、マリスが動いた。虚空から瞬間的に黒き剣を呼び覚まし、前触れもなく唐突に剣を振るう。
 ギィィインン。迷夢は難なく受け止めた。
「何だ、やれば出来るんでしょ?」悪辣に笑う。
「バカにするな」
 心理的には完全に迷夢が主導権を握っていた。迷夢は力業よりも、より確実に精神的にマリスを追い詰めにかかる。命を賭した極限状態に迷夢の滑舌はさらに良くなる。迷夢は基本的にお喋りだったし、集中力を増すとなお喋る。つまりはただいま絶好調。逆に迷夢の相手をする方はその止まらないお喋りに惑わされ、集中力を乱されて自分のペースを保てない。
「――マリスちゃん。そぉ〜んなに顔を近づけたらちゅーしちゃうぞ♪」
「ふざけるなっ!」マリスは交錯した剣に力を込めて、迷夢と距離を開けた。
「あ〜ら、心外ねぇ。あたしは至って真面目なのよ。これまでにないくらい」
 確かに、マリスは真摯に煌めく迷夢の瞳などただの一度も見たことはなかった。大抵は悪戯っ子のような好奇心に満ちた煌めきを持っていて、探求心こそあるだろうが、真面目さとは全く無縁の存在だった気がする。
「だとしても、レイヴンには見劣りする」
「あらぁ、ご・ち・そ・うさま♪ けど、あたしは真面目一辺倒のレイヴンとは違うのよ。レイヴンって、キミ一筋でそう言う点では可愛かったけど、所詮それだけよ。あいつは二流。かつて、協会の覇権を握りかけたジングリッドにも劣る」
「ほざけ」マリスは吐き捨てた。それには迷夢もカチンときたようだ。
「このあたしをみくびってもらっちゃ困るのよ。どうせ、あたしのことは掴み所がなくて、ふわふわしてるような訳の判らない、テキトーに扱っておけば適当に満足してる変な奴。とでも思っていたんでしょう? ところが、その当ては外れて、あたしは妙に強いとなった」
 迷夢はマリスの瞳を研ぎ澄ませた眼差しで突き刺しつつ、問う。
「さあ、どうする?」にやり。
「口数が多い下世話なお前に後れを取るわたしではないぞ」
「いいえ、不測の事態にキミは滅法弱いのよ。それくらいのこと、あたしが知らないとでも思った?」迷夢はマリスの僅かに揺らぐ瞳を見詰めつつ言い放つ。
 戦いを有利にするためなら、迷夢は何でも躊躇いなくやらかすことをマリスは失念していた。迷夢が怖いのは剣や魔法の実力そのものにあるのではなく、周りからじっくりと攻め落とすこと。自分が弱点とすら思っていなかったことに付けいられることにある。
 マリスは微かに悔しさの滲むような雰囲気を湛え、ギリリと歯を食いしばった。
「図星♪」迷夢はケラケラと笑った。
「だから、どうした!」
 開き直る他ない。迷夢の言動にいちいち反応していてはダメなのだ。迷夢のペースに引き込まれてしまったら、真の実力を出し切ることは出来ない。過去、幾多の戦いで迷夢がそうやって自分優位に戦いを進め、勝利を収めてきたことをマリスは承知している。ここで自分がその罠にかかってしまってはお話にならない。
「わたしを今まで貴様が相手にしてきた雑魚どもと一緒にするな」
「そぉお? あたしはどっちも変わらないと思うけどなぁ。その高慢ちきな態度とか」にやり。
「――高慢ちきか。それでも、迷夢ほどではないだろう?」
「そおかしら?」迷夢は意地悪そうに口元を歪めて微笑んだ。

 

 ドオォォォォオオオン。雷が至近距離に落ち、雷鳴が小さな世界を揺るがして響き渡る。
 カウントダウンはすでに始まっている。その事実を目の前にしてデュレは途轍もなく巨大な檻に囚われてしまい逃げ道を見つけられないで居る囚人のような焦りを感じていた。自分だけではどうにもできない無力感にさいなまされる。
 時計塔の機械室に入れたからといって、そこには何もなかったのだ。少なくとも、見える範囲を見て回った限りでは“帰る”ことと直接関係のありそうなものは何一つない。
(――これでは何も出来ない……)デュレは途方に暮れそうになった。
 機械時計の大きな歯車の向こう側で、マリスと迷夢が剣を激しく交錯させているのが見える。
「凄い……」セレスは感嘆の吐息を漏らす。「天使同士の空中戦なんて初めて見た」
「セ、セレス。悠長に構えてる場合じゃありません」
「だって、あんな立体的に戦うなんて簡単じゃないもん」
 普通は出来ないだろうと指摘したいのをデュレはこらえた。
「そんなのどうでもいいから」デュレはセレスの半袖シャツの袖を引っ張った。
 カチリ……。
 ゴーン……、リンゴーン、ゴーン、ゴーン。突然、鐘が鳴った。極々至近距離で打ち鳴らされるそれは耳をつんざくような大音響で、拷問さながらだった。
「うわっ! これはたまんない」
 セレスは両手で耳を塞いだけれど、それくらいでどうにかなる音量ではなかった。手のひらを突き抜けて、耳の奥まで響いてくる。
「デュレ、セレス、居るか? 居るなら、返事をしてくれ」
 リボンが階段の踊り場からひょっこりと姿を現した。ちょうど、鐘が鳴り終わった直後で、リボンの大声は辛うじて鐘楼の中を通った。
「リボンちゃん?」デュレは声のした方に振り向いた。
「良かった、まだ、居たな……。デュレ、セレス。そこの戸から」リボンは顎をしゃくる。「奥に行け。――お前たちに見せたいものがある」
「今更、見せたいものだなんて、一体何さ?」
「見たら、判る。ぐだぐだ文句をたれていないで、さっさと行け」
(セレスは……見たくなかったかもしれないが……、そう言う訳にもな……バッシュ)
 ぶつぶつ文句を言いながら、セレスはリボンに従った。デュレも訝しげだが、リボンに従って行動する他ないと悟っていたようで、文句も言わずに静かに奥へ行く。
 そして、二人は絶句した。
 見たのだ。それは一見すると何でもない普通のものなのに、その存在には途方もないくらいの歴史、未来の重圧を背負っているものだった。

「――サム、リボンちゃんは勝てると思うか?」
「さぁてねぇ。そればっかりは神のみぞ知る……かな。けど、あいつぁ、負ける気はこれっぽっちもないようだぜ。負けるつもりは……だ」サムは意味ありげに言葉を重ねる。
「判ってる。だから、わたしは訊きたいんだ」
「どうしても、知りたいと思うならそいつに訊いてみたらいい……」
 サムは久須那の手を指さした。久須那が手にしていたのは鳶色の瞳の万里眼なのだ。
「これは……?」久須那は万里眼を目の高さに持ち上げて、瞳を覗き込んだ。
「知らねぇか。未来を見透かす力を持っためんたま、通称・万里眼。一応、アイテムらしいんだが、魔法生物としての挙動を示して、魔力をえさに活動してる。制作者、制作年代は共に不明。――制作者はクロニアスだって言うやつもいるけどな」
「時の秩序を保つと言われるあの“双子のクロニアス”か。それが何故?」
「学説さ。ただのね。退屈しのぎのためにばらまくのさ、カオスを。ま、俺はそもそもクロニアスなんて精霊はいないと思うけどねぇ。けど、万里眼はあるからな、訊いてみ?」
 久須那は再び、万里眼に視線を落とした。それは未来を知るという。
「……ロミィ、お前はどんな未来を知っているんだ?」
 万里眼・ロミィは久須那にどんな未来を垣間見せたのだろう。