どたばた大冒険

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06. diving into your senses(意識への旅立ち)

 一五一八年、暮れ。トリリアンは大きな転換点を迎えていた。このままの状況を長く続けていくか、それとも起死回生の一撃を狙った方策を立てるか決断をせざる得ない状況に追い込まれつつあるのだ。長年の宿敵、リテール協会とエスメラルダ期成同盟が手を結んだ辺りからトリリアンは劣勢に立たされる局面が多くなった。期成同盟に策士がいるのか、トリリアンが優勢に戦いを進めてもいつの間にか主導権を奪われてしまっている。このままでいても、戦力が疲弊するばかりで、トリリアンとして得るものは何もないだろう。
 それ故、トリリアン、第九代総長・ヘクトラは今後の行く末を決める一つの決断を下した。昼下がりのアルケミスタ、アリクシアのいなくなった教会の執務室で。協会・期成同盟の連合を打ち破るには圧倒的なパワーが必要だ。
「――ジェットを連れてきなさい」
 天使・ジェット。第四代総長・ソノアのころに召喚された天使だ。記録によれば、召喚された天使はホンの子供で魔力の制御さえまともにできなかったらしい。それ故、感情の起伏が引き金になって、魔力が暴発することが多々あったという。
「ジェットを……ですか?」
 とんでもないことを聞いてしまったかのようにクローバーは言った。
「そうです。黒き翼のジェット。地下牢に幽閉されているジェットです」
「……。しかし、総長。かつての試みをお忘れですか。あのような状態でジェットをお使いになっても、結果は目に見えております」
 実際に、かつてジェットの力を使おうとしてトリリアンは破滅しかけたことがある。ジェットはまともに魔法を上手に制御する事が出来ずにトリリアンの拠点を吹き飛ばしかけたのだ。今のままで、天使の力を行使させようと考えれば、その二の舞は避けられない。
「我がトリリアンの自壊を招くような――」
 ヘクトラはスッと右手を前に出して、クローバーを制した。
「誰があのまま使うと言いいました?」
 ヘクトラは瞳の奥に邪な煌めきを宿していた。そして、しばらくの無言。クローバーはヘクトラの意図を汲み取る事が出来ずに、自信の思いを吐いた。
「感情の制御が上手くできないようでは実戦では使えません。ソノア総長の時代のことを知らないのではありませんよね? ……ジェットは確かに力はあります。しかし、精神的に不安定です。故に、ソノア総長の時代以降、長きに渡り地下牢に幽閉されていたのではないのですか? あれはあのままにしておくのがよろしいかと……」
「――果たしてそうでしょうか?」
 ヘクトラは含みを持たせた物言いをすると、くつろいだ様子で背もたれに身をもたせかけた。クローバーの与り知らぬところで、何かがあるのかもしれない。最近のヘクトラはまるで何かに取り憑かれたかのように古代の魔法やら、呪法に関する図書をあさっていた。もしかしたら、何かが“出来る”のかもしれない。
「ソノア総長の出来なかったことがわたしには出来ます」
 確信と自信があった。アリクシアがいなくなってからの数ヶ月間、ヘクトラは片っ端から資料を読みあさった。天使を制御する。その一点についてのみ。かつて、初期協会の黄金時代を築き上げた頃の天使兵団。天使を召喚する召喚術自体に忠誠を誓わせる魔法を折り込んでいたのだという。しかし、ソノアの時代に蘇った召喚術にはそれが付随していなかった。召喚術を封じたという時の枢機卿・レルシアが忠誠を誓わせる魔法を意図的に欠落させたのか。復元が不完全だったのか。或いは天使が幼すぎたのだろうか。
 どちらにしても、今ならジェットを操る自信がある。かつて、トリリアンを自滅へと追い込みかけた天使を使って、トリリアン再興への道筋を作る。初代総長・アリクシアの思いを継いでトリリアンをリテールで最高の民衆の心の拠り所へと昇華させる。
「わたしを信じることです。我々は必ず、協会を凌ぎその地位を確立できます」
 信じれば、救われるのだろうか。
 クローバーは大きな疑念を感じていた。力にすがるものは力によって滅ぼされる。いつの時代もそうだったはずだ。望むと望まざると関わらずに。
「協会を凌いだところで意味はありませんよ。信じるものたちを支えていけばいいではないですか。それ以上、何を望むと言うのですか!」
「アリクシアさまの残したトリリアンをここでなくす訳にはいかないのです」
 その日、何十年かぶりに扉が開いた。決して、開くはずのなかった扉が……。

 降りしきる雨の底にベリアルはいた。デュレのどの時代の思い出がこのように象徴されたのかまでは定かではないが、おおよそ良い思い出ではないだろう。この中で、ベリアルはデュレの何を見るのだろう。ベリアル自身、途方もない不安に駆られていた。
 精神シンクロを失敗して、シンクロがとけなくなったと言う事例も報告されている。不安感を増長させるような環境ではそれがことさら意識されてしまうのだ。そして、もしかしたら、この情景はデュレ自信の不安、失意を表しているのかもしれなかい。
「――雨ですか……。まずいところに落ちたかもしれないですね……」
 明かりも何もない真の闇。闇を操ろうとするものは心さえも闇色に染めなければならないのだろうかと思うほどに。実際、闇魔法に通じるものでも心の底まで闇の底と言う輩は滅多にいない。ベリアルも出会った事がなかった。これが最初の出会いになるのか。
 例え、そうだとしても凍りつくような淋しさにはあまり出会いたくないものだ。
「――それにしても……」
 何も見えない。普通、精神シンクロを行うと何かに出会うのだ。綺麗にイメージを共有することもあれば、被術者の代理イメージと対話することもある。被術者の数だけパターンがあると言っても間違いはないが、今度のパターンは初めてだった。ここに見えるのは拒絶以上の何か。降りしきる大粒の雨と真の闇。自分の存在を全否定しているかのようだった。そして、同時に救いを求めている。本来、精神シンクロでは術者はただの傍観者に過ぎず、シンクロイメージに直接影響される事はないのに、激しい雨にベリアルはすっかりずぶ濡れになっていた。デュレの中の何かがベリアルにすがるように。
(――ともかく、歩いてみましょう……)
 ベリアルが歩けば、飛沫が上がり音がする。バシャバシャと。
 何が起きようとしているのだろう……? 絶えず、不安がつきまとう。
「お姉ちゃん……、誰……?」
 ベリアルは背筋が凍りつきそうな思いをした。悲鳴を上げそうになるのをこらえて、辺りを確認して見ても誰かがいる気配は全くない。心臓が不安に大きく脈打つのを感じた。

「――お姉ちゃんは――誰――?」
 再び、同じ声色で。どこか淡々とした諦観してしまったかのような雰囲気を湛えていた。そして、突き刺すような視線がどこからともなく感じられる。
「……わたしは……」
「――わたしを――助けてくれるの……?」
 その声は心をえぐられるような悲愴な響きを持っていた。
「……助けられるのなら――」言葉に詰まり、ベリアルはそれ以上のことを言えなかった。
「そう……じゃあ、お姉ちゃんはわたしの……」
 雨足が強くなったせいでその言葉を最後まで聞き届ける事は出来なかった。ベリアルが“わたしの”何なのかでここでの対処の仕方も変わるのだが、それを知る術はもう無い。と、意識が“音”から周囲の状況に向いた時、今までとは違ったものが見えるようになっていた。
(……景色がある……)
 さっきまで見えなかった、気にもならなかった景色がある。どこからともなく射し込む微かな光が暗闇の中に鉛灰色の風景を浮かび上がらせているようだ。どちらにしても、ベリアルにとって状況は変わりはしなかった。デュレの過去、デュレの思いを知ろうとしても今、判る限りでは思い出したくもないような事だったらしいと言う事だけ。それ以上を知り、対策を施すのにはほど遠い状況にあった。
 だからこそ、ただ、ベリアルの想像だけが募っていく。
(この娘は何を見て育ってきたのだろうか……?)
 数百年、千年を生きるエルフにとってはたったの二十年かもしれない。けれど、デュレにとってはその二十年が全てなのだ。その“最初”が後に大きな影を落とす例をベリアルは数件知っていた。人に限らず、エルフでも、天使でもおおよそ心を持つものなら、この陥穽に落ちる可能性はある。
 まさにデュレはその陥穽に落ちているような気がする。
 フツーであるならば、このイメージは黒い絵の具で塗り固めたようにはならない。
 と、全くの不意だった。ベリアルの脳裏に鮮烈に女の叫ぶ声が響いた。雨音をかきわけ、まるで一直線にベリアルを目指してきたかのようにはっきりと。
「――ち、近づかないで、この汚らわしい化け物めっ!」
 それから、耳をつんざくような悲鳴ともにつかない絶叫が響き渡った。

 選択肢は無制限にあるのではない。往々にしてするかしないか、右か左の二択になることが多い。近ごろはまさにそんなことを実感させられることが重なっていた。考えれば考えるほど二進も三進も行かない。ある意味で、最低最悪の状況とも言えた。
 三日後に、アルケミスタへ攻撃を仕掛けるために、招集がかけられたのはその日の遅くだった。ありとあらゆる場面を想定し、アズロら期成同盟の中心人物が戦略を立てたのだ。
「これで大丈夫なんでしょうか? 迷夢さん……」
「さあ?」迷夢は何をバカなことを聞いているのかと言いたげな眼差しを向け、アッケラカンと言い放った。「……正直、大丈夫とは言えない。あとは引き際を間違えないことね。今回は勝つ事が目的じゃあなく、あくまで、撹乱する事。本格的に攻勢をしかけるのは次よ。二回の戦いでトリリアンを叩きつぶす」
「この一週間が勝負です」
 アズロが静かに言った。数年前より戦力増強が計られたとは言え、長期戦が出来るほどの体力はない。迷夢の奇をてらった作戦と、機動力で乗り切る他ない。
「そう、この一週間で勝負が決まる。ところで、アズロ、あっちの手配はしてる?」
「もちろんです。戴冠式は……今日から七日後」
「場所は指定した通りにアイネスタでしょうね?」迷夢の言葉にアズロは頷いた。「ありがと。――じゃ、うまくことが運んだとしたら、決戦場はアイネスタね。頼むわよ。失敗は出来ないんだから。まぁ、個人的にはどうだっていいんだけど……?」
 迷夢はウィズとアズロを見やりつつ、意地悪く微笑んだ。
 一方で、サムは一旦、自宅に取って返し久須那を連れて表通りを臨時司令部へと向かっているところだった。当初、久須那を呼ぶ予定はなかったのだが、トリリアンの動きが変わってきたために急遽、メンバーに選抜されたのだ。
「……なぁ、サム。何故、わたしまで駆り出させるんだ?」
「――そんなことは俺に聞かずに迷夢に聞け。――けどよ、本当は判ってるんだろ? 何で、迷夢がてめぇを呼びつけたのか?」
「ああ。トリリアンに魔法を使えるものは多いが、期成同盟にはほとんどいないからだ。ま、向こうはエルフの構成比が高いから必然的にそうなるだろうな。そして、対する期成同盟には……エルフの顔が思い浮かばん……」
「一応、いるだろ? デュレやセレス」
「わたしたちの仲間とは言えるだろうけど、期成同盟とは直接関係ない」
「そりゃま、そうだろうな。けどよ、あいつらの性格からして、来るなって言ってもぜってぇ来るぜ。まだまだ、ガキのクセしてこういうところに首を突っ込みたがるなんて、困ったやつらだが、何せ、エルフだからな。ものすげぇ、戦力になる」
「……まぁ、デュレはな……。――セレスはダメだと思うが……?」
「魔法もろくろく使えねぇってかい?」とサムが言うと久須那は無言で頷いた。「まぁなぁ。魔力はデュレと並ぶくらいあるよな、エルフだけのことはあって。あいつぁ、鍛練が足りないから、あんなんなんだろうが、デュレとはいいコンビだと思わないか?」
 サムは久須那の方を振り向きつつ、明るい笑顔を見せた。
「否定はしない。互いが一人一人でいるより、二人でいた方が絶好調だからな」
「だろ? なら、期成同盟にはエルフも天使もいるってことさ」
「なら、ロミィも勘定に入れてやらないとむくれるぞ。あいつは結構、細かい」
「まぁな。が、ロミィも計算に入れると精霊も入れるべきだろうなぁ。実際、戦いには加わらねぇが、ジーゼ、クリルカ。おまけでティムも。これはあれだろ? トリリアンは持ちえねぇ絶対的なアドバンスだと思うんだがねぇ?」
 サムは頭の後ろで手を組んで、久須那を横目で覗き見た。
「まぁ、そうだが……。人間、エルフのいざこざに首を突っ込んでくれると思うか?」
「……いいや♪ しかし、緊急事態には手を貸してくれるだろうさ、多分」
「希望的観測でものを言うな。痛い目を見る」
「そうかもな。――さて、ここがエスメラルダ期成同盟テレネンセス臨時司令部だ。久須那は初めてだったな? ま、みすぼらしいが、案外、いい場所だ」
 サムは説明しながらドアを開け、久須那を導いた。廊下を辿り、奥にある盟主の執務室に向かう。そこにはアズロ、ウィズ、迷夢が待っているはずだ。さらには適当そうに見える迷夢が中心になって綿密な計略を立てているのだから、不思議な気がする。戦は水物だけに、綿密すぎる計画は却って使えないと言うのがサムの持論なのだ。
「期成同盟にようこそ、と言う訳で入れ」
 サムが執務室のドアをおもむろに開けると、底抜けに明るい声が聞こえた。
「やっほ〜、久須那ちゃん、来てくれてありがとうっ!」
 今日の遅くには軍隊を動かすと言うのにこの緊張感のなさは何なんだろう。毎度、何か大きな事がある度に、迷夢の思考回路はどうなってるのかと疑いたくなる。実際、その天性の明るさと楽天的でテキトーな思考パターンが相まって迷夢独特の何だか理解不能のパーソナリティに仕上がっているが、おかしなところで凄かったりする。
「……迷夢が呼んだんだ。それに、来ないとあとが怖い」
「あら、久須那、ウィズと同じような事を言うのね?」
 と、発言しつつ、迷夢は傍らにいるウィズをちらっと見やった。ウィズはそれに気が付くと、全く何でもないようなふりをして、フイとそっぽを向いてしまった。今度は、そのことが迷夢は気に入らない。自分を無視しようなどとは百年早い。
「この野郎っ! あたしを無視しようだなんて……」
 文句でも言ってやろうと意気込んだら、久須那に遮られた。久須那としても、このままワケの判らない話に紛れ込まれてもたまったものじゃない。迷夢の横道話は長いのだ。
「迷夢、勝算はあるのか?」
「うん? そんなもんある訳ないでしょう」
 拍子抜けするくらいあっさりと迷夢は認めた。流石に、久須那も迷夢からそんな言葉を聞くとは思っていなかったらしく、驚きを隠せない様子でいた。迷夢が作戦を練ったのなら、多少の勝算、或いは期成同盟を有利にさせる策が何かあるものだと思っていた。
「何、その、不満そうな顔は?」
「ふ、不満にもなるだろう! どうするつもりだ。ここで大敗すると期成同盟は立ち上がれなくなるぞ。ギリギリの戦力しかないことはもちろん、判ってるんだろうな?」
「そんなことは言われなくても判ってるのよ、久須那ちゃん。――けど、相手の戦力を考えるとマリスちゃんの時よりもず〜っと楽なはずなんだけどね?」
「否定はしない。だが、こちら側の力を読み違えていないか?」
「かもね? けど、あたしに任せておけば何とかなるわよ」
 その根拠のない自信がどこから来るのか、一度聞いてみたいくらいだ。だが、実際には迷夢が絡んでくると大体の場合で色んなことがうまくいく。行き当たりばったりに動いているように見えて、その実、計算ずくだったりする。流石に太古の昔から策略家、策士の名をほしいままにするだけのことはある。
 ただ、たまに外した時が痛いのも確かなことだった。
「……それで実際、何とかなるからあれなんだが……」
「そっ。だから、いいのよ。失敗したらしたで、その時考えるから。っていうか、軍隊の方はとっとと引かせるから安心して。大体さ、サムとおまけでウィズを別格にしても、他の連中はいまいちだからネ。ガーディアンには歯が立たないでしょ、きっと?」
 意外に、迷夢は期成同盟の現状を把握しているらしい。
「問題なのは今度よりむしろ、戴冠式の時なのよ。トリリアンの主力ガーディアンを釣り、壊滅させている最中に、ボスをやっちゃおうと思って」
「そうなりゃ、あとは総崩れだろうな」サムが言う。
「ただ、もう一個問題があるのよ。トリリアンの“テロ”ってアルケミスタの総長も指示出しをしてるようだけど、地方参事が半ば勝手にやってる訳でしょ。詰まる所、統率のとれていないあの連中をその日に決戦場に導けるかどうかなのよ」
 迷夢は腕を組んで、軽く首をひねった。
「困ったように言ってるが、トリリアンに間諜は放ってあるんだろ? そこから、情報を流してやればトリリアンもまとまるだろう。エスメラルダ国王の戴冠式ともなれば、一致団結してくるんじゃないのかな?」」
「あら? 流石、久須那。察しがいいわね」少しつまらなさそうに迷夢は言った。
「そして、集まったところを一網打尽。はい、おしまいってか?」
「とりあえずね。あとはジェットを確保して、総長とはさようならをするの。理想を履き違えたものの末路ってとこかしらね」
 迷夢の軽い口調を聞いていると、まるで現実味が湧いてこない。
「ま、それはそれとしてさ。そろそろいい時間よね、アズロ?」
「ええ、期成同盟軍はテレネンセス郊外に、すでに集結しています。今は待機しており、我々の準備が整い次第、出撃は可能です。――これが第二のエスメラルダ王国の礎になる事を信じています。トリリアンを解散させ、協会の影響力を低減し、このリテールの地にもう一度、エスメラルダ王国を」
「よぉ〜し。それじゃあ、出撃っ!」
 それが後の世に残るエスメラルダ奇跡の復興への第一歩だった。

 一五一八年。晴天の続いたある夏の一日にアリクシアが倒れた。ヘクトラはその日のことをたったの一日さえ忘れたことはなかった。トリリアンが追い込まれつつあったとは言え、あのことがなければ、ヘクトラは天使を戦力として使う決断は下していなかったかもしれない。あのことさえなければ、トリリアンは全うな道へと歩みを戻せたかもしれない。しかし、ゆるりと狂い始めた運命と言う名の歯車は完全に狂ってしまったのだ。トリリアンの行く末は年若いアリクシアの運命とともにあらぬ方へと向かい始めた。
 その日、ヘクトラにアリクシアの容体を伝えたのはベリアルだった。
「……ベリアル、アリクシアの容体は……?」震える声でヘクトラは問う。
「はい……、あまり芳しくありません。お医者さまの話だと、今夜が峠だろうと……」
「……。今夜が峠……?」今にも消え入りそうな声だった。
「ええ……。症状はただの過労らしいですが、元来、身体のお強い方ではありませんし。また、間の悪い事に心労も重なってきたのだろうと、お医者さまは……」
 ベリアルの返事を最後まで聞く前にヘクトラは部屋を飛び出していた。そんなはずはない。生来から身体のあまり強くないアリクシアだ。けれど、倒れるだなんてことはないはずだ。最近は特に大人しくしていたというのに。何故。
 理不尽だ。まるで、世の中で自分たちだけに不幸が降り注いでいるかのように。
 初代総長・アリクシアの遺した理想を失わないようにやってきたと言うのに。何故、誰も認めてくれないのか。こんなに一生懸命やっているのにどうして自分たちは追いつめられていかなければならないのだろう。世の中はナニカガオカシイ。
「アリクシアっ!」
 気が付けば、ヘクトラはアリクシアの私室に飛び込んだ。そこには苦しげな息をして身を横たえるアリクシアと、クローバーの姿があった。
「ヘクトラ、静かにしてください。アリクシアの身体に障ります」
「……あぁ……、そうですね……。……アリクシアは……?」
 その時、すでにヘクトラは自制と言うものを失っていたのかもしれない。
「ベリアルから話を聞いたと思いますが……?」
「えぇ、そうですが、最後まで聞く前に出てきてしまったので――」
 その気持ちはクローバーにも判った。クローバーもベリアルから話を聞いて、そのままアリクシアのもとまで急いだくらいなのだ。けれど、アリクシアの容体を伝える役割を自分が担わされると思うと気持ちはさらに落ち込んでいく。
「――アリクシアは……もう、長くないかもしれないそうです……」
 その短い言葉を言うだけでも、相当の覚悟が必要だった。
「……。今、何と言いましたか……?」ヘクトラは呆然としたかのように言った。
 クローバーはこんなことを二度も言いたくなかった。喋ると心のどこかで信じまいとしいるのに再認識されてしまう。それが強固に頭に焼き付いてしまったら、あって欲しくない事が現実のものとなってしまいそうな気がしてしまうのだ。
「……アリクシアはもう、長くないかもしれないと……」
「クローバー、今、何と言いましたかっ!」ヘクトラは激した感情を抑えきれずにクローバーの胸ぐらに掴みかかった。「アリクシアが死ぬなんて、そんなことはあり得ません。何かの間違いです。薮ではない、腕の立つ医者を……」
 クローバーはずっと黙っていた。ヘクトラの言動は理不尽ですらある。けれど、妹を思う兄の気持ちとしては理解できない事はない。しかし、いくらヘクトラの思いが高じようともアリクシアの容体がよくなるはずもなかった。
「――彼以上の医者はこのアルケミスタにはいませんよ……」
「では、アリクシアが弱っていくのをただ指をくわえて見ていろと言うのですか!」
 それだけを言うと、ヘクトラは弾け飛ぶかのようにアリクシアの部屋を飛び出した。短い廊下を全力で駆け抜けて、礼拝堂へと飛び込んだ。祭壇に掲げられるのは全ての辺が直角に交わると言う不可思議な図形、“ロジャーの三角形”をモチーフにしたものだった。トリリアンの設立当初はレルシア派の協会鏡面十字を流用していたが、人間、エルフ、精霊の協和の理念を表したそれに変えたたのだ。
「お願いです。アリクシアを連れて行かないでください」
 ヘクトラは祈った。この世からアリクシアがいなくなっていいはずがない。アリクシアが全てなのだ。初代総長の名を持つ妹がこんなに年若く死んでいいはずがない。確かにアリクシアは生まれつき身体は強い方ではなかった。けれど、幼少期は人並みに遊び、泥んこになるようなやんちゃ娘だったはずなのに。それが――。
「――アリクシアをもう一度、自由に……」
 言葉にはならない。何て説明していいのかすらもまとまりはしない。様々な思いが交錯して、言葉では完全には言い表せない。ヘクトラにとってそれほどまでにアリクシアとは重要な存在だった。それが今、ヘクトラの前から永遠に姿を消そうとしている。
「もう一度、アリクシアとともに外を歩きたい……」
“その願いは聞き入れられない”
 返事をするものがいないはずの礼拝堂で囁きのような声が聞こえたような気がした。それは声ではなく、ただの風の悪戯だったのかもしれない。しかし、戦いだ風はヘクトラにはあらゆるものからの拒絶の声としか感じられなかった。
「何故、何故っ!」ヘクトラは虚空に向かって叫び立てた。「わたしたちが何をしたと言うのですかっ! わたしたちはあなたを信じ、あなたのためにこうして教えを広めているのです。協会のように力になど頼っていない。純粋な心を持ってあなたを信じているのです。それなのに、どうして、わたしの思いに応えてくれないのです」
 返事があろうはずもない。
 それでもなお、ヘクトラは祈り続けた。自分には祈る事しか出来ない。
「総長……」そこにベリアルが沈痛な面持ちをしてやってきた。
 顔を見れば、ベリアルが何を言わんとしているのか判る。普段は聡明に輝いている瞳もひっそりとした哀しい色をたたえるにとどまっていた。ヘクトラは口を開いた。けれど、声が出ない。言いたくない。言ってしまったら、虚実でも真実になってしまいそうだ。
「……。ベリアル……。アリクシアは逝ってしまったのですね……」
 ベリアルはヘクトラにかける言葉も見つけられず、無言で頷いた。
「……判りました。――先に戻っていてください。すぐに行きます……」
 ヘクトラの感情を押し殺した声を聞き、ベリアルは戻っていった。無理にヘクトラを急がせても、自分がともにいてもヘクトラの慰めにもならないだろう。それどころか、ヘクトラの心をただ乱すだけになるかもしれない。
「神よ、何故! わたしからアリクシアを奪ったのですか!」
 祭壇から答えはない。ただ、耳を打つほどの静寂が戻ってくるだけだった。

文:篠原くれん 挿絵・タイトルイラスト:晴嵐改