12の精霊核

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32. only there is advance(前進あるのみ)

「マリスがサムの家を知ってるなんてどういうことですか?」
 デュレの憤りは限界を遙かに通り越えて、爆発寸前。その気持ちを強靱な自制心で何とか抑え付けて、それでも、リボンに食ってかかっていた。
「どういうことかと聞かれても、オレには答えようがない」
 リボンは面目なさそうに目を伏せて、デュレの怒り顔を見まいと努めていた。時々、フと上目遣いにデュレを見れば、仁王立ちする大魔神のよう。現、精霊王のリボンの面目も丸つぶれなくらいの威厳とオーラを放っていた。
「……頼むから、あとでマリスに聞いてくれ」半分泣き言になってしまう。
「そんなことが出来るなら、とっくに聞いてますっ!」
「……デュレぇ。そんなに本気で怒ったら、リボンちゃんが可哀想だから」
「哀れむなら、わたしを哀れんでください」デュレは近くにあった椅子を引き寄せて、ドカッと腰を下ろすと頭を抱えた。「全く、このメンバーで何をどうしろと言うんですか……」
「あ〜ら、聞き捨てならないわねぇ」迷夢がデュレにすり寄ってきた。
「あなたがっ! その筆頭なんだから、お願いしますよ?」
「あたしがその筆頭なんだ♪」迷夢は心から嬉しそうに二パッとした。
「アルタの指定した日まで丸二日もないのに。これじゃ、何も準備できない」
「――待つ必要はないんだぞ。何なら、今すぐ、地下墓地の大回廊に行っても構わないんだ。相手のペースに乗ってやる必要はない。あの連中を出し抜けるなら出し抜いた方がオレたちに少しでも有利に事を運べるかもしれない」
「けど、何で、誰も来ないようなテレネンセス教会の祭壇にメモ書きを残したんだろう。だってさ、あんなところに置いても、デュレが見つけられなかった可能性だって考えられるでしょ?」
「けど、こうして見つけています」
 デュレはポケットから例の紙切れを取り出して、セレスに見せつけた。そして。
「リボンちゃん、あなたはこの意味を知っていますね?」
「……知らない」リボンが言う。
 けど、それは明らかに何があるかを知っている口振りだった。セレスから目を離した視線が再びセレスに戻ることはない。左右にふらつき、床を見詰め、それからセレスの足下に固定した。
「近頃のリボンちゃんってホント、判りやすいよね……。隠さなくてもいいんだよ。……あたしなら、大丈夫。何を聞いてももう、驚かないから」
 柔和な表情でセレスに言われ、逆にリボンが戸惑った。
「……Gemini 24……。バッシュが死んだ日だ」
「じゃあ、今日、バッシュがエルフの森に行ってるのは? それに関係があるの?」
「あるような、ないような……。だが、オレとバッシュが話をした最後の日……」
「最後の日……。……あたしはもぉ、会えないかもしれないんだ……」セレスは力無くストンと椅子に座り込んだ。「と、父さんは、アルタは何をしてるの? どうしてるの?」
 今まで記憶の彼方に埋没していた父・アルタの存在を思い出して、リボンに問う。
「アルタか……。あいつはあいつで色々方策を練っているようだった。セレスが……そうしたいと願うなら、セレスとアルタの道筋は再び交錯する。案ずることはない」
 しかし、リボンはそれ以上のことは言わなかった。セレスの欲しかったリボンの言葉はそんなことではなかった。結果、バッシュがどうなるのかを知りたかった。
「母さん……」
 そして、とても間の悪い沈黙。訊きたいことも、喋りたいこともたくさんあったけど、喋り出すタイミングを逃してしまった。重苦しい空気。でも、これを壊してしまったら、何故か、セレスの思いを無下にしてるような気がして、声を出すことさえはばかられた。ニコニコしていた迷夢でさえ、感化されたかのようにひどく淋しそうに佇んでいた。
 その沈黙を破ったのはデュレだった。
「リボンちゃん、迷夢、シェラさん。……そして、セレス。聞いてください」
「……はん、あたしが最後かい」セレスが少し拗ねたかのように文句を言った。
「順番なんかどうだっていいでしょ」デュレはいつもの癖で思わずセレスに喰ってかかった。「……いえ、今は言い争いをしてる場合じゃありませんでした。セレスもいいですね? 生きて帰れたらいつだって口げんかなんて出来るんだから、今は我慢しなさい」
「……へ〜いぃ……」
「――困ったちゃん」ちょっとだけ口元を綻ばせ微笑むと、次にはキリリと引き締まった表情に戻っていた。「久須那の封印を解きたいと思います――」
 静かな震える口調でデュレが発言すると、小さな集団は緊張に包まれた。
「デュレ、今、何て言った? イヤ、聞き間違いではないよな?」デュレは頷いていた。「判ってるのか? 久須那の封印を解くのはここじゃない」
「リボンちゃんは向こうでことの顛末をて知ってるかもしれない。けど、あなたは今、この瞬間を見ていない。何が起きたかなんて知らないはずです……」
「う、く、しかし――」気圧されて言葉にすらならない。
「判っています。そんなこと。でも、例え失敗してもやらなくちゃならないと思うんです」
 向こうで封印が解かれると言うことはすなわち、ここでは封印が解けないか、手さえ触れられないことを暗示していた。しかし、マリスやその一味にされるがままにされ、ただ去らねばならないなんてデュレにはとうてい出来そうもない相談だった。
「――失敗するとどんなことになるのか、お前は判っていない……」
 リボンは重苦しい口調で感情を押し殺したような平坦さで喋っていた。
「いいえ、判っているつもりです」
「練習のために呪文を詠唱することさえ許されない禁呪なんだぞ。呪文を暗記し、ぶっつけ本番、しくじったら命はない。それだけ危険な代物なのに、デュレは何故、そんな簡単に……」
「簡単では……ないですよ……。ずっと、考えていました」
 そして、それから先を話すべきかどうか迷った。話そうと思考の淵に上ったことは歴史学の学説の中でもかなり胡散臭い部類に入る。しかし、俗説……占い、予言書。そう言った意味では世間一般にかなり浸透している事実でもあった。
「リボンちゃんは……神々の日記帳……純白の年代記を知っていますか? 白亜の装丁、白い紙に白い文字。その古さから考えると純白の紙なんて存在しない時代のもののはずなのに。白いインクだってあるはずがない。だけど、存在してると確認されたという説もある数十冊の書物――」
「知ってるのは知ってるが……」リボンはひどく胡乱そうに言う。「そんなものはデタラメだと否定する学派の方が多数を占めてるんじゃなかったか?」
「そうです。けど、一概に否定は出来ないと思いませんか?」
「はいっ! あたしは知りません」はいはいっとセレスは騒ぎ立てた。
「セレスはどうだっていいんです。黙ってなさい」デュレはキッとセレスを睨み付けた。
「……ちぇ、面白そうだし、キミをいじればちょっとは気が紛れるかと思ったのに」
「白い紙に白い文字で綴られる」デュレはセレスを無視した。
「それってただの白紙じゃん?」無意識のうちに対抗意識を燃やしてポロッと零れ落ちた。
「茶々は入れない」デュレはセレスの頬を引っ張ってつねる。「ホントの白って訳じゃないのよ。木炭の粉をまぶすとか、偏光レンズを使うと読めるんだけど……」
「それで知ることが出来るのは本当の歴史ではない」リボンが続けた。
「ええ、それすらも本当かウソか判らないんですけど、魔法で封じられているらしいです。選ばれし者……クロニカルと呼ばれる一部の民しか、読み解くことは出来ないと――」
 デュレはキュッと手を握ってリボンを見澄ました。あまりに根拠のないことを口に出すと居心地が良くない。それなりに理論が実証された物事でないと、いまいち気分がよろしくない。デュレはリボンの出方を待って、黙っていた。すると、リボンはフッと口元をほころばせた。
「デュレが言いたいのは神々の日記帳、そのもののことではないな。……空白の二百年と呼ばれるやつか。今年1292年から1498年までの二百六年間――デュレの誕生年までの空白か……。できすぎてるよな」上目遣いにデュレを除く。「それと1516年以降。数十万ページ、数十冊に及ぶ日記帳の二カ所の空白の一つ。それだろ……。お前は胡散臭いと言いつつも、神々の日記帳の存在とその内容を信じている。……何を見つけた? 何をそこから読み取った?」
 リボンとデュレは互いの考えを確認しあうかのように瞳の奥底を見つめ合う。
「その空白がわたしたちの未来――。どうしてか、判らないけど。そんな気がするんです」
 デュレはリボンを見澄ました。リボンはただそれを受け止め、しばらく、二人は見つめ合う。そして、デュレは確信した。リボンは最初からその理由を知っている。デュレはリボンの瞳の奥を貫き通して、リボンの様々な思いのほんの一部を垣間見れたような気がした。
「過ぎ去っているけど、過ぎ去っていない。その空白がそれを物語ってるような気がして……」
「神々の日記帳……とは言い得て妙だ」リボンは目を閉じて感慨深げに言った。
「と、考えるとセレスの日記帳も十分すぎるくらいに年代記ですよね?」
 日記帳という言葉をキーワードにして突然、デュレは思い出した。
「あ。な、何で、あたしが日記を付けてるのを知ってるの? は、恥ずかしいから、内緒にしてるのに……」セレスは虚をつかれてしどろもどろになった。
「あなたの隠し事なんて、隠し事になってません。バレバレなんです。何もかも。……でも、あなたのそう言うところが好きですよ」少しだけ、クスリ。
「う……なぁ……。急にそんなことを言われると、心の準備が……」
 セレスは期せずしてうなじまで真っ赤になった。デュレが優しそうにセレスを扱うことは滅多になく、セレス自身はそんなデュレに慣れていない。デュレもセレスが真っ赤になるなんてたまにしか見ない光景で、ある種の新鮮味を感じていた。そんなセレスが愛おしくもあり、時々、自分でもコントロールできないくらいに憎々しく感じることもあった。
 そして、デュレは大きく息を吸った。
「大聖堂の地下室に行きます。この試みがどうあっても失敗するというなら、……これが予行演習です。本番で絶対にミスを犯さないための。わたしたちの行動はわたしたちがそれと知らないだけで、予定調和の一部かもしれません。しかし、そうだとしたら……。いえ、だからこそ、やらなくてはならないんです。歴史的には過去かもしれない、でも、ここはわたしたちには未来です」
 デュレは熱弁をふるう。セレスはやはり、ちんぷんかんぷんそうに聞き流し、迷夢、シェラとリボンは興味深げにデュレの話を聞いていた。
「セレスは……来てくれますよね? 来てくれないとお話にならないです……」
 デュレはセレスに向き直ると、怖ず怖ずとした様子で言った。拒否されるとは思わない。けど、もしものことが脳裏をよぎる。
「もちろん、行くけどさ。――行かないって言っても有無を言わさずなんでしょ?」
「よく……判ってますね?」デュレは遠慮がちに声を潜めて言った。
「そりゃね。デュレとの付き合いも足かけ三年、もうすぐ丸三年になるしね」
「デュレ、こちらへ」シェラはデュレを呼んだ。
 デュレはコクンと頷くとシェラに歩み寄り、その椅子の前に膝をついた。シェラは探るようにしてデュレの右手を見つけ、そっとその手を取った。
「……運命はあなたの手のひらの上にあります。望めばそれを手にすることが出来、……握る時機を間違えれば手のひらから零れ落ちる――」シェラが言葉を切るとリボンが引き継いだ。
「しかし、ひとたび握れば運命がデュレを離さない。……この間、言ったな。来るべき運命の波打ち際にかくして小舟は辿り着き、始まりが始まる。今更、言うことでもないだろうが、始まりは終わったぞ。……久須那の封印に手を出すと言うことは終わりが始まると言うことだ」
 凛々しく、きつい眼差しがデュレに降り注ぐ。
「えぇ、判っています」デュレは毅然と言い放つ。
「……オレにはそれが予定調和なのか、出来上がった歴史を真っ向から否定するものかは判らない。ただ……」リボンはつと迷夢に視線を向けた。「あの時のあれはまだ決着を見ていない。厄介ごとを二つも抱え込むことになるぞ……、いや、三つか?」
 リボンの言葉にデュレはどうしても避けられない一つの事実があることに気がついた。空白の年代記を埋めるためには迷夢の思いを成就させなければならず、そのことはシメオンの壊滅を生み。いや、その壊滅はマリスが招いたことなのかもしれないが。その理由の如何に関わらず、シメオンが滅ばない限り、テレネンセスの奇跡とまで呼ばれた復興はない。
「お前は全ての面倒を見きれるか?」
「見きる必要なんかないんじゃないの?」不意に迷夢が言った。「これから巻き起こることが運命だというなら、切っ掛けだけを作ればあとは勝手に流れていく。水が低いところに流れていくようにね」いつになく真顔の迷夢にセレスは言い表しようのないショックを受けた。
「うぅ、ただのバカだと思ってたのに。あたしの方がただのバカ……」
「突然何を言い出すかと思えば……。セレスはセレスらしくあればいいんです。けど、どうしたら……。久須那を解放し、対マリスに備えるだけでは不十分。いつ、マリスが仕掛けてくるか判らないし……。それに異界との境界を守らなくてはならない。そして、シメオンはなくなる……」
 これ以上ないほどにデュレは困惑していた。自分たちの一挙手一投足が直接、未来を形作ると言っても過言でないない。その責務は途方もなく巨大な重石になってデュレの肩にのしかかる。
「何でもかんでも一人で背負い込もうとするな。オレたちがいる。とりあえず、お前はどうしたい」
「わたしは……成否は判りませんけど、久須那を封印から解き放ちたい……」
 今のやりとりで僅かに自信を削られたのか、デュレは囁くように思いを述べた。
「ならば、それが一番だ。次に迷夢の境界面増強策だな……。その前に、何だっけ? 光に住まう闇のなんちゃらに訊いておけよ。境界の崩壊がどこまで進んでるのか、正確に知る必要がある。優先順位を変更せざるを得ない状況に陥った時、知っていないと大変なことになる」
「うん、判った。ちゃんと訊いておくから安心して」
 一同の意志は固まった。自分たちが成すべきことを為す。ただその一点に尽きる。その結果に起こりうることを、ごちゃごちゃと論議していても時間がもったいない。それに、デュレは信じていた。未来は万人に開かれているものだと。過ぎ去ったはずの歴史の中に誰も知り得ない史実を創り上げる。胡散臭さでいっぱいと言っても“空白の二百六年”はデュレの心に微かな平安をもたらしていた。“小さな思い出”でさえ漏らすことなく記録されていると言われる日記帳の空白はそれだけで何も決まっていない、不確定だと言うことを示唆している。
「キミに異を唱える人はいないみたいよ?」セレスはちらりとデュレを見やる。
「決まれば、チームを作ります……。全員で乗り込むわけには……それにシェラさんが」
 デュレはちょっとばかり困ったように顔色を曇らせた。
「シェラはあたしに任せてよ」迷夢がニコニコとして言った。「アイネスタまで連れて行くわ。あの町なら、誰も注目していないし、暖かな田舎町だから……」
「――旧エスメラルダ王都か、見捨てられた町。……大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。あたしの知り合いがいるから……何、そこ、リボンちゃん♪」リボンは信用ならないと言いたげに湿気った眼差しを迷夢に向けていた。「あたしにだって美しい友情に彩られた交友関係だってあるのよ。そこにしばらく身を寄せたらいいと思って。大丈夫、信用できるって」
「本当か?」口先だけでは信用できない。
「本当だって。向こうもばあさんだから、気が合うんじゃないかなぁって……、あら?」セレス以外の三人は渋い眼差しで迷夢を睨んでいた。「あららっ? ごめん、他意はないの、あは♪」
 謝意があるのかどうなのか、判別しかねる朗らかさで迷夢は三人を拝み倒した。しかし、
「迷夢に知り合いがいるの?」セレスはマジマジと迷夢を見詰めた。「そこまで掴み所がなくて自己中心的なキミに友達がいるの?」懐疑的にセレスは問う。
「いちゃ、ダメだって言うの。エルフの子猫ちゃん、その二」
「いても構わないんだけど、なぁ〜んか釈然としないものが……ね?」
「――シェラさんは迷夢の提案で問題ありませんか?」
 セレスに振られた話のボールを遙かに蹴飛ばして、デュレはシェラに伺いを立てた。
「そうですね……。わたしに出来ることはもう何もありませんし、いても足手まといになるばかりでしょうしね」少し淋しそうにシェラは言う。「お言葉に甘えて、迷夢のお知り合いにお世話になりましょうか?」
「じゃ、決まりね」迷夢は嬉々として言う。「あたしはシェラをアイネスタに送り届けたら、自分の魔法の支度を始めるね。マーカーは六本用意して、六芒星になるようにマーキングする。この前みたいに四角く括るには扱う魔力が大きすぎるから……。けど、ま、それはいいや。他のこと、さっさと決めて。行動しましょ」にやり。「相手にこっちの動きを悟らせないためには、可能な限り迅速な行動が要求されるのよ。マリスの思惑の先へ、先へといってやる」
「そうしたら、楽勝だっ! と、お前は言いたいんだろうけどな」ため息。
「そうよ。そうに決まってるじゃない」キョトン。「ど〜せ、予測し得ない最悪の事態になるに決まってるじゃん。だったら、せめて今くらいは勝った気でいたいでしょ?」
 デュレにもその気持ちは判った。勝ち目のない戦いだからこそ、勝てると信じたい。
「そいで、あたしとデュレと、リボンちゃんはどうするわけ?」
「三人一緒に大聖堂の地下へ向かいます」真剣な眼差しでセレスを見詰めた。
「妥当な線だな。万一、職務質問されたらオレが噛みついてやるよ」
「では、行きますよ。――途中、見とがめられないことを祈ってください」
 先ほどの件もあったので、デュレはドアを開ける前に耳を澄ませて外の様子を窺おうとした。
「そんなの気にしてたって意味ないって」迷夢はシェラを抱っこして大股でデュレの前を通り過ぎ、ドアを躊躇いなしに大きく開いた。「どんなに注意したって見付かる時は見付かるし、どんなにずぼらに歩いていても見付からない時は見付からないものなのよ」
「で、でも、どんなときでも、細心の注意を払っておかないと……」
 迷夢の思わぬ大胆発言にデュレは度肝を抜かれて、狼狽えてしまう。
「後悔はしない♪ 三百年生きてりゃ判るって」ニン。
「それが迷夢の人生訓ってワケか?」リボンは言う。
「うん、そう」迷夢はケロッとして言った。「さっきも言ったでしょ。無駄な努力はしないのよ、あたし。必要最小限度で最大の効果を求めるのよ。判る?」
 迷夢は瞳をキラリと煌めかせて、一同を見やると、シェラを連れたまま翼を広げ、そのまま目的地・アイネスタに向けて飛び立った。
「……大丈夫なの? あれ?」
 セレスは飛んでいった迷夢の軌跡を目で追い掛けてポツンと呟いた。
「大丈夫だろ、多分。……何度も死にそうな目に遭ってるからな、迷夢も。その中からあいつはあいつなりに得るものがあったんだろうさ。……あいつは信頼できる。――そのはずだ。ほら、いつまでもぼーっと突っ立っていないで、行くぞ。マリスを出し抜くんだろう?」
 リボンはタタタンとデュレの足下に駆け寄ると、ちょろっとデュレを見上げ発言した。そして、リボンは付いてこいと言わんばかりの仄かな温かさを湛えた微笑みを見せ、サムの家を後にする。
「デュレ、ぽーっとしてないで行くよ」
 セレスはデュレの肩を軽くポンと叩くと、自らもリボンの後を追った。

 そこは森にある小屋だった。バッシュは怪鳥・ティアスの背中に乗って遠路はるばるエルフの森まで出張してきた。リボンの話ではここにバッシュのシリアがいるのだという。時間がどうだとか、シリアが二頭いるだとか。突拍子のないことを突然言われてバッシュの頭は混乱の最中にあった。
 しかし、バッシュはここにいる。小屋の前で躊躇いを感じながら。
 すると、バッシュが来たことを悟ったかのようにドアが開き、緑色の装束を身にまとった女が姿を現した。その女は暫くの間、バッシュを凝視し、そして、言った。
「あなたが来るのを待っていました」
「あたしが来るのを待っていた?」バッシュは訝しげに問い返す。
「ええ……」女は目を閉じて、そっと頷いた。「奥へ、シリアくんが待っています」
 そう言って、女は踵を返し、バッシュを奥へと促した。
「……あなたがジーゼ? 森の精霊……ドライアード」
「そうです」ジーゼは短く答えた。「さあ――」
「あ……? ああ」バッシュは幾ばくかの心許なさを感じながらジーゼに従った。
 バッシュはジーゼに導かれるままに家の奥へと進んだ。木造のこぢんまりとした質素な家だ。玄関を入るとすぐに居間らしき大きな部屋に出る。ちょうど反対側に火の焚かれていない暖炉があり、向かって右側に毛足の長い丸い形の絨毯が敷かれていた。そして、そこには包帯をぐるぐる巻かれたシリアが丸くなって収まっていた。
「……シリアくん。バッシュが来ましたよ」
 ジーゼの声にシリアはピクリと耳をふるわせて、顔を上げた。
「シリア……」
 シリアのあまりに痛々しい姿にバッシュは言葉を詰まらせた。左手を口元に当て、哀しみとも苦しみとも似つかない感情を抑えようとしたが、涙が溢れ出して止まらない。
「どうしたんだ、バッシュ。泣くなんて、らしくない……」
 バッシュはただ見ていることに耐えきれなくなったのかシリアの元に駆け寄り、出来るだけシリアの身体に負担をかけないように首筋にそっと抱きついた。
「シリア……。レイアにやられたと言うのは本当なのか?」
 その問いかけに素直に答えるべきか、シリアは迷った。無論、シリアはシメオンにいるいわば別働隊に“自分”がいることは知っていたし、起こりうることも自分自身からきいて一応、理解したつもりにはなっていた。けど、バッシュが訪ねてくるのは予測に入っていなかった。
「――残念ながら、本当さ。あいつは最初から、そのつもりだったんだ。裏切っていた。一族を消し、シェイラルの一族の伝えてきた物を全て自分の手にするために……」
「判った……。レイアはあたしが始末する」即決。
「――レイアを紹介したのはお前だったな。責任を感じるのは判る。……だが、やめておけ。レイアにはマリスやレイヴンがついている。――返り討ちにされるのが関の山だ。……セレスと一緒に居たんだろ。ずっと、これから……」
「お前にはそんなことを一言も話した覚えはない」バッシュはきつく言う。
「だが、あいつには話したんだろ。知らないわけはない。あいつはオレなんだから」
 二人は互いの意志を推し量るかのように瞳の奥底を見つめ合った。
「しかし、レイアを始末するのはあたしの役目だ。放置は出来ない」
「何故、お前の役目だと思う?」シリアは問う。
「古い馴染みなんだよ。レイアが子供の頃からずっと知ってる。それを気が付けなかったのはあたしの責任だ。……他人には裁かせない。無邪気な笑顔、泣き顔、その仕草……。レイアの全てをあたしは知ってるつもりでいた。けど、思い上がりだったな……」
 バッシュはフッと儚い笑みを浮かべると、すっとシリアの前から立ち上がった。
「どうしても、行くのか?」
「ああ。お前が……、お前たちが何を杞憂してるのかは判る。けどな」
「いや、お前は知らない。何も知っていない。知ったつもりになってるだけだ」
「……お前は隠し事が下手なんだよ……。二百年経っても変わらなかったんだな――。だから、判らなかった。お前は何も変わっちゃいない」
 ここ数日、行動を共にしたリボンのことを思い出しつつ、バッシュは呟いた。
「行くな、バッシュ」バッシュの言葉を遮るかのようにシリアは叫ぶ。「ゼフィがいなくなって、オレの前からみんながいなくなっていく中で、お前は――。お前はようやく見つけた安らぎなんだ。放したくない。バッシュを放したくないっ!」本気の思いをバッシュにぶつける。
 去りゆこうとしたバッシュはシリアの思いの前に立ちつくした。
「あたしもシリアくんが大好きだよ。キミがいたから、色んなことが出来た。久須那との腕試しも楽しかった。キミと共に過ごした時間、キミと一緒に見た未来の夢。どれもみんな、大切な思い出なんだ。その果てにそれがあるというなら、甘んじて受け入れる他ないだろ?」
「そんな必要はない。オレと共に……。アルタが戻るまで、それでもいいから……」
 シリアも瞳に涙をためていた。バッシュの意志は固く、シリアの思い通りにならないことは判っている。それでもなお、シリアは食い下がりたい。
「聞いてるんだろ。……自分から。知ってるんだろ、どうにも出来ないことをっ! お前の見た予兆の中にあるんだろ? だったら、黙って見送れ! それ以上、何も言うな」
 シリアに背を向けたバッシュの背中から淋しさがにじみ出していた。
「どうして。お前なんだ。何故、オレじゃない。どうして、このオレじゃないっ!」
「シリアくん、興奮したら傷に障りますよ」
 傍らで二人のやりとりを聞いていたジーゼが口を挟んだ。
「オレはお前を失いたくない。ゼフィの二の舞はイヤだ。指をくわえて眺めてるだけなんて」
 シリアの思いをきき、バッシュは肩の力を抜いた。一転した優しい声色でシリアに話しかける。
「――シリアは大丈夫だよ。キミは一人で歩いていける。だって、証明されてるじゃないか。キミは乗り越えて、ここに帰ってくる……。また、その時にあたしたちは会える。だから……」
 バッシュはそこで話を切り上げようとして、シリアに気付かれないようにジーゼに目配せした。ジーゼはバッシュの合図に気が付くと、近くに椅子にかけてあった毛布を持ってシリアの前に膝をついた。そして、ゆらゆら動く尻尾の方から毛布を掛けた。
「シリアくん、そろそろ身体を休めないと……」
 シリアは頑として譲らずに立ち上がろうとして、踏ん張った。しかし、足に力が入らずに立てない。レイアにやられた傷は癒えていず、動こうとする度に全身を貫くような痛みが走った。
「いい加減になさいっ」ジーゼはシリアの頭から毛布を被せて、無理矢理に床に押しつけた。「バッシュ、早く行ってください。この子、言い出したらきかないんです」
「コラ、ジーゼ。出せ。オレは行くんだ。オレは――」
「さよなら、シリアくん」
 バッシュは去り際、肩越しに毛布にくるまれてもがいているシリアを見た。本当はそう言う話をするつもりはなかったのに、普通に話して、普通に明日の約束をして、また明日と挨拶を出来たら、それだけでよかったはずなのに……。けど、バッシュは知っていた。セレスたちの道を切り開くために自分にしなければならないことがあることを。