12の精霊核

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15. wanna return, but(帰りたい、けど)

「そう、どこからお話ししましょうか……」ランプの仄かな灯りの中、長い記憶の糸をたぐり寄せていた。申の知りたい最初のこと。「どうして、精霊狩りが始まったのか――」
 申はテーブルの上に身を乗り出してシェイラルの言葉を聞き逃さないように必死だった。
「それは……協会が天使を召喚してしまったからです」
「え?」裏返った間抜けな声が出てしまった。
「えぇ」シェイラルは手を身体の正面で握り、瞳を閉じた。「初成功した日からこうなる道筋がひかれた……と言った方がいいのかもしれません。――申は郷愁を感じたことはありませんか?」
 天井を眺めたままだったシェイラルの瞳が突如、申を向いた。
「ないとは言えません、やっぱり」何故か照れ気味に申はうなじを掻いた。
「――それですよ。始まりは……ね。『帰りたい』この世界に来て初めてそう考えた天使……それが恐らく協会現天使長・ジングリッドです」
「さっき、シェイラルさんの言っていた『独特の輝き』を持った天使と関係が……?」
 シェイラルは暗い面もちで無言のまま頷いた。
「協会に召還された天使はほぼ完全に召喚士に従属します。しかし、玲於那やジングリッドは違ったのです。独特の輝きを持つと言うことは……他の天使に比べて自分の意志を色濃く持っていると言うことなのです。仄かな色を持った久須那がシオーネの支配に苦悩したように……ね」
「あの、よく、言いたいことが判らないのですけど……」
「簡単にまとめますか?」シェイラルは申が一生懸命頷くのを見て先を続けた。「手短には、ジングリッドという天使が己が欲望、つまり、異界に帰ることですが、そのために協会を操り必要なものを集めていると言うことです……」
「それが精霊核?」まだ半信半疑の様子で申はシェイラルに問いかけた。
「ええ。ですが、それだけでは決定的に足りないものがある。精霊核に秘められたちからは象徴的には扉を開けるための“手”のようなもの。玲於那の言葉を借りるなら……他に“扉”と“鍵”が必要なのです」語気に力がこもってきた。
「“扉”と“鍵”?」期せずに訝しげな視線をシェイラルに向けてしまったかもしれない。
「それが……わたしたちの元に伝わり届いたのは三年前のことです」
 それはまるで昨日のようのことでありつつ、ずっと手の届かないところまで行ってしまった遙かな過去の出来事のようだった。

「シェイラル」彼女にしては珍しく、パタパタと大慌てで廊下を駆けてきた。
「どうかしたのですか? 玲於那、あなたらしくもない」
「らしいとか、らしくないとかそんなこと言ってる場合じゃありません!」
 玲於那は手にした封書をシェイラルに手渡した。封は既に切られていて、玲於那はそれに一通り目を通した上で慌てふためいてシェイラルのいる小さな執務室まで走ってきたようだった。
「――レルシアからの手紙ですか?」シェイラルは封筒から便箋を取り出してシゲシゲと見詰め読み始めた。「……いつもの近況報告――」
「こんな時にふざけないで! 全く、あなたといいイクシオンといいどうしてこんなのばっかり」
「嘆いても始まりませんよ」朗らかに微笑む。
「はぁぁああ?」冗談じゃないと、腕を組んでぷんぷんの玲於那だが、まだ笑顔が零れる。
「ちゃっちゃと読んでくださいな♪ 愛しの司祭さま♪」
「……レルシアもついに大司教になりますか。まあ、あの、お転婆娘がよくもまあ」
「――!」呆れたような玲於那の顔がシェイラルを睨む。「そっちの話はあとでいいんです!」
 バン! とシェイラルの机に身を乗り出した。
「……」シェイラルはレルシアからの手紙を丁寧に畳むと玲於那に返した。「レルシアがジングリッドさまを召喚したと言うこと……。ですが、レルシアはじゅう……二年前でしたか? ここで軽い練習をしたくらいで本格的な召喚はしてないはず……」
 玲於那は研ぎ澄んだ視線をシェイラルに向け頷いた。
「そして、彼は異界に帰るために精霊狩りを始めた。何故?」解せないと表情が曇る。
「シェイラルはそこら辺に詳しくなかったのでしたね」玲於那はため息をついた。「わたしたち、天使の住む世界はここから見ると異次元です。それは判りきったことですよね?」
「ええ、伊達に召喚士をしていたわけではありません」シェイラルは玲於那の眼を見詰めた。
「でも、天使は召喚士ではない」ちょっとだけ澄ました風に玲於那は言う。「しかも、召喚の逆、いわば帰還の魔法は存在しない。今のところは……ですけどね」
「つまり……帰還の“魔法”を触媒するものがない」シェイラルは机の上で手を組んだ。
「その通り、異界へ“扉”を開くには“手”として莫大なエネルギーがいるのです。し・か・も、それだけじゃ足りない」悪戯っ子の笑みを浮かべて玲於那はシェイラルに問いかけた。
「扉と手があって、あと必要なものは」
「この教会にも、どの家にも付いているものですよ。珍しくはない」
「“鍵”ですね」シェイラルの視線が微かに得意げな色を帯びる。
「不幸中の幸いなのは天使長がその“鍵”をまだ掴んでいないこと……。わたしたちにも判らないのですから、どうしようもないのですけどね」
「……判りました。ともかく、天使長がそんな企みをしてるってことですね? レルシアの手紙に書いてあったのは。……帰りたい」シェイラルは椅子にのけぞって天井を見上げた。「しかし、玲於那、あなたは望まなかった。オレンジ色の輝きを持ったあなたが」
 玲於那は瞬間、クスリと笑ってシェイラルを見ると、ひょいっと視線を逸らした。
「わたしには司祭さまと娘、息子がいますよ。でも……」玲於那は哀しそうに瞳を閉じた。
「どうかしたのですか?」
「ジングリッドの周りには心の醜い人たちしかいなかったとしたら……?」
 シェイラルは瞳を閉じた。心当たりはありすぎるほどある。協会の不実。それが二十年あまり前の「鏡面十字」をシンボルにした後の協会レルシア派設立の訳でもあった。少年・シェイラルが憧れた協会の理念などはとうの昔にどこかに吹き飛んでしまっていた。
「そう言えば、玲於那は定例報告によくシメオンに行くのでしたね。……人間の世界に幻滅してしまいましたか。ですが、やけに急進的になりましたね。彼ならもっと用意周到に直前まで誰にも知られずに事を運べたはずです」
「協会の内部分裂を利用するつもりなの。わたしたちのレルシア派とシオーネ派。異端狩り、粛正を名目にして精霊狩りを展開するとの噂も聞き及んだことが……」
「天使兵団を動かして大々的に、ですか? ――王国側は?」
 玲於那は重苦しげに首を横に振った。
「説得工作はしてみるけれど……。中立よりはどちらかというとジングリッドよりかしら。ついでに、中枢はわたしたちを少しばかり……疎ましく思っているようだし――」
「イクシオンは……」頼れないのかとシェイラルの瞳が訴える。
「――折角、魔法騎士団の団長にまでなれたのに、巻き込んでは彼の立場が……」
「この際、俺のことなんか関係ねぇだろ?」
 いるはずのない人間の声が聞こえてきて、玲於那は思わずシェイラルの傍らまで跳びすさった。
「イクシオン!」二人、同時に声を上げた。
「だって、今日は非番ではないのでしょう?」玲於那が裏返った声で言う。
 イクシオンは腕を組んで扉の柱に寄りかかっていた。玲於那の言葉に頷いて、言葉をつなげる。
「非番じゃねぇさ……」瞳はぼんやりと天井を眺めていた。「臆病な……国王陛下のご命令」
「!」予想していたとはいえ、改めて聞かされると気持ちが動転しそうになる。
「レルシア派の女の天使が色々嗅ぎ回ってるから調べろってね。結局、エスメラルダは協会なしにはやっていけねぇのさ。――建前と本音は天と地ほどの差があるから……」
「エスメラルダは協会の経済支援がないと破産してしまいますから……」
「わたしはそれをやめると言っているわけではないのですけど」
「ですが、現教皇のいるシオーネ派の大きさに比べたらわたしたちのレルシア派など」
「頼りないってこと。詰まるところ国王はレルシア派との接触がばれ、シオーネの機嫌を損ねるのが怖いのさ。あれにどっちが正しいかなんて問題じゃねぇんだ。強いて言うなら金が正しい」
 イクシオンは寄りかかった柱をあとにして、シェイラルと玲於那に歩み寄った。
「ただ、わたしはジングリッドの無茶を止めて欲しい。……シオーネさまは彼の傀儡みたいになってしまってるし。枢機卿はジングリッドと手を結んでいる。そうしたら、わたしたちはエスメラルダに頼るほかない……」
 玲於那の意見を聞いてイクシオンは面倒くさそうに頭をボリボリと掻いた。
「おおっぴらには動けねぇが……魔法騎士団を秘密裏になら少しくらいは……」
「無理はしないで。自分で勝ち得たポジションを大切にしなさい」真顔で玲於那は言った。
「――俺の地位でテレネンセスが生き残るなら安いもんだと思うけどね」
 と、イクシオンがポツンと漏らすと、玲於那のキッとした鋭い視線がイクシオンに向いた。
「滅多なことでそんなことを言ってはいけません」
「でも、玲於那だけにそんなことさせるわけにはいかねぇだろ」
「……イクシオンは優しいですね。ですが……、いつかその優しすぎる優しさがあなたに仇なす日が来てしまいますよ……。もっと、使いどころを選ばないと」
 玲於那はつとイクシオンに歩み寄って、その頬を愛おしげにそっと撫でた。
「へっ! そんなこたぁ判ってるさ。けど、俺は玲於那が思ってるほど優しくはねぇよ」
 そう言ったイクシオンの瞳は何故かとっても淋しそうだった。
(……そうだったら、レルシアを傷つけてしまうことはなかったのに――)

「……結局、それは失敗したのですけどね……。玲於那は消され、イクシオンは魔法騎士団を追放処分。その後、イクシオンは協会に追われ、あなたの羽根の持ち主……久須那と出会った」
 申の知らないところで色々なことが起きていた。自分は運命に引き寄せられた手駒の一つ? 一抹の淋しさを申は感じていた。
「不思議です……」申は手に取ったコップをゆらゆらと揺らしてその中を覗き込んでいた。「たったの三日前まではこのこととはなんの関わりもなかったはずなのに……。ジーゼとアルケミスタで会って、そこから急に始まって……」
 そして、気がついたら何だかよく判らないことになっていた。所期の目的はジーゼを安全に森まで送っていくこと。でも、それだけでは足りない。ジーゼに“天使兵団”のことを聞いてから申の行くべき道筋が変わってしまったのかもしれなかった。
「……まだ、戻れますよ……」悪魔の囁きのようなシェイラルの優しい口調が申に届いた。「このまま夜の明け切らぬうちにこの街をあとにしたら、みんな元の鞘に収まります……」
 しかし、それでいいんだろうか。微かな疑念が申の頭をかすめていった。
「俺は……」一瞬、口を結んだ。「何があってもジーゼを見放さないと心に誓ったんだ」
「そうでしたね――」
 それから、シェイラルと申は語る言葉をなくしてしまったかのように黙りこくっていた。壁掛け時計が静かに時を刻み、深夜の冷ややかな空気が二人の間を流れてゆく。静寂。けれど、沈黙が長引くほどに、微かに届く雨音がより存在感を増して聞こえ始める。
「このまま夜が明けなければいい」ショボンとしたように申は呟いた。
「ですが、やまない雨がないように明けない夜もない」
「判っていますよ。こんなことを思ったのは初めてです。何も変わらずに“今”がずっと続けばいいなんて考えたことはなかったのに……」
 それは申に秘やかに芽生えた思い。どっちの転んだとしても自分はもうジーゼの傍らにいることはない。カーテンの隙間から差し込んだか細い光のような予感が申にはあった。
「……俺はジーゼの精霊核を守るためにここに来た。それでいいんだ」
「――“扉”は恐らくジーゼの精霊核のあるところです。明日――」シェイラルは壁掛け時計を見やった。「今日で決着が付きます。でも、“鍵”が何なのかだけが未だに判らない」
「扉の場所はエルフの森なん・です・ね?」申は恐る恐るシェイラルに問うた。
「……そうです。あの森には昔から色々な言い伝えがありましてね……」
 手を組んだシェイラルの目が瞬間、フと遠くを向いた。
「女の子の色褪せぬ思い……。テレネンセスの人はみんなそう言います」
「『女の子の色褪せぬ思い』?」申は無意識のうちに問い返していた。
「一人の魔術師とエルフの森にあったとされる……いえ、森が枯野だったころにあった館とそこを訪れた剣士と女の子の使用人の物語。森のジーゼの誕生秘話とも重なるとも聞きますし――」
「でも、もうそんなことは関係ないんでしょう? ジーゼの森がなんだったとしても天使たちは来るんだ。帰りたい。帰れない。十何年もの間、思い描いた強烈な意志は簡単に潰せないんだから」
 すると、シェイラルは呆気にとられたように申を見詰めていた。儚く頼りなげに見えていた申の姿がその言葉を切っ掛けにして少しだけ頼もしく見え始めた。
「……申の役割はジーゼの精霊核を守ることではありません。あれは他の精霊核とは違って特別なんです。そして、邪念を持つものは精霊核を見ることも触れることもできない」
 シェイラルの瞳が閃いた。いや、少なくともその場に居合わせた申にはそう映っていた。
「鍵は純心です。しかし、異界への扉を開くためにはマスターキーでなければなりません。そこまではわたしと玲於那が調べをつけましたよ」シェイラルは慎ましやかに微笑んだ。
「純心……」ぼうっとしたように申は繰り返す。
「ええ、ですから、申が行けばきっとクリスタルのようなジーゼの巨大で緑の精霊核を見られるでしょうね――」
 それはどんななのだろう。クリスタルのようでクリスタルではない。実体があるようでない。なさそうである。人間の身長よりも遙かに大きくて、脈動する暖かい輝きを放つもの。アルケミスタの牧師に聞いた、噂で申の耳に届いたそれはどんなものなのだろう。
「シェイラルさん、も、少し、具体的にヒントはないのですか……?」
「レルシアの調べた一説ではウィル・オ・ザ・ウィスプ……光の精霊だという話ですが、何とも」
「俺、精霊の話には疎くて、よく判らないんだけど……?」
「正直なところわたしにもよく判りません」シェイラルは手を組んで静かに首を振っていた。
 それから、シェイラルはおもむろに立ち上がるとダイニングの隅にある小さな窓のカーテンをざぁっと開け放った。未だに雨は上がらずに、ぴちぴちと窓を打っていた。
「ただ、これだけは判っています。『独特の輝き』を持った天使を召喚したのはわたしと家族。だから、最初に言ったのですよ。この教会から始まったのだと……」
 雷光が閃き、シェイラルの横顔が淡い黄色に照らし出された。十秒もしないうちにはドォンと言う地響きかと思うような雷鳴がテレネンセスを襲っていた。
 申はごくりと唾を飲んだ。だけど、すっかり口の中なんて乾いてしまって唾も出ない。
「あ、あの、水か何か飲むものを……」
「いいですよ」シェイラルは窓際を離れて水をくみに歩いた。
 申はシェイラルからコップを受け取って一気に水を飲み干すと喋った。
「最後にまだ聞きたいんだけど、天使たちが帰ろうとすることは悪いことなんですか?」
「いいえ」シェイラルは首を横に振って否定すると、元いた自分の席に戻った。「わたしは彼らが帰ることを否定しているのではありません。ただ、そのやり方に問題があると思うのです。エスメラルダ政府は見て見ぬ振りを決め込み、そうしたら誰が止めるのです?」
 シェイラルは言葉を切り、申をじっと見詰めた。
「でも、天使たちが郷愁を感じて帰りたく思うのを誰も止められない」
「それは止めようとは思いません。玲於那もわたしもみんな同じ考えでした。ですが、申。考えたことはありますか?」シェイラルの目がにわかに険しさを増してきた。
「何を……ですか?」ドキリとしてシェイラルの空気に気圧されそうになる。
「ジーゼの精霊核が破壊され、他の精霊核のエネルギーが開放されたあとのこと。天使たちは願いを成就するでしょう。しかし、リテールは開放されあたりに充満した精霊核の力を求めた魔物の巣窟に変貌してしまうでしょうね。――人の勝手で天使は呼ばれた。しかし、それは彼らがリテールを崩壊させていい理由にはならない……。判りますね」
「はぁ……」申には何か釈然としないものがあった。
 人の勝手で天使が呼ばれ、人の勝手に使役されるのなら、天使の勝手でどんな手段を講じて異界に帰ろうとしても人に咎める権利はない。申はそんな気持ちがしないでもなかった。でも、ジーゼにこれから先もずっとこのリテールにいてもらうためには止めるほかない。
 異邦人としてリテールに来た申には天使たちの気持ちが判らなくもなかった。
「でも、俺、ジーゼに、ずっと、いて欲しいから……」
 シェイラルはクスリとして、申に暖かい眼差しを送っていた。
「久須那の羽根を貸しなさい……。これに魔力をかけてやれば……。彼女の行く先々を指してくれるでしょう……。ジーゼはフクザツかもしれませんけどね」
「淡いけどオレンジ色の光が見える……」
「久須那に近づけば近づくほどもっと強く輝くはずです。夜が明ければ、彼らも森に戻ってくるはずです。そして、久須那とイクシオンに会いなさい」
「シェイラルさんは……?」
「わたしは……この街に結界を張ります。こうなってしまったからにはただでは済まないのですよ。……さぁ、もう休みましょう。ゆっくりと休める夜は今日で……最後です……」
 シェイラルの最後の言葉が申の耳の奥に張り付いて離れなかった。どんな強い魔物と戦ったときもこんな絶望的な気持ちを抱えたことはなかったのに。今夜は何故だか違っていた。はやりとも焦りとも似付かないおかしな気持ち。まるで、山奥の廃屋に一人で取り残されたような不安感?
「お休みなさい、申。きっと、明日は晴れますよ。そう言う予感がするんです……」
 帰りたい。帰れない。そう、そうやって申の戻れない旅路は始まった。