どたばた大冒険

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08. resistance is futile(抵抗は無意味だ)

 ルーミン。悲劇のその町で何があったのか、正確な記録はない。そもそも、記録できるほどの生き残りもいなかったのだろう。或いは記録するにはあまりに悲惨過ぎる状況だったのかもしれない。その記された言葉は「ルーミン、消滅」の一言のみだった。
 そして……。トリリアン、アルケミスタ教会。
「よくやってくれました、ジェット。今後もこの調子で頼みますよ」
 ヘクトラの言葉にジェットは虚ろな眼差しで頷くだけだった。意識封じの呪法はヘクトラの予想よりも遥かにうまく機能していた。遠い昔から使われることのなかった意識封じの呪法には多少なりとも難があると思っていたのだが、今のところ大きな問題は噴出することはなかった。
「では、下に戻っていなさい……」
「……はい」
 呟くように答えるとジェットは踵を返した。戦闘から引けると戦闘時の鋭いイメージは完全に消え失せてしまう。ヘクトラがそのように意識封じの呪法を使ったのだ。平時は大人しく。敵意を持つもの、或いはそれに準ずるものがいる時は戦闘的な性格になるように。そして、そのことをヘクトラが容易にコントロールできるように。
 そうしなければ、天使の魔力を自在に使うことなど人間に出来はしない。
「……協会も少しは思い知ったことだろう。抵抗は無意味なのだと……」
 机上で手を組んだヘクトラの瞳が怪しく煌めいた。と、そこへ憔悴したクローバーが姿を現した。アリクシアが亡くなって以来、心労がたえない。アリクシアの“死”自体は時が過ぎることで何とか乗り越えていくことも出来た。問題はヘクトラの挙動不審、その精神の不安定さなのだ。特に天使・ジェットを使役するようになって以降、気持ちの浮き沈みが激しく、その扱いに手を焼くことが非常に多くなっていた。
「どうかしたのですか、クローバー。かなり疲れているようですが……」
 流石にヘクトラのせいだとはクローバーも言えなかった。
「――いいえ、疲れてなどいません」
 クローバーはそこで言葉を切り、じっとヘクトラの瞳の奥底を見つめた。純粋そうに見えるその瞳の裏側に一体、どんな野望や欲望が渦巻いているのだろう。この男は自分のせいで何千、何万と言う民が命を落としても何も感じることはないのだろうか。
「……何か――言いたいことがあるようですね……?」
「……今更、言いたいことなんてありませんよ……」それは小声でヘクトラの耳に届くことはなかった。「しかし、敢えて言わせていただくのなら、顔色がすぐれないですよ……。昨夜は何時頃、お休みになられたのですか?」
 ヘクトラはクローバーの指摘に呆気にとられたようなぽけっとした表情をした。
「あ、……あぁ、確か、明け方も近かったと……」
「夜更かしは身体によくありません。遅くとも夜半前にはお休みになってください」
 表面上は柔和に接しているが、その奥では非常に多くのことが渦巻いていた。ルーミンが何者かにより壊滅的な打撃を受けたこととヘクトラとの間に接点があるはずだ。その破滅的に広がる惨状から天使の関与が疑われるのだが、誰も天使の影を見たものはない。未だ、憶測の域を出ないものの意識封じの呪法をかけられた天使・ジェットとルーミンの壊滅には因果関係があるはずなのだ。何故なら、ルーミン襲撃は夜半から明け方にかけてあったのは間違いようのない事実だったからだ。
 その時刻にヘクトラが何をしていたのか、クローバーは見てしまったのだ。
 確かに、ジェットに呪法を施した日にトリリアンは、と言うよりはむしろヘクトラは強大な力を手に入れた。そして、天使の力を使いトリリアンをリテールで最も大きな影響力を持つ宗教組織へと変貌を遂げさせようとしていた。
 しかし、クローバーは信じていた。ヘクトラが殺人狂に身を落とすことはないと。そうまでして、力を得ようとしないだろうと。
「……一つお聞きしてもよろしいですか……?」クローバーの問い掛けにヘクトラは無言のまま頷いた。「ジェットは今、どこにいますか?」
「……地下牢です」
「――では、昨夜は……?」クローバーは静かに追求した。
「……。あなたの質問に答える必要性を全く感じません」
「そうですか」クローバーは短く答えると、そのままヘクトラの部屋をあとにした。
 これでジェットの去就が判れば、昨夜起きたルーミンの悲劇について知ることとなる。そうでもなければ、ヘクトラにジェットの居場所を隠す理由などないはずだ。クローバーは足早に廊下を駆け抜け、地下牢へとつながる階段を一足飛びに降り出した。胸騒ぎがする。何か良くないことが今ここで起きているような気がしてならない。
 クローバーが地下の廊下へと降りると、一枚のドアがゆっくりと閉じようとしていた。
(……ヘクトラは……ジェットにどこまでの自由を与えたんだ……)
 それは明らかな焦燥感だった。そして、恐怖。意識封じの呪法が完璧だと言う保証はどこにもないのに、魔法を自在に使える状態のままウロウロさせるなんて正気の沙汰ではない。万が一にでもヘクトラの呪法から天使が逃れたら……。そう思うと、胸が締め上げられるほどの息苦しさを感じた。
(――襲われることはないだろうか……?)
 不安はあるがどちらにしても地下牢の扉を閉めない訳にはいかない。クローバーはそっとその開いたドアに近づいた。中は薄暗く、湿気っている。おおよそ普通の人間が長く住むような場所ではない。クローバーも今、初めてそのことに気が付いた。ジェットと言う天使がソノアの時代に召喚されて以来、数百年をここで過ごしてきたとしたら。
「……そこに、いるのは……誰……?」
 クローバーは声が届くとは思わず、予想外のことにひどく驚いた。けれど、クローバーが耳にしたジェットの声色はとても優しく透き通っていた。

 迷夢を滅ぼすこと。確か、ヘクトラもそんなことを言っていた。
“リテールに黒き翼の天使は二人といらない。ただ一人、ジェットが君臨すればいいのだ”
 その言葉の奥に潜む真意にジェットはそこはかとなく気付いていた。自分の力を使い、トリリアンはのし上がろうとしている。天使と言う圧倒的な力をカリスマ的に利用して、協会に向いた信仰心をトリリアンに振り向かせるつもりなのだろう。
 だが、実際のところそんなことはどうでもいい。目の前に強敵が現れれば、倒すのみ。
「……お前に生き地獄を味わわせてやる」
「いや、無理でしょ、そりゃ?」アッケラカンとした口調で迷夢は言った。そして、不意に真面目な口調で。「キミ、あたしのことなめてるでしょ? どこかで言ったような言わなかったような何だけど……、キミは本当の天使を知らない。知っていたとしてもそれは偽物。記憶の中の産物に過ぎないのよ」
 ジェットは無言のまま、まるで品定めをするかのように迷夢を上から下までジロジロと眺め回した。自分が知らないと言う本物の天使が目の前にいる。自分が本物も本気も知らないと言うのなら、こいつに知らしめてやればいい。
 どこか、冷たい空気を放ちながらジェットは無の状態から幅広の剣を取り出した。濃い灰色の刀身、漆黒の輝きを持つ柄。そこからほとばしる魔力。迷夢もジェットに対し本物を知らないと言い切っているが、ジェットが半端者ではないことは肌で感じ取っていた。間違いなくジェットはかなり強い。
「ほー、キミの得物はブロードソードか。――あたしはこれよ」
 迷夢は虚空から細身の剣、レイピアをとり出し、不敵な笑みを浮かべながら正面に構えた。物理的な面で見れば、細身のレイピアは幅広のブロードソードに比べ分が悪い。しかし、魔力を具現化したそれには見た目など関係ない。天使自身の持つ魔力と知性こそがものを言うのだ。
「……ニコリともしないね、キミ?」
 感情表現豊かな迷夢としてはその無表情さは面白くない。しかし、迷夢はそこでハタと気が付いた。違う。迷夢の目の前にいるこの天使は何者かに操られている。額に浮かび上がる朱色の文字、どことなく虚ろな瞳が物語っている。迷夢の知る限りで、これは非常に大昔の半分、忘れ去られた意識封じの呪法の一つに違いない。
 ジェットは考えることを封じられ、戦うことを余儀なくされているのだろう。
 迷夢はじっとジェットを見つめたまま、ゴクリと唾を飲み込んだ。あらゆる場面を想定したとは言え、ここまでは考えが及ばなかった。自分の意志で戦うのと、機械的に戦わされるのとでは大きな違いがある。恐れることを知らず、傷つくことを厭わない。同胞を可能な限り傷つけたくない迷夢には辛い戦いになりそうだ。
 ベリアルからの報告にそこまではなかった。
 ハッキリとしていたのは総長・ヘクトラが天使を使った企みをしていると言う一点のみ。召喚術を用いると召喚された天使は術者に強制的に仕えることになるが、それでも多少の自由はある。けれど、意識封じの呪法が使われるとその考える自由すらもない。ただ、術者の思惑通りに動くマシーンになってしまうのだ。
「……キミ――どうしてここにいるの?」
 ジェットは言葉では答える代わりに動いた。この相手には迷夢得意のワードマジックも通用しないようだ。素の状態でも負けない自信はあるが、双方無傷ではすまないだろう。迷夢自身はそれでいいとしても、今、ジェットをこっ酷くやっつけるのは気が進まない。
 と、瞬時、考えている間にジェットは目前に迫っていた。
「くっ!」迷夢は身をひねる。
 ギィィィイイィイィン。迷夢は斬撃を間一髪でかわし、剣は激しい音を立てた。
「抵抗は無意味だ。大人しく、息絶えろ」
「簡単にくたばると思ってるなんて、あたしも甘く見られたもんよねぇ」
 迷夢は右目を閉じて、面倒くさそうに後頭部を左手でかいた。けれど、決して迷夢に余裕がある訳ではなかった。むしろ、ギリギリの状況だった。数百年間地下牢に押し込められてきた天使と自分となら、経験の分だけ明らかに自分の方が強い自信はある。しかし、あれはジェットであってジェットではない。封じられた意識、操られた身体にどんなスキルが宿っているのか全く見当もつかないのだ。
「――覚悟は決まったか……?」抑揚のないジェットの声が迷夢の脳裏にこだまする。
「覚悟するのはキミの方でしょ?」
 その脅しはどこまで効果があるのか、疑問だった。心無く戦うものに迷夢の言葉だと毒とは思えない。事実、ジェットは迷夢の挑発を右から左に素通りさせ迷夢に迫っていた。となれば、迷夢はいささか面白くない。どんな窮地に立たされようと多少の楽しみは感じていたい迷夢としては詰まらないことこの上なく、いまいち、戦いに乗り切れない。
「反応薄いね、キミ。――つまんない」
 つまらないと言われても、ジェットには関係ない。自分に課せられた任務を忠実に果たすのみ。ジェットにはそうすることしか出来ないのだから。だからこそ、ジェットは再び、迷夢に斬り掛かった。さっきよりも振りが鋭い。切っ先が流れ、動体視力の良い迷夢でさえ、それをハッキリと視認することが出来ない。けれど、それでも迷夢は身をかわした。
「くっ! ――ちぇっ、諦めて本気を出せってことか……。――何年ぶりかなぁ、本気を出すのって……。手加減できなかったら、ごめんね、ジェット」
 そこから、迷夢の動きは早かった。
「光の巫女・シャウスエッセン。我の名を聞き、我の意を大いなる光の前に導きたまえ」
 剣を使えば、ジェットに大けがをさせてしまうと考えた迷夢は魔法を主体の作戦に切り替えた。物理的な殺傷力を抑え、威力はそのままに大きなダメージを与えるのだ。
「さあっ! 我が左手に攻撃の意図を秘めた無限の破壊力を……!」
 遠隔破壊魔法。正確な魔法の名はついていない。光の巫女を介して、変幻自在に魔法を操ることが出来る。神に近い天使ならでは、と言うよりはむしろ、型にはまろうとしない迷夢の独特な魔法の使い方だ。そして、まずは。
「リリースっ、アキュムレイトエナジーっ!」
 最もシンプルに、迷夢は持てる光のエネルギーをジェットに向けた解放した。迷夢の左の手のひらが一際明るく輝き、あたりは完全に閃光に呑まれた。それから、その閃光が筋状に変化を遂げ、真っ白い矢のようになってジェットをめがけた。
 その瞬間、ジェットが動いた。その一瞬の表情が迷夢を嘲笑っているかのように迷夢には見えた。そして、ジェットの唇がゆっくりと動いた。
「シャドウ、シールド――」
「!」意表をつかれた。
 まさか、ジェットが魔法書にも載っていないような魔法を知っているとは流石の迷夢にも誤算だった。光魔法の威力は大きいだけに通常は吸収するよりはじき返すのが常套手段なのだ。吸収してかわすにしてもコントロールが難しい上に、比較的短時間にため込んだ魔力を解放しなければ、自爆する羽目になりかねない。
 それなのに、ジェットは迷夢の放った魔法を吸収しようと言うのだ。そして、実際にほとばしった魔法、魔力そのものを自身の前に作り上げた“シャドウ”の中に吸い込んでいく。これはおいそれと誰にでも出来ることではない。
 流石に、迷夢も焦りを隠せなかった。
「ならば、策その二、いくわよ」
 魔法だけではうまくないなら、変則的な戦い方も考えてある。そもそも、いちいち考えなくとも流れに乗って自然に戦えるのがベストなのだが、ジェット相手だとそこが難しい。結局、ただ倒せばいいと言う単純なものではないことに起因しているのだろう。
 迷夢はタイミングを計った。絶妙に仕掛けられなければうまくいかない。迷夢は柄でもないような真剣な眼差しで、どこか淋しげな色を湛え生気のないジェットの瞳を見つめた。その瞳からは全くと言っていいほど、次の行動が読めなかった。ただ、ゆらりゆらりとしているのが感じられ、何かを狙っていると言うことだけが判るのだ。
(……あまり、悠長にはしてられないから……、先に動くか……)
「……開けっ! クラッシュアイズ!」
 短縮された呪文の向こうから魔法が呼び覚まされる。通常の呪文を唱える魔法よりも威力が小さくなりがちだが、そんなことは迷夢には関係ない。そもそも、持ち合わせの魔力も大きい上に、コントロールの仕方が最上だ。見る見るうちに魔法が完成すると、光の魔法の秘めたる瞳の魔法陣から光がほとばしった。
「っ! シャドウシールドっ!」
「甘いっ! そう来るのは判ってるのよ。喰らえっ! ブロークンモーメント!」
 ぱあんと何かが閃くような感触があると周囲を静寂が覆った。風、大地の躍動感。そう言ったあらゆる動きを示す兆候が全く感じられなくなってしまった。無論、それだけではない。迷夢を除くもの、ジェットも動けなくなっていた。
「き、貴様、何をした」かろうじて聞き取れるようなかすれた声だった。
「――キミに教えるワケなんかないじゃない」迷夢はちょっとばかりの嘲笑を込めて言った。「どうしても、知りたければ自分で調べたら?」
 いつもよりも遥かに意地悪く、挑発するような険しく、妖しい眼差しでジェットをにらむ。それくらいをしないと、ジェットの心の奥底に届かない気がしてならないのだ。普段は高飛車で不安知らずの楽天迷夢も今度ばかりは少々不安だ。
「でも、ま、キミごときには無理だろうなぁ……」
 迷夢は頭の後ろで手を組んで空を見上げつつ、ちらりとジェットを見やった。
「……まぁ、それはそれとして、ホントの黒き翼の天使の片鱗を感じてもらえたかしら? フフ、あたし、これでもまだまだ、余裕があるのよ? キミがホントのキミであたしの前に立てるのなら、……見せてあげるわよ。あたしの本気ってやつをね? じゃ、それまで、ばいばい、ジェット。また、会おう。……ちゃんと、出直して来るのよ……」
 挑発いっぱいに右手を振り振り飛び去る迷夢はジェットの無表情な顔の裏にちらりと滲んだ悔しさの表情を見逃さなかった。これでもう一度、会える。恐らく、次は迷夢からではなく、ジェット自身から迷夢の前に姿を現すだろう。
 
 一方、本隊から離れたウィズ一隊はアルケミスタ郊外にさしかかっていた。現時点では確認されたと言うトリリアン・ガーディアンの姿は見えない。この辺りに大軍が隠れられる場所はないだけに不穏だった。或いは、期成同盟軍が攻め入ることをすでに情報入手し、市中に分散しているのかもしれない。
「……不吉……と言うか、不安だな」
「――迷夢がいないとそんなに不安なのか?」
 久須那は歩みを緩めた馬の背後から近づいて、何の気なしに発言した。
「そ、そんな訳ないでしょう? 久須那さん! 俺はあんなやつのこと、別になんとも思っていないんですから。だってそうでしょう? 気紛れだし。考えていることはよく判らないし。それにあいつ、俺を小馬鹿にするんですよ?」
「ぷっ、あははっ」久須那は心からおかしそうに笑った。
「何が面白いんですか。俺にはかなり切実ですよ」不機嫌にウィズは言った。
「そうか? 迷夢は気に入ったヤツにしかちょっかいは出さないんだぞ。セレスやデュレに対する言動を見ていたら判ると思うのだが……? それとも、もしかしたら、ウィズに気があるのかもしれないな?」
 何となく、ちょっと前までの自分とサムとの関係を思い出してしまう。会えば必ず“ウィズなんて頼りない”と言う迷夢だが、その実、かなりウィズが気になるらしい。危なっかしくてしょうがないところが気になるのか、そうでないのかは定かではないが。
「な、何を言い出すんですか、久須那さん。そんなことはあり得ません!」
 ウィズは顔を真っ赤にして慌てて言い切った。けれど、久須那はあながち外れでもないような気がした。迷夢がウィズを気にするように、ウィズも迷夢を気にしているのもよく判る。自分が全く見当外れのことを言ってるなら気にする必要など全くないのだから。
「まぁ、そう言うことにしておいてやる。それより、気付いたか?」
 ずっと笑っていた久須那の表情が急に険しくなった。
「ええ、そこかしこの物陰に気配を感じます。俺たちがここに来ることは連中、知っていたようですね。しかし、向こうは動く様子を見せませんね」
 ウィズはちらりと久須那を見やる。
「……あまり気は進まないんだが……、こちらから仕掛けるぞ。にらみ合いを続けては私たちが先に来た意味がないからな。それにぼちぼち追いついてくるだろう」
「ですね」
 久須那とウィズは目を合わせ、無言で頷きあった。次の瞬間、久須那はイグニスの弓を引いていた。次の瞬間、矢は射掛けられた。高温の青白い炎を身にまとい高速で飛翔する。矢は一つの物陰に飛び込んだ。刹那、堰を切ったかのように兵が現れた。
「……ロジャーの三角形……。……ガーディアン」
 兵士の胸元でシャランと小さく揺れた首飾りをウィズは見逃さなかった。その兵士は体格が最もよく、装備も充実しているようだった。ウィズの見立てではほぼ十割方、この兵士がこの一団の長のはずだ。その男はいきなり攻撃にでるのではなく、静かに進み出た。
「これより先には何人たりとも近寄らせない。どうしてもと言うのなら……」
「……前近代的な前口上は必要ねーよ。俺たちはお前たちのボスにしか用事はない。そっちがその気なら、こっちも手加減はなしだ」
 こんなことを言ったからと言って引き下がる相手ではない。無論、ウィズもそんなことは百も承知だ。万が一にでも逡巡が見えればと思ったが、まるでなかった。それどころか、余計に勢いづいたように攻めかかってきた。
「火に油を注ぐようなことは言うな」
 久須那が期成同盟側の先陣を切った。ガーディアンの人員もそれほど多くは見えない。ならば、魔法で一気に片付けるのが良策だろう。味方の被害を最小に。それでいて、敵を蹴散らし、戦意を喪失させるには魔法が最適だ。
「ウィズ、あの男はお前が押さえておけよ。他の連中は魔法で動きを止める」
 言うが早いか、ウィズと男の剣はせめぎ合っていた。
(重い……)
 それはウィズと男の体格差からくるものなのか、実力差なのか判らないが、激しく軋んだ剣にずっしりと重さを感じた。ウィズは奥歯に有らん限りの力を込めて男のそれをはじき返した。長期戦は明らかにウィズ自身の不利へとつながる。久須那が魔法を発動させるまでつなげればいいのだろうが、それもまた、妙に物悲しいものがあった。
「――光、炎、風……。呼び覚ませ炎と風のシンフォニー、ファイアーストーム!」
 短い呪文の詠唱の後にワァッとつむじ風が巻き起こり、ついでイグニスの炎と同じく青白い高温の炎を巻き込んだストームが誕生した。それは微塵も迷うことなくガーディアン部隊に突っ込んでいった。
 そして、怒号と悲鳴が敵陣からわき起こる。
 実際、魔法に通じるものが多いトリリアンとは言え、久須那のような天使が全力で放出する魔法をブロックする術は持たない。いや、より正確を期するなら、強力過ぎて容易にブロックできないと言ったほうがいいだろう。
「――貴様……」男は狼狽した。
「落ち着きなさい」男の背後からとても落ち着いた透き通った声が届いた。「あれはわたしたちを混乱させるためだけのものです。……急いで、被害状況の確認を」
 すっとたおやかに進み出ると、男に指示を出した。
「――お前は……?」久須那は短く問う。
「申し遅れました。サラと申します。ハイエルフのサラ。……そこの天使さん。ハイエルフのわたしがここにいるのがそんなに解せないのですか……? ……過去千数百年に渡ってしてきたことを考えたら、理由の端緒を掴めるかもしれませんよ……?」
 協会がしてきたこと。それはサラに言われるまでもなく久須那は十分に知っていた。十二世紀以降、協会はエルフを排斥してきたのだ。協会と思想を異にするトリリアンにエルフが大勢参加していると言うただその一点を根拠として。そして、同時に協会から遠ざけられたが故にトリリアンに参加したエルフも少なくないのだ。
「なるほど。だが、今は無関係のことだな……」
「ええ、そのようですね」
 言葉尻は優しく、表情も柔和だが、不穏なことこの上ない。サラも腹の底では相当のものを抱えているのだろう。しかも、協会と手を結んだエスメラルダ期成同盟軍が目の前にいれば心中穏やかならざるものがあるだろう。
「――さて、それはそれとしまして、期成同盟が何の御用かしら?」
「大した御用じゃないよ。これからのことを考えてホンのご挨拶に……ね?」
 ウィズは久須那の真横に並ぶとそう発言した。
「そうでございますか。――あくまで様子見と仰るのなら、今日のところは引いて差し上げますが、次はないと覚悟を決めてくださいまし」
「――覚悟を決めるのはサラ、お前の方だろう。――トリリアンがかつての協会と同じ目を見る前に――自分の考えを正した方がいい……」
「その言葉、そのままあなたにお返しいたしますわ。――皆さん、引き返しますわよ」
 サラの号令にガーディアンは動き始めた。どうやら、この軍の実質的なリーダーはサラのようだ。ウィズと向き合った男はサブリーダーらしく、久須那のファイアーストームでとっちらかった自軍を立て直しサラに従っていた。
「……こんなんでいいんですか? 久須那さん?」
 ウィズは拍子抜けしてしまったかのような口調で呟いた。
「迷夢に本気でやり合えと言われた覚えないぞ。本番はあくまで戴冠式だ。作戦上は、今回、期成同盟が明らかにトリリアンに敵対意志を持っていることが伝われば十分なんだ。それにこちらには今、けが人を出しているような余裕は全くないからな。口先と、わたしの魔法で片づくんならそれにこしたことはあるまい?」
「まぁ……確かに」ウィズもこれ以上ものの言い様がなかった。
 と、そこへ馬の蹄を轟かせながら、本隊が追いついてきた。先頭は指揮官のサム。サムは久須那とウィズの近くまで馬を駆り、飛び降りると開口一番こういった。
「……なぁ。俺らの出る幕はちぃ〜とも無かったみたいね? まぁなぁ。久須那がいりゃあ、そんなもんだとは思っていたけれどよ? 拍子抜けだよな。少しくらい残してくれても良かったんじゃない?」
「――何、バカなことを言っているんだ? 目的は迅速に達成すること。期成同盟はただでさえ人員不足なんだ。迅速一番、けが人を出さないことの方が大事なはずだ。――それに、慌てなくてもサムの出番はくる……。慌てなくてもね」
 久須那はどこか慰めるかのようなニュアンスを込めてサムに言った。
「まぁ……な。ま、今日のところは体力温存と言うことで許してやる。ともあれ、作戦第一段はとりあえず成功したようだし、ここからが策士・迷夢の腕の見せ所なんだろうな」
 トリリアンとの前哨戦。それは思いの他、あっけない幕切れを迎えた。

 この幼気のない女性があちらこちらの街を瓦礫の山と変えてきた悪魔とまで呼ばれる天使なのだろうか。少なくとも、クローバーには全くそのようには見えなかった。そう、加害者と言うよりはむしろ、被害者のようにしか見えない。
 クローバーは天使の色白な顔を凍りついてしまったかのように見つめていた。
「――あなたは……どなたですか……?」
「わたしは……クローバー」ジェットに促されるようにクローバーは名乗った。
「……幸せを運ぶ……四つ葉のクローバー……?」
 その双眸はクローバーを見ているようで、虚空を見つめているかのように虚ろだった。
「そうだったら、良かったのですけれどね。わたしはただのクローバーです」
 このまま、二人向かい合っていても大丈夫なのだろうか。躊躇うことなく街を滅ぼすのが真の顔で、幼気なく、あどけなく思えるこちらの顔が仮面に過ぎないのだとしたら。クローバーにはどちらが本当の顔なのか判別がつけられないが、意識封じの呪法とはそう言うものなのだ。本来の性格の上に術者にとって都合の良い性格を、傀儡となる性格を作り上げそれを操り、本来の性格を意識の奥底に封じ込める。だからと言って、本来の性格は完全に消え失せるのではなく、術者の意識が離れた時にひょっこりと姿をのぞかせる。
「さて、そう言うあなたは……どなたですか……?」
 クローバーは恐る恐る尋ねた。
「わたしは……ジェット。……わたしは昨日、何をして過ごしたんでしょう……?」
「……!」それはクローバーにとって非常に恐ろしい言葉だった。
 ジェット自身が何をしていたか覚えていない。けれど、状況証拠から九割以上の確率でヘクトラによって意識を封じられたジェットがルーミンに壊滅的な打撃を与えたことは疑いようがないことだというのに。クローバーは正直なところ、意識封じの呪法がここまで出来るものだとは予想さえしていなかった。
「あなたは……一日、ここにいたんじゃないのですか……?」
 クローバーの問いにジェットは力なく首を横に振っていた。
「――わたしは青い空を見たの……。だから、きっと、外にいたはずなの。一日中こんなに薄暗くはなかったの……。明るくて眩しい光がわたしには……見えた……」
 ならば、この娘に昨日のことをどう伝えたらいいのだろう。最初はそんなことすら考えなかった。ソノア総長の記録に残る天使観からジェットは危険なものと言う認識以上にはならなかった。しかし、今日、実際に触れてしまったジェットはクローバーの天使観を根底から覆すものだった。
「――わたしはここで……何を……」
 もはや、クローバーに答えられることは何もなかった。

文:篠原くれん 挿絵・タイトルイラスト:晴嵐改