12の精霊核

←PREVIOUS  NEXT→

06. depraved angels(堕ちた天使)

「……また、来たな」サムは閉じていた瞳を開き、天を見据えた。
 明け方。東の空が徐々に白み始め、耳が痛くなるような静寂が支配するころ。それは現れた。空切る翼がサムと久須那にせせら笑いを運んでくる。まだ、遠い。微かな気配でも夜明け前の澄んだ空気には大きすぎた。弾ける直前の風船のような、奇妙な緊張が膨らんでいく。
「……起きろ、久須那。どうやら、簡単には黒い湖まで行かせてくれないらしい」
「う……ん?」久々に深い眠りに落ちたようだ。起きたような起きていないような生返事をする。
「せっかく、眠れたところを悪いがね。悠長に構えていられなさそうだ」
「何か、来たの?」眠い目をこする。
「久須那の敬愛するジングリッドさまだよ。直々にお出ましとは……久須那も結構やるな」
「バカを言うな。逃げなくてもいいのか?」
「逃げるのはやめにした」目だけを久須那に向けニッとした。
「何で、急に」あまりの変わり身の早さに驚いて頓狂な声が出てしまう。
「レルシアが伝令をよこしたからさ。『わたしはわたしのままでいる。だから、助けて』ってさ」
 久須那はもう一回目を擦ると、まじまじとサムを見詰めた。
「レルシアさまからの使いが誰か来ていたのか?」
「い・い・や。そおいう話を持ってきたのは久須那だろ?」
「ええぇ?」目を白黒させる。
「やっぱり、面白いよ、久須那は。ま、そんなレルシアの本性を見抜けないようじゃあ、まだまだ、修業が足りないぜ、久須那ちゃん」
「面目無いような気もするが、そうでないような気もする……」俯き加減になってしまう。
「ともかく、レルシア派とシオーネ派の総力戦も間近ってワケだな」
「何で協会内部のそんなことまで知ってる?」
「はは、伊達にヒーローはやっていないんだぞ。情報はどこにだって転がっているしね」
「そおなのか……?」
「この八ヶ月、ただ逃げ回っていたんじゃねぇ。協会をぶっ潰す機会を待っていたのさ」
 炎のかげんなのか、瞬く間に見せた邪悪な煌めきを宿した瞳。それは久須那の心をギュッと掴んだ。二言三言では説明のしようのない焦燥のような感覚。狩るものの目。久須那の中に何かもやもやとした言いたいことが浮かんだけれど、きちんとした言葉にはならなかった。
「……火を、消せ」サムは久須那に命ずる。
 久須那は足元で火を消しながら、まだ、明けやらぬ瑠璃色の空から気配を感じ取っていた。
「結構な人数が居るな。しかも、天使兵団でも指折りの猛者ばかり。あ、サム。今、絶対、ムキムキの筋肉男ばかり想像しなかったか?」少しだけ得意げな表情を久須那はしていた。
「違うのか?」こちらはニヤリ。
「今の構成だと、女と男で半々のようだし。元々、天使は魔力が強いから。何というかその〜」
「は〜。つまり、久須那を相手にするより厄介だと言いたいわけだな?」
「まぁ……そうとも言う……」久須那はとっても不本意そうにサムを睨め付けた。
 と、サムと久須那のいる位置からさほど遠くもないところから、男の声が聞こえてきた。
「二人で仲良くお喋りとは、随分と親密になったものだな。まだ、三日だ」
 十人の天使を背後に従え、ジングリッドが空中に立っていた。
「へっ! 男と女が打ち解けるまでにゃあ、一晩あれば十分さ! なあ、久須那!」
 サムは久須那の肩をぐいっと抱き寄せた。と、久須那はまた顔を真っ赤にしてしまう。
「……」前髪をサッとかき上げて、鼻で笑う。「久須那の顔は違うと言っている。――さて、そのような下らぬ 戯言につきあっている暇ないのだよ」
「久須那を返して欲しいのか?」サムとジングリッドは睨み合いの格好になった。
「サム……。ジングリッドさまは甘く見ないほうが……」
「へっへっへ。さっきも伊達にヒーローやってないって、言っただろ? 久須那。こんなてめぇに未練たらたらのヘボ野郎に負けるつもりはねぇ!」
「ヘボ野郎とは好き放題、言ってくれるね。それにわたしは、そんな裏切り者より……」
 ジングリッドの視線と言葉が久須那の胸の奥まで深く突き刺さった。
「わたしは裏切っていない……」囁き声。だけれど、それは蔑みの眼差しを送るジングリッドに届いたようだ。「わたしは……今は……協会よりもサムを信じただけ……」
「それを背信と言わず、何と言う」
「何とも」サムはニヤリとした。「久須那はてめぇのものじゃねぇ。俺のもんだ。てめぇにぐちゃぐちゃ言われる筋合いはないぜ? それとも? 十二天使、ジングリッドさまもそこで最強の弓使い、右腕に逃げられたとあっちゃあ形なしの、なよなよなのかな?」
 それは明らかに挑発だった。見ているだけの久須那ですらドキリとして気が気ではない。ここからでは見えないが、ジングリッドの気性を考えたらこめかみに青筋を立てているのに違いない。
「そう思うのは勝手だが――」
 ジングリッドは不敵に笑むと、パチンと指を鳴らした。すると、ジングリッドの背後に控えた天使たちが一斉に動き出した。だけれど、瞳に光は見えない。ただの操り人形の如く、柄から剣を引き抜き、サムたちに向かってくる。
「ちっ! そっちがそう来るなら、流石の俺も本気ださにゃあダメかな?」だけど、微笑み。
「待て、サム。ここはわたしがやるっ!」
 サムの斜め後方にいた久須那が一歩踏み出し、サムを制した。いつにない凛々しい真顔。真面 目でもどこか頼りなかったサムの知っている久須那とは微妙に異なっていた。
「協会に対する反逆者で構わないのだな?」口元を歪めたいやらしい笑みがこぼれる。
 そんなジングリッドを視界のはじっこで眺めながら久須那は矢をつがえ、弓を引き、狙いを定めて矢を射る。イグニスの矢がジングリッドの頬をかすめてその後ろの天使たちめがけて飛翔する。
「今なら……、それもいいと思う!」
「成程――。身も心もイクシオンのものか……」
 ジングリッドの独り言は背後から届く、天使たちの悲鳴と怒号に掻き消された。青い炎をまとったイグニスの矢が天使の軍団に否応無しに襲いかかったのだ。炎の魔力を宿したイグニスの弓は普通 のそれとは破壊力に格段の差がある。まして、天性の弓使いが用いたのならまさに水を得た魚。
 だけれど、サムは久須那の肩に手を置いて、後ろに引っ張った。
「……久須那は下がれ」
「いやだ! 未練なんてない! 後悔なんてしない! だから……!」瞳に涙を溜める。
 それは久須那の過去との決別の儀式なのかもしれなかった。自分の仲間だった者に攻撃の手を向けて、協会と無縁になったことを自分の心にアピールするのだ。
「ほ〜ほ〜、泣き虫、久須那がいっちょまえに〜!」
「余計なことを言うな。カッコ悪い……」
「では、お嬢さま。協同戦線なら文句はありますまい? 俺と久須那なら無敵のコンビネーションだぜ?」
 最初から、サムはそのつもりだった。サムに接近戦、久須那に遠距離攻撃、援護を割り振ればそれぞれが単独で戦うより、遥かに効率の良い相乗効果 が期待できそうだ。実際、合わせの練習などしたことはないが、それなりに気の合う二人のようだからかなりの線まで行けると踏んだ。
「どちらかといえば……不敵なコンビネーションのような気がする……」
 久須那とサムの緊張感のない掛け合いが続く中、天使たちは久須那の攻撃から立ち直りそつつあった。焦げた衣服のススを軽くはらって、感情のない工作ロボットのように動き出した。
「召喚されるとはこう言うことを言う……。己が使命に疑問を持たぬ 忠実なる僕」
「人形に囲まれて楽しいのか?」聞き咎めて、サムが言い放った。
「少なくとも……人形ではないなぁ。自動人形とくらい言って欲しいものだねぇ」
 それから、凄惨な戦いが始まった。天使と人間。久須那でさえ、こんな悲惨な状況に身を置いたことはなかった。あの時、サムが加減してくれなければ、間違いなく自分もこの天使たちと同じになっていたはず。久須那との一戦で見せた情けなどこれっぽちも存在しない。
 至近距離となれば、サムの美麗な剣技が炸裂し、退けば久須那のイグニスの魔力が襲いかかる。絶妙な連携。天使たちに魔法を完成させる暇を与えなかった。
「ジングリッドとか言ったな? 俺たちとまともにやり合いてぇなら根性あるの連れてこい」
 攻撃の手を向けた天使をなぎ払い、サムは爛々と輝く瞳をジングリッドに向けた。
「……お前たちは下がっていろ……」ジングリッドは後ろに手をかざし、天使兵団の攻撃をやめさせた。「――お前たちの相手など俺一人で十分すぎる」
 冷めた瞳、いつか久須那がサムに見せた不穏さに気高く煌めく眼だった。
「だが、協会御自慢の天使兵団は全員おねんね。まともに動けるのはてめぇしかいねぇぜ?」
「これほどまでとは思わなかったが、十人の天使よりはてこずると思うのだがね?」
 ジングリッドは余裕げな表情をまとっていた。
「それは……どうかな?」ニヤリとした笑みが漏れた。
 久須那はその剣呑な遣り取りをただ眺めているしかなかった。口を挟めないし、手も出せない。
「どうした? 早く降りてこいよ。ジングリッドさま」
「まあ、何、そう慌てるな。死に急ぐことはあるまい。天使殺しのイクシオンどの」
「否定するつもりはねぇが……、てめぇら、大量殺戮兵器に比べりゃ少しはましだろ?」
 眉をひそめたジングリッドからしばらくの間、いらえはなかった。それから、ジングリッドはサムの後ろに付き従う久須那を胡乱そうな目付きで眺めて言った。
「久須那は……そんなにまでイクシオンを信じているのだな」
「?」ジングリッドの言いたいことは久須那には判らなかった。
「……久須那には、まだ、言っていないのだな? 言えるはずもないが……。言ってみるか? 知れば協会を裏切ったときのようにイクシオンを裏切るかもな」
 冷めきった蔑みの凍てつく視線が久須那を捕らえていた。
「ジン……グリッドさまは何をおっしゃりたいのですか?」困惑した顔で久須那が問う。
「『知らないことは罪』……口癖だったな?」ジングリッドは口元をフッと歪めた。
「知らないほ〜がいいことだってあるのさ」
 ジングリッドと久須那の会話にサムが割って入った。サムにも知られたくない過去はある。そしてジングリッドの仄めかしたことは、今、この場で久須那に知られるにはあまりに危険なコトだった。サムはスキを縫って完成させた炎術を繰り出した。しかし、ジングリッドは気配を察知していたのか、瞬間的に移動してサムの攻撃を難なく避けた。
「フン……。一理あるな」
「本気で思ってんなら、要らん口出しはしねぇで黙っていて欲しいもんだね」
「減らず口だな、イクシオン」
 最後にそう言い放つとジングリッドは虚空から剣を取りだした。そこから、場の空気が一転した。ジングリッドが今まで抑えていた魔力を開放した。一瞬にして、辺りは身の毛のよだつような寒さと緊迫感の中に放り込まれた。それはジングリッドの右腕とまで言われた久須那でさえも一切触れたことのなかった圧倒的な威圧感。
「久須那……」ポウッとしていて返事がない。「久須那!」
「あ、はいっ!」ハッと我に返って久須那は叫んだ。
「ジングリッドは本当にシオーネに呼ばれたのか?」
 ジングリッドから目を離せずにサムは久須那に問った。久須那や他の天使たちと力の差がありすぎる。何もしないで周囲を威圧できるのなら、天使の階級的にみて“エンジェルズ”ではなさそうだ。が、同時に人間如きに高位 の天使がお気軽に召喚できるのかという気がしてくるのだ。
「判らない。ただ、ホントに八ヶ月前なんだ」
(八ヶ月ねぇ。全部、そこに収束するんだ。レルシアに聞いてみる価値ありか?)
「ほう……。わたしを相手に考え事とは随分と見くびってくれたものだね」
 ジングリッドの顔がサムの目前に迫っていた。ジングリッドは瞬間移動が出来る。さっきその片鱗を見せていたのをすっかり忘れていた。サムは身を引こうとしたが、間に合わなかった。フッと笑いが漏れた瞬間、サムの身体に避けようのない衝撃が走った。背後からは久須那の甲高い悲鳴が聞こえてきた。それがやけに遠く聞こえて、やられたんだと実感が湧いてきた。
 ジングリッドの不敵な煌めきを宿した眼差しがサムの霞んだ視界に見える。
「稀有な英雄も所詮はこんなものなのか?」
 サムは力なく地面に膝をついた。こんなやつ相手に敵うはずがない。楽観主義者のサムにしては珍しく、絶望感を漂わせていた。桁違いの魔力の前に屈するほかないのか。最初から、ジングリッドと剣を交えたらただでは済まないと考えてはいたが、このままでは得意の減らず口も使えない。
「何を言うか。まだ、始まったばかりだぜ」
 強がりを言ってみても、ジングリッドの嘲りが届くだけ。今度ばかりは計算を誤ったか。ジングリッドのたった一撃を喰っただけで動けないとは情けない。
「終わりだ」やけに無機的な声。「首をはねるか、心臓をひと突きか。どちらが望みだ?」
「へっ! どちらもお断りだね」
 と、狼狽するサムの横から青白い炎をまとった何かが飛んでいった。
「わたしに手向かうとはいい度胸だ」ジングリッドは造作もなく久須那の矢を打ち落とした。
「サムは渡さない。……ジングリッドさまにわたしの」久須那は言葉を詰まらせた。
 そこから先の思いを口から出してもジングリッドの嘲笑を買うだけ。何故だか、悔しい。あんな啖呵を切ったのに、どう考えても勝ち目はない。向こう側にいたとき、久須那もそう思われていたのだろうか。宙に浮かんで、絶望的な力の差に気折れする人間たちを嘲っていた。
「天使が人間に恋するとは……。もう少し生かしておいても面白いかもしれん――。今度会うときには久須那とイクシオンの“二世”が見られるのかな?」腕を組み、高圧的に久須那を見下ろす。
「どおせ、そんな暇はくれねぇんだろ?」
「サムっ!」心配そうに潤む瞳がサムを向いた。「大丈夫なのか?」
「多分ね」久須那に手を借りてサムは起き上がった。「ホラ、いちいち泣くな。みっともない」
 サムは衣服のポケットというポケットを全部ひっくり返して少し汚れた白いハンカチを見つけると、ちょっと、照れ臭そうに久須那に手渡した。
「あ……。ありがと……」
「時間はやらん。だが、今日のところは逃がしてあげよう。直接やり合うと、うちの被害が甚大だ。……久須那といるお前は危険すぎる。さらに……面 白い趣向を思いついたのでね……」
 ジングリッドはいやらしく軽蔑の眼差しをサムに送っていた。
「へっ、『逃がしてあげよう』とは流石はジングリッドさまだな。天使長を拝命するだけあって他の天使どもとは違うぜ? “エンジェルズ”じゃあねぇんだろ」
「……知らない方がいいこともあると言っていなかったか?」
「そ〜来ましたか。ま、ヒントはもらったってことでいいよ」
「そうか? では、その代償に二、三、質問に答えていただこうかな」
 返事をする代りにサムは黙ってジングリッドの顔を見つめていた。この状態で不意打ちとばかりに仕掛けても勝てそうな気がしない。追い掛けてきた天使兵団の猛者どもを幾度となく蹴散らしたサムとあっても、新たな手立てを思案しないと潰されるのが関の山だ。
「……レルシア」何の前振りもなかった。
「レルシア――?」声が裏返りそうになる。「がどうかしたのか」
「レルシア大司教とお前は幼なじみだそうだ……」
「ほ〜。それは初耳だ。協会大司教さまと俺がどう知りあえる? だいたいな協会にいるやつとの交流なんて冗談じゃねぇや。聖職者面 した悪党に用事はねぇ」
「悪党ね。それはお褒めの言葉と受け取ってもいいのかな。エスメラルダ王国魔法騎士団団長。またの名をリテールの英雄……。人類初の犯罪者でかつてはリテールの神々に名を連ねた男」
「へぇっ。やけに詳しいじゃん。せっかくだ、ジングリッドどのにはサムファン倶楽部会員番号三番をあげよう! 名誉なことだぞ、キミ! ちなみに一番はジーゼ、二番は久須那だ」
 半分投げやり気味にサムは言った。久須那に身体を支えられて無様な姿を晒しても、どうでもいい気分。また、そうでもしていないとサムの真面 目な部分が色々と突き上げてくるのだ。
「そんなファン倶楽部があったとは初耳だな」
「そりゃそうだろな。たった今、思いついたばっかりだ」
 敵を相手に何を張り合っているかと久須那は思う。けれど、それがサムの特徴かと考えると妙に納得できてしまうところが不思議だった。フと、ジングリッドを見やれば、かなりの呆れ顔でサムを眺めている。
「噂……通りのやつのようだ。そうやって、久須那をたぶらかしたのだな?」
「人聞きの悪いことを言うな。口説いたと言ってもらおうか」
「どちらでも構わん。久須那が堕ちたことには変わりない」
「久須那が堕ちたなら、てめぇはそれよりもっと凄いことになってるってコトだな」
「少なくとも悪魔にはなっていないな」
「それも時間の問題だろ?」悪辣に笑う。「協会の天使兵団なんてもんは悪魔より悪魔なんだよ」
「白い悪魔もなかなか乙なものだろう?」ジングリッドがニヤリと返す。
 その様子を傍から見ると不穏なこと限りない。サムやジングリッドと無関係だったなら、久須那は一目散に逃げ出したい気持ちになった。
「ハ! 白も黒もかんけ〜ね〜さ。さぁ〜てね、久須那ちゃん。ジングリッドさまの気が変わらないうちにおいとまさせていただきましょ。ちょっと、そこまでお空の散歩、頼むわ」
 サムは右手をジングリッドに向けてひらひらさせた。
「あ、サム。そんな、無理をするな」
「見せつけるな。……森の香のする戦士、サム。今度会うときはお前らの塒ごとど〜んと消してやる。それまでせ〜ぜ〜楽しんでおけ」
「ハイハイ。適当に楽しんでおきますから、いいかげん、帰ってくれない?」
「フッ。それが持ち味というわけだな。ま、いいさ」ジングリッドは腕を組んで瞳を閉じた。「者共、帰るぞ。健気な久須那に免じて作戦変更だ」
 ジングリッドがサッと手を振り上げると空中で佇んでいた天使たちが一斉に踵を返した。単純に考えると元来た方向へだから、恐らく、シメオン大聖堂辺りまで退却するのだろう。
「用事が済んだら、あっちゅ〜まにいなくなったな、あの連中……」
「……九死に一生を得たようなもんなのに、よく言うよこの口は!」
 しかし、サムに限ってはその減らず口で幾多の命を拾っているような気がするのだ。今だって前だって、巧みな話術で深刻な勝利、引き分けへのターニングポイントを制してきた。不思議な人。命のかかった争いとなれば、普通 は無口になるものだ。久須那はサムのそこに興味を覚えて、協会から離れる前に聞いたレルシアの言葉を思い出した。
(『会えば話してみたくなる』か。そ、だね。レルシアさま)久須那はクスクスと笑った。
「コラ、何笑ってんだ、久須那。俺たちも出掛けるぞ」
「どこへだ?」
「テレネンセス。気は……進まないがね」サムは苦笑いをした。
「だったら、どうして行く必要がある?」
「ジングリッドが嫌なことを言った。『森の香のする戦士』――俺にとっての森は今のところたった一ヶ所、ジーゼのいるエルフの森しかねぇんだ。多分、次はそこだ」
「そっか」少しだけに淋しそうに久須那は言った。
「シェイラル司祭にも会いたいし、……あそこならジングリッドの秘密が幾つか判るかもしれん」
「ジングリッドさまの秘密……か。――近くのアルケミスタへは寄らないのか?」
 急に思い出したかのように久須那は言い、サムはその久須那を解せなそうに見詰めていた。
「何か用事でもあるのか?」手を頭の後ろに組んで伸びをする。
 久須那はふるふると首を横に振る。手を後ろ組んで、地面にあった小石をひとつポンと蹴った。
「ただ、何となく寄ったほうがいいような気がしただけだ――」
「なら、寄らん。寄り道している時間ももったいないんだ」そして、サムは物思いに耽る。
(ジングリッド……。てめぇは何者だ。誰が呼んだ。呼び寄せられたのか。やつの自由意志か)
「サム。そんな難しい顔をしてどうかしたのか。傷が痛むのか?」
 幾度となく気がかりそうな久須那の顔がサムの仏頂面を覗き込んでいた。
「何だ、久須那は俺のこと、心配してくれるんだ」
 久須那の透き通るような瞳を見詰めて、サムは微笑んだ。
「……」数秒のインターバルを開けて久須那は頬を赤く染めた。
「うっ、別にそんな、こと思ってない!」それはもう隠せない思いだったのかもしれない。
 恥ずかしさを紛らすためなのか、久須那はいきなりサムを抱えると無遠慮に飛び上がった。地面 が見る間に小さくなって、森はパノラマ、近くのアルケミスタも視界に入る。そして。
「う、わっ! だから! 久須那、速すぎるって。前も言ったろ? 殺す気かぁ〜?」
 サムの悲痛な叫び声を残して、久須那は街道筋の小さな戦場を後にした。