12の精霊核

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14. forfeit tomorrow(なくした未来)

 その夜。『明日、会いに行こう』と言ったのに、結局、申はそれから朝までの無為な時間を耐えきれなかった。椅子やベッドに腰掛けているとお尻がムズムズとしてきて座っていられない。ジーゼの容態は落ち着いているから大丈夫。ここまで来てそれほど慌てることもないと思う。 
 けど、申の知りたいことは風船のようにだんだん大きくなって破裂してしまいそうだった。いっそのことこのまま飛び出して、協会の司祭を質問攻めにしてしまいたい。しかし、同時に知ることへの怖さが同居し始めていた。今ならまだ、ジーゼを置いて所期の目的に戻ることもできる。申は二つの相容れぬ 思いを抱き難しい顔をしながら部屋をぐるぐる回っていた。 
(ジーゼと母さん……。二人がどこかでつながっていたら……) 
 そんなに都合のいいことはないと思うも、申の頭を掠めていった。 
「申……。教会に行ってみよう? わたしもまだ聞きたいことがあるし……」 
 ベッドに座ったジーゼは部屋の隅から隅まで行ったり来たりしている申を見ていると何だかとても可哀相に感じていた。はやる気持ちを抑えているその様子を見ていると。 
「でも、ジーゼは……」 
「……」ジーゼは瞳を閉じて、そっと首を横に振った。「わたしは申に色々してもらったよ。 だから、今度は申の番。森の近くに来たら、もう大丈夫だから。エルダが守ってくれる」 
 ジーゼにそこまで言われると申は逆に困ってしまった。ジーゼのことも心配なのに、自分の好奇心も抑えられない。しかも、それは本来、自分が追うべきものではないはずだった。頭を抱えて困惑した色の申の瞳がジーゼを向いた。 
「行こう?」慎ましやかな微笑みが申の心の迷いを揺さぶる。 
 知らなければ平穏無事にこれからを過ごせるような気持ちがした。けれど、『協会』をホントの意味で知ってしまったらどうなるんだろう。結局は知りたいけれど、知ることへの不安が先に立っていた。深く関わりを持ってしまったら。それでも知りたい。けど、自分でも不可解なくらいに、そうまるで本能が拒絶しているかのように、足が凍り付いていた。 
「申……。隣に座って……」ジーゼは申の瞳を真摯に見つめて右手でベッドをポンと叩いた。 
 申は言われるがままにベッドに腰を下ろす。 
「何をそんなに怖がっているの?」優しい口調が胸に痛い。 
「怖い?」しょぼくれた口調。「……怖いのかもしれない。俺が知ったどんな恐怖よりも怖い。手強い魔物に挑むときより、手負いに襲われる……? そんなんじゃない。ちくしょう、何でなんだ? 知りたい、けど、そのつもりで、ジーゼと一緒に」 
 ジーゼは申の頭をそっと抱き寄せると囁いた。 
「森はもうすぐそこ、だから、無意識のうちに安心したのね。王子さまの仕事の半分はおしまい。魔物も出ない、邪魔者もいない。と、したら、申の意志が最優先されるの……。きっと、申は迷ってる。魔物退治に迷いはいらない。でも、この先、申は知る知らないで大きな差があることを判っている。だから、迷うの。この先はホントに申の自由。わたしは……関係ない――」 
 このときばかりは、年上になんて思えなくて自分よりも幼いと思えたジーゼがやけに大人びて見いていた。森の奥に住む、思慮深きに森の番人。申が二日過ごしたどのジーゼよりも優しく凛々しくて、儚かった。 
「好奇心」ポツンと申は言った、「キミがゴロツキに襲われたわけ、牧師が迫り、キミの森やこの街、キミの捜すサムってやつが『協会』の天使に襲われたり、追われたりする理由。そして、久須那や玲於那が何者で、どうしてテレネンセスなのか知りたい」 
「フフッ!」楽しげにジーゼは笑った。「何だか、この間のわたしみたい」 
「この間のジーゼ?」 
「そう……」ジーゼは足をパタパタとさせた。「だから、行こう? 謎ははらすためにある」 
「この期に及んで、くよくよ悩むのはらしくないな」 
「そ、最後まで申は、申らしくいてほしいの」ジーゼは微笑んでいた。「そう言う申を司祭さまも待ってるはずだから今から行ってみよう?」 
「うん」 
 ジーゼに説得されて申は立ち上がった。何がどうなったとしても全部聞いてしまえばいい。それから先のことは後で考えたらいいことなんだ。ちょっとだけ前向きになって申は思う。そう考え出すと、行動は早い。申はトレードマークとも言える薬箱を背負い、ジーゼを伴い、ついでに薬箱の上に半分眠りこけたちゃっきーを乗っけて宿を出た。 
(……俺は……揺るぎない信念を持ってジーゼを信じる。それでいいんだね――) 

 その後、申は宿兼飲食店のお兄さんに教会の場所を聞いて、そこを目指した。街は相変わらずの雨だけど、行く先が見えていればジーゼとの相合い傘もちと楽しい。
「へいっ! ターバン巻き巻きクソボーズ! ジーゼちゃまと密着だなんて百年はぇ〜ぜ!」
 ちゃっきーが目を覚ましたらしくて、頭の後ろから遠慮のない大声が届く。
「み? そ、そ、そんなことはぁ……。はは、今更、恥ずかしがることもないか……な?」
「あら? そおしたら、抱き付いちゃおうかしら?」朗らかな笑み。
「あ〜、そら、やめておいた方が無難だわさ。この前みたいにひっくり返ったらど〜しよ!」
「それもそうよねぇ」瞳だけ上を向いて、口元は楽しげに思わずほころぶ。
「そんなことはないよ。少なくても、き、気絶はしないぞ」
「え〜っ、信用できな〜い」ちゃっきーが薬箱の上でポヨンポヨンと跳ねながら茶々を入れる。
 と、申は立ち止まった。通りの向こうに教会が見える。薄暗がりに教会の窓から漏れるランプの温もりのある光が申の心に染み渡った。
「ここが、テレネンセスの教会。ジーゼの大好きな司祭さまのいる?」申は振り返ってニコリ。
「嫌いじゃないけど、とぉってもに・が・て・なのよ。判る?」
「判んね!」
 即答。そして、その瞬間、ムカッとした表情を見せるジーゼをよそに申は礼拝堂の扉にノックをしていた。トントン。ノックの乾いた音が礼拝堂にこだましているようだった。けれど、答えはなく、沈黙が返ってきた。申はしばらく待って、またノックをしてみる。でも、静けさが胸に染み入るばかりで教会にいるだろう司祭からの返事は一切なかった。
「Hey!! boy! ここはいっちょ、勇気を出して扉なんて蹴っ散らかして飛び込もうぜ!」
「俺はそんなに野性的じゃあないんだけどね」申は苦笑して答えた。
 ドンドン。今度はちょっと強めにノックしてみた。けれど、返ってくるのは静寂ばかり。
「すみません……。どなたかいらっしゃいませんか……?」
 アルケミスタの牧師にもらったウンディーネの精霊核の欠けらをギュッと握り締めて囁いた。
「誰もいないのですか?」
 申は扉を引いてみた。鍵はかかっていない。錆びついたような蝶番が嫌な音を立てて扉が開いた。礼拝堂はものけの空。あちらこちらにしっかりと人の手が行き届いているにも関わらず、肝心の人が見当たらない。
「シェイラルさん……? 森のジーゼです。覚えていますか……」
 あの時、最初に声をかけてきたのはシェイラルだった。銀縁眼鏡と小綺麗にまとめ上げられた髪の毛がやけに印象に残っていた。柔和なほほ笑み。暖かい慈愛に満ちた瞳。
「ジーゼ――ですか?」
 聞き覚えのある落ち着いた雰囲気の言葉が返ってきてジーゼはほっと安心した。教会の司祭さまだとは聞いた覚えはあったけれど、もし間違っていたらと不安だったのだ。
「あっ、はい! ジーゼです」
「良かった……。あのまま帰ってこなかったらどうしようかと」
 と、礼拝堂の奥に続く扉が開いて、シェイラルが姿を現した。申には初めて見るシェイラルの姿。にこやかな表情と銀縁の眼鏡、よく見る黒装束。でも、アルケミスタの牧師とは雰囲気が明らかに異なっていることを申は感じていた。
「え? それは……」ジーゼは身を乗り出してシェイラルに尋ねようとした。
「……イクシオンと久須那がここに来ましたよ。たった昨日の朝まで……」
 シェイラルはそっと呟くように言った。
「そんなぁ」シェイラルの言葉を聞いて、ジーゼは力なくぺたんと床に座り込んでしまった。
「すれ違い……か。で、その二人はどこに向かったんですか」
「あなたは……?」今初めて気がついたというかのようにシェイラルは申に向き直った。
「あっ、失礼しました」申は慌ててお辞儀をした。「サラフィの申です」
「あなたは……」シェイラルはホンのちょっとの間、申を観察した。「退魔師ですね。この辺りは魔物も少ない。薬売りだけでは生計を立てるのは難しいと思いますが、何故、ここまで……」
 シェイラルの言うことはもっともだった。リテール界隈はジーゼの精霊核の影響を受けて、他地域に出没するような凶悪な魔物はほとんど生息していなかった。
「……アルケミスタの牧師より随分鋭いんだ……」
 すると、シェイラルはそれほどでもと言いたそうに静かに首を横に振った。
「彼とのことはあまり思い出したくありませんね……」苦笑まじりにため息をつく。
「……確か、向こうも同じようなことを言っていたな……」申は思い出しながら言う。「でも、それはいいんだ。それより、二人がどこに行ったのか教えて欲しい」
 シェイラルは真意を推し量るかのように申の瞳を見詰めて押し黙っていた。ジーゼと共にやって来た退魔師は信用に値するのか。サラフィは協会の教区には入っていない。けれど、近ごろ、協会は勢力拡大に躍起になっているから。
「……ジーゼの信用した方です。わたしもあなたを信用しましょう。そう、イクシオンと久須那の行く先でしたね? それは――シメオンです」
「シメオン? どおしてまたそんな遠いところに?」
「どうしてでしょうね? ともかく、今日はお疲れでしょう。もうだいぶん遅いですし、その話はまた明日と言うことで……」
 核心を聞く前に強引に話を切り上げられてしまった。申は釈然としなかった。けれど、シェイラルがジーゼには聞かれたくないこともあると言いたげに目配せして見せたので黙って従った。
「じゃあ……そおしましょうか?」申は言葉尻をあわせた。
「い・い・え! そんなんじゃ、わたしは納得できません」
 ジーゼは身体の真正面で腕を組んでぷんぷんとお怒りのポーズ。
「しょのとおり! 自称・情報通のおいりゃとしてはサムっちの行動、一挙一動について知らぬことがあっては示しがつきましぇん!」
「お前は別にどうでもいいんだ。と言うか、それは情報通じゃなくてストーカー? だろ」
「あ〜ら♪ 奥たまったら、人聞きの悪い。追っかけと言ってくださる?」
「もお、いいよ。どおでも」
 申は呆れたようにため息をついた。その向かい側でシェイラルは少しだけ考える素振りを見せていた。それはジーゼには詳しく教えたくないと言う密やかな思いの現れだったのかもしれない。
「イクシオンはレルシアに会いに行きました。知っていますね……? ジーゼ」
「あ……う――」思い出せ、遠い過去の頼りない記憶の中を。「レルシア――?」

『ジ〜ゼ〜。……ジーゼはどうしてずっと、ずぅ〜っとこの森に住んでいるのぉ?』
『どうしてって、ここがわたしのおうちだからよ』
『え〜! 壁も屋根もないよ。雨が降ったらどうするの? 風が吹いたらどうなるの?』
『雨が降ったら木陰で雨宿り、風が吹いたらシルフの奏でる爽やかな旋律が流れるの……』 

「レルシア……サムといつも一緒にいた可愛らしい女の子?」 
「そうです。もっとも、今ではいいおばさんですけどね……」シェイラルはクスリとすると話を続けた。「イクシオンは協会内部で起こってる真相を見極めに行きました」 
「真相……。そしたら、それが終わったら、サムは帰ってきてくれる――?」 
 シェイラルはどこか変わったジーゼを感じていた。血気盛んに、意気揚々としていたジーゼが見えない。シェイラルの昔知っていたジーゼは確かにおしとやかだったけど、元気だった。 
(イクシオン。どうして、エルフの森に行ってしまったのですか。過去の思いににジーゼが苦しめられている。ジーゼがイクシオンを束縛し、その逆もあり得ないようにジーゼとわたしはレルシアとあなたの記憶を封じ、ジーゼは自らの思い出を封じた) 
「どうしたんですか、司祭さま」ジーゼのくるくる閃く瞳がシェイラルを見つめた。 
(そして、わたしはどうして、見つけてくれと……) 
「シェイラルさん?」申が銀縁眼鏡の奥を心配そうに覗き込んでいた。 
「あ、あぁ……失礼しました。今晩はこちらに泊まりなさい。お部屋を用意しますよ」 
「でも、俺たち、近くに宿を取ってあるから……明日、出直しますよ?」 
「いいえ」シェイラルは瞳を閉じて首を左右に振った。「お宿にはわたしの方から連絡を入れておきますのでどうぞこちらで……。遠慮なさらずに」 
 そう言ったシェイラルの瞳が意味ありげに申の眼を捕らえていた。それは「話はこれだけなじゃない」と訴えているかのようだった。 

* 

 夜遅く申は眠れないで起きていた。もしかすると、サムもこの窓から同じ景色を眺めていたのかもしれない。どんどんジーゼの思い人に近づいてゆく。それにつれて苦しくなってくる心の内は何なのだろうと申は思った。サムと会えなければいい。いつの間にかそんな思いが芽生えている自分に申は気がついていた。 
 トントン……。静かに扉がノックされた。申は窓際から離れて戸口に向かう。 
「あ、はい。司祭さま?」 
「ジーゼは休みましたか……?」 
 部屋の奥を見やるとタオルケットと毛布をかぶってジーゼは丸くなっていた。ついでにちゃっきーはその上で小さな大の字を描いて高いびき。 
「え? ええ」ちょっと驚いて、目を白黒させた。 
「では、申君。少々、ダイニングまでおつきあい願えませんか?」 
「えぇ? 別にその、構いませんけど……?」 
 きっと不思議そうな表情でシェイラルを見たのに違いない。 
「あ……、それから、久須那の羽根……忘れないでくださいね……」 
「ど、どうしてそのことを知っているんですか?」シェイラルにまだ話した覚えはなかった。 
「気付きませんでしたか? 天使はそれぞれ独特の輝きを持っています。大抵は、未成熟な召還術のために剥ぎ取られてしまうのですけど、久須那は薄いオレンジ色の輝きを持っていました。玲於那以外にそんな天使はそう……二人目ですか――。ジングリッドと久須那」 
「玲於那」その名は一度、アルケミスタで聞いたことがあった。でもジングリッドとは。「ジングリッドとはどなたですか?」 
「……今に判ります」シェイラルは申の問いにそうとだけ答えた。 
 二階から階段を下りて、シェイラルはシズシズとダイニングに向かい、申はそれに黙って従った。一階の廊下は小さな教会だけにそれほど長くもない。それなのに申はダイニングなどどこにあるのか判らないようなささやかな迷宮に迷い込んだ錯覚にもとらわれた。 
「――一説によるとあの娘が森に生まれたのは二百十二年前だと言います」呟きだった。 
「え?」どうして急にそんなことを言い出したのか、申には理解しがたいものがあった。 
「テレネンセスが小さな集落として成立したのはそれより百年ほど昔。フフ、どうしてあなたにこんなことを話したくなったのでしょうね……」微かな微笑みをもらしてシェイラルは言った。 
「……」無論、申に答えられるはずもなく黙りこくっていた。 
「それに比べ、人の世は何故、こんなに早く移ろってゆくのでしょう……。協会が設立されたのはあの娘が生まれたずっとあとのことだというのに」 
 廊下の向こうの扉から薄橙色の明かりが漏れていた。シェイラルが扉を開けると、テーブルの上に飲みかけの果 実酒があった。申を呼びに行くまでに色々と思うとこがあったらしい。 
「さあ、そちらの席にどうぞ。今、何か……」 
「いえ、結構です。何もいりません……」トスンと椅子に座って申は言った。 
「そうですか?」 
 シェイラルは申の反対側の席に腰を下ろした。それから、例えようもないくらい重苦しい雰囲気が二人の間に流れた。シェイラルは何から切り出したものかと考え、申はもやもやと漠然とした質問をどうぶつけたものかと考えあぐねていた。 
「申君……」ずっとテーブルを見ていたシェイラルの瞳が申を真剣な眼差しで見詰めていた。「明日……もうあてにはなりませんが、リテール最強と言われる協会十二天使――ジングリッド天使長の天使兵団が森に来ます。申は……申はそこで生き残る自信がありますか……?」 
 申はごくりと唾を飲んだ。死地に赴くようなときに死ぬ覚悟はあるかと言われても、そんなことを言われたことはなかった。死ぬ より生き残るほうが格段に難しい相手なのに。 
「その自信がないのなら、去りなさい」 
「いや、ここまで来たんだ、最後まで付き合うよ。何があってもジーゼをサムに会わせるって」 
「約束……したんですね」シェイラルは健やかに微笑んだ。 
「約束したんだ。絶対に破れない約束なんだ」 
「――それは……命を懸けるに値する約束ですか?」 
 凛とした口調で意外なことを問われたような気持ちが申はした。申には、シェイラルの言葉が大した約束ではないのなら破ってしまえと言っているように思えたのだ。 
「つまり、あの、その……え?」思わず訝しげな視線をシェイラルに向けてしまう。 
「そう言うことです。あなたの思ったとおり……」 
「でも、ジーゼとの約束は至上なんだ」 
「そうですか……。」シェイラルの瞳はホンの少しだけ淋しさの色を湛えていた。「ならば、仕方がありません。仕方がありませんね……」まるで自分に言い聞かせているかのようだった。「約束を果 たすため、エルフの森へ行くのなら、寄るのなら、イクシオンに会うのなら、申にはことの経緯を知る権利があるのかもしれません……」 
 シェイラルは立ち上がってコップに水をくんで戻ってきた。それからまた長い沈黙。教会のささやかなダイニングには申とシェイラルの息づかいだけがあった。その静かさを破って口を開いたのは申だった。 
「俺は知りたいんです。どうしても、ジーゼを連れてここまで来て、判らないことがいっぱい出てきたんです。別 に俺が知らなくてもいいことだとは思っています。でも……」 
「……申は知りたいと言った。何を知りたいのですか?」 
 知る権利があると言われ、改めて問われて、申はしばし返答に窮してしまった。 
「ありとあらゆることを全部。ジーゼのことも、精霊狩りのことも」申はひと呼吸置いた。「一番知りたいのは……どうして始まったのか……?」 
「何が……ですか?」シェイラルの視線がちょっとだけ厳しさを増した。 
「よくは判らないよ。でも、理由もなくこんなことが始まっていいはずがないから」 
「そうですね。そうです……」シェイラルの銀縁眼鏡の奥で瞳が淋しさ色に沈んでいた。「始まりは……この街にあります。この教会にあります……。聞きますか、申」 
 それはまるで聞いてしまえばお終いなんだと言いたげだった。申はごくっと唾を飲む。ちょっとした葛藤。全く見知らぬ 街に一歩踏み入れる前の、凶悪な魔物とやり合う直前のような奇妙な葛藤だった。避けられそう。だけど、避けられないように決定づけられた何かのように。 
「あ……」緊張のあまりに喉が乾いた。「き、聞いてみたいです……」 
「そうですか……」カタンと手に握ったままのコップをテーブルに置いた。「では、最後にもう一度だけ問います」シェイラルの真っ直ぐな眼差しが申を捕らえていた。「この戦い、生き残る自信はありますね?」 
 申は無言で頷いた。これできっとサラフィには帰れなくなる。そんな密やかな想念が頭をかすめていったのも確かなことだった。 
「判りました……。では、最初からお話ししましょう。最初から――」 
 シェイラルは遠い眼差しをして天井をぼんやりと眺めながら話し始めた。