12の精霊核

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13. my dearest you(とっても大事なキミと)

 パシャパシャッ。雨は未だに降り止まなかった。昨夜よりも落ち着いたと言ってもまだ激しい降りには変わりなく、旅人たちの足を急がせた。
「ジーゼ。無理しなくていいからね。具合が悪かったら……」
 ジーゼを気遣って申は言う。ウンディーネの欠けらがジーゼをどれだけ支えられるのか判らず、ジーゼのためには少しでも森に近づくことが一番と半ば無理を押してアルケミスタを後にした。
「大丈夫……。エルダの欠けらが守ってくれるから」ジーゼはふるふると首を横に振った。
「エルダ?」聞いたことのない名に申は驚いた。
「ウンディーネの名前。アルケミスタの人はみんなそう呼んでたって」
「ふ〜ん、そうなんだ……」
 それから、沈黙。アルケミスタをたって以来、短い言葉のやり取りと沈黙の繰り返しだった。二人の間に絶えずあったのはパシャパシャと水の跳ねる音ばかり。ジーゼに会ってからの二日間に話し方を忘れてしまったかのようだった。そんな気まずい雰囲気が長く続くと、申はあの夜以来姿を見せないちゃっきーがいてくれれば思う。
“テレネンセス、すぐそこ”と、朽ちかけた木製の看板が目に入った。
「テレネンセス……エスメラルダ古語で“遠い思い出”って言うの」
 ジーゼはその看板に興味を引かれたかのように立ち止まった。
「遠い思い出?」休むことなく足を進めて申は言った。「あ! ジーゼ」申はジーゼが傍らにいなくなったことに気がついて戻ってきた。ジーゼは看板を見たまま思いに耽っていた。

『あはっ! あはは! ジーゼ、こっちだよ。早く早くぅ』
『待ちなさい。イクシオン。悪い子にはお仕置きですからねっ』
『へ〜ん。捕まんないよ〜だ。わぁ。蔦なんてずるいぞ、ジーゼ』
『ずるいもヘチマもありません!』

「ジーゼ? ジーゼ、どうしたの?」心配そうな申の瞳がジーゼを覗き込んだ。
「あ、ううん。何でもないよ。昔をちょっと思い出しただけだから」
 ジーゼの思い出す過去とはどんなだろうと申は思った。自分の生まれるずっと昔からのリテールを知っているジーゼの思い出はどんななのだろう。
「昔かぁ……」手を後に組んで、思い出すのは師匠とサラフィの寺院で過ごした修業の日々。
 退魔の「いろは」を仕込まれ、辛い思いや楽しかった思い出の日。いやでも、どんな楽しかったことよりも今はジーゼと共に過ごした二日ほどが何よりも輝いて見えていた。
「遠い思い出……」
 そう呟き、ホンの少しだけ進むと二人の目指す街並みが目に届いた。
 灰色に沈んだ街が自分たちを呼んでる。街の入り口に立ち尽くして申は思った。街道筋からつながるメインストリート。その両翼に広がる町並みがまるで両手を広げて迎えてくれてるような錯覚に捕らわれた。淋しさに溢れた天使の抱擁? アルケミスタに着いたときにはそんな感慨など一つも湧かなかったのに。
 雨降りに人出も少なく、ひっそりととっても侘しい佇まいが申の胸に迫っていた。申の幾度か見た天使の襲撃で滅んだ街より、無惨な残骸を晒した廃虚よりも儚く切ない。
「申……」ジーゼがギュッと申の手を握った。
「ど? ど〜したの? ジーゼ」やっぱり、申はドギマギして声が裏返ってしまった。
「怖い……の」ジーゼは俯き呟いた。
「……?」
「この街は知ってるの。自分に未来がないことを知っている。だから、泣いてる……?」
 そう言われて、申は改めて街を見渡した。けれど、申にはジーゼが何を言いたいのか良く判らなかった。そこはどう見ても申にはただの雨降りに人通りの少ないフツーの街だったから。
「人には判らない」ジーゼは涙に潤んだ瞳を申に向けた。
「人には判らない?」おうむ返しになってしまった。
「ううん。でも、それが確実ってワケじゃないから。きっと、変わる」
 結局、申は半信半疑のままで先を急いだ。雨が上がれば、ジーゼの予感は杞憂に終わる。と申は思っていた。数千人も暮らす街に唐突な“死”が訪れていいはずがなかった。それに血も涙もないと聞いた天使兵団でも、異端の街でもないところを前触れもなしに潰せるはずがない。
「それは違うよ。申」
「え?」自分の考えたことが見透かされたことにドキッとして申は言葉に詰まった。
「――協会の天使は違う。天使の造形を持ったただのお人形さん……だって。天使の力を持った善悪の判定基準を持たない傀儡なんだって……」
「だったら、そいつらは俺が相手してやるさ」
 そう言うとジーゼは申の手を握ったまま俯いて力なくふるふると首を横に振った。それから、二人は手をつないだまま妙にしんみりしてメインストリートを歩き続けた。
 と、宿兼軽食屋の看板を掲げた小粋な店を発見して、そこで申は少々早めの夕食でも取ろうかと考えた。カッパや傘だけでは雨を完全に防げるはずもなく、身体中のあちこちが湿気ったりびしょぬれになったりしていていささか気持ちが悪かった。だから、できればお風呂とふかふかのタオルを借りてすっきりとしたい。
「すんません、あの〜、何でもいいですから温かいものを……。身体、冷えちゃって……」
 ちょっぴり控えめに申は言う。すると、ジーゼのいつか見たサム似のおに〜さんが食器洗いの手を休めて答えてくれた。
「紅茶でいいのかい?」
「あ、もうホントに何でも……」遠慮しながら申は言う。「ジーゼ。ジーゼ、早く。外にいたら風邪引くぜ。雨降りってだけで今日はやけに寒いよなぁ」
「いや、その様子だと先に風呂だな。ちょっと待ってな」と言ってお兄さんは姿を消した。
「……? どうしたの、ジーゼ。突っ立ったまま」
 扉の外からなかなか入ってこないジーゼを呼んで申は振り返る。
「ここでシェイラル司祭と会った」ついでにげっそりする悪夢のような出来事も思い出したけれど、それは頭を振って思考の外に追いだそうとした。「そして、わたしは約束も果たせないまま」
「ジーゼ、そんな、考え過ぎだよ。仕方がなかったんだ。身体を休めてまた……」
「わたしが来れるのはここまでなんだね。一人じゃ遠くへ行けない。……今度は、申がいたから、わたし、ここまで戻ってこられた。そうでなかったら、わたし、アルケミスタできっと」
 気がつけば、ジーゼはボロボロと涙を零しながら申を見詰めていた。
「わたしはここから遠くへは行けない……」
 判りきったことだったはずなのに、今更どうしてこんなに哀しいんだろう。エルフの森に生まれてもう数百年になるというのにこんな思いをしたのは初めてのことだった。
「ジ、ジーゼ? あの、泣かないで、急に、何があったの?」
 目の前で女の子に泣かれたことなんかなかったから申はただただうろたえるばかりだった。慰めの言葉を思いつかずに申はオロオロとジーゼの周りを右往左往するばかり。女の子を泣かせるなんてひどいやつだと言わんばかりの周囲の視線も突き刺さり、申も泣きたい衝動に駆られる始末。情けないやら、格好悪いやらで困り果てた。と、そこにあれ? どこかで見たような小さな影がちょこちょことよってきたかと思うと……。
「あ〜、申ちゃま。ようやく来たの? じっと待ってたらおなか空いちゃった♪」
 聞き慣れた、変にあどけない声が聞こえた。
「……? およ? ほほほ。てめぇ、おいらのジーゼちゃまを泣かすたぁいい度胸だぁ!」
「だぁれがちゃっきーのものですって?」
 さっき泣いたカラスがもう怒ってちゃっきーにいつもの鉄拳を喰らわせていた。
「ぐぅ……。ジーゼちゃまって意外と立ち直りが早かったのねぇ……」
「おう、何だか知らないけど、ずいぶんと威勢がいいね。ま、風呂、空いてるから入っておいで。いちおー男と女は別々だからね。ホラ、タオルだ」
「そ、そんなこと言われなくても判っていますよ!」うろたえて真っ赤になりながら申は言う。
「あはは、本気にしちゃいけない」
「〜〜」はめられた。そんな気がしないでもないけれど、異論もでない。もう、真っ赤っかで頭の上から湯が上ってきそうな案配だ。そこへちゃっきーが椅子の脚からよじ登ってテーブルののっかたうえに申の頭にちょんと飛び乗った。
「ね〜、そんでさぁ。おいらはやっぱ、女湯でいいんだよねぇ?」にま〜っとする。
「ちゃ、ちゃっきー! お前は俺と一緒だ!」
「え〜。男と一緒なんてちゅまな〜い……」
「つべこべ言うなよ!」と言って、申はちゃっきーの頭をむんずと掴まえてそのままぶらぶらとさせながら浴場まで運んでいってしまった。
「照れちゃって……。可愛いね。――白馬の王子、代理さま♪」ジーゼはにこりと微笑んだ。

 そして、申は浴場に辿り着いて、入るなりそのまま湯船にぶくぶくと身を沈めた。さっきのことは照れくさかった。けれど、それもいい思い出になるのに違いない。ジーゼは天使が来ると言っていた。としたら、ここから先に和気藹々の平穏な旅なんてあり得ない。
 ちゃっぽ〜ん。お湯の吹き出し口に乗ったちゃっきーが湯船にダイビング。
「ぷ〜、ねぇん、申ちゃま。そぉんな深刻な顔してたらせっかくの可愛らしさが台無しよ〜ん♪」
「うるさいよ、お前……。でも、しばらく見ないと思ったら、こんなところにいたんだなぁ」
「うん、おねぇ。そらぁ、千里眼のおいらにゃ、お見通しって訳でさぁ」
「ふ〜ん、千里眼ねぇ」申は訝しげにちゃっきーを見詰めた。「一寸眼くらいじゃないの?」
「つまり、チミはおいらが目先のことしか見てねぇっていいたんだねぇ。ノンノン! おいらの灰色の脳細胞は宇宙の彼方の見果てぬ夢まで全て見透かすことができるのだよ!」
「ウソをつ・く・な!」申はちゃっきーにデコピンを喰らわせた。
「いて! よくもやったなぁ〜。喰らえっ! ちゃっきースーパーキック!」
 けど、飛距離が足りなくてそのまま湯船にちゃぷんと落ちた。
「なぁにやってるんだ?」と、急に憂鬱そうに申は言った。「はぁぁ。――ちゃっきーはお気楽でいいよなぁ」
「あ〜い? 命短し恋せよ乙女のおはなちですかぁ?」キョトンとした様子でオメメをぱちぱちさせて申を見つめる。「へっ! む〜りむ〜りぃ。哀しいかな愛しのジーゼちゃまにはオリジナル白馬のナイトさまがいらっしゃるのだ。チミは所詮、だ・い・り♪ フェイクなのだよ」
「……なぁ、ちゃっきー、その言葉、とっても的を射てると思うんだけど、何か腹立つんだよね」
 申は近くにあった窓をがらがらと開けて、自分は水に濡れていない床に逃れていく。
「ねぇ、ねぇ、申ちゃまぁは何の準備を始めたのかにゃぁ?」
「うん? まあ、そお慌てるなって。あ、動かないでじっとしてて」
 ちゃっきーはワクワクに目を爛々と煌めかせて申を見つめていた。
「さてと――」申は準備万端と思わずにんまり。「一度、ジーゼのまねをしてみたかったんだ!」
 窓の外に一瞬間だけ、キラッとした輝きが見えた。それから、ちゃっきーは身の毛のよだつような静電気を感じた。もう、何がくるのか百パーセントの確証がちゃっきーにはあった。
「あ、やっぱり? だったら、おいら一人にゃもったいねぇ〜。てめぇも巻き添えだぁ」
 と言いつつ、ジーゼと行動を共にするようになってからこんな展開には慣れたものなのか、ちゃっきーは結構楽しんでいるだった。浴槽の縁から水を滴らせながらの大ジャンプ。申の魔法はちゃっきーを標的に選んでいたから、さあ大変。
「うわ! ちゃっきー! こっちに来るんじゃない」
「もお、手遅れでさぁ。旦那さま♪」
 ちゅど〜ん。バチバチ。水場だっただけに、普通の草地などよりも電撃の被害は甚大だった。失敗したと思うもすでに後の祭り。申の放った雷撃は的を選ばずに二人に向かって直撃した。
「……ちゃっきー」定まらない視線をちゃっきーに向けて申は言った。
「何れすか? 思慮深き旦那しゃま〜」
「出るよ……。もお、こんなのこりごりだ」
「Yes Sir……。おいらもこんなん冗談じゃないや!」
 と言いながら、ちゃっきーは申の頭の上に乗っかった。どうもそこがお気にらしい。
「はは。珍しく気があったね、ちゃっきー」
「へ〜。おいらの予想じゃ、最初で最後、一世一代限りの大いなる奇跡ですな」
「そんなものですかね?」
「そんなものなのですよぉ」
 おかしな口調で語り合い、初めての親近感を感じながら申とちゃっきーが食堂に現れた。
「……あの、申とちゃっきーはどおして真っ黒けっけなのかしら……ね?」
 すると、ジーゼが浴場からそろって出てきた申とちゃっきーを見つけて言った。たかだか、一時間にも満たない間にこの人たちは何をやらかしたんだかと思う。だいたいの見当もつくから、呆れてしまってものも言えない。すると、ちゃっきーと申は顔を見合わせて思わず苦笑い。
「……?」ジーゼは訝しげに二人を見比べた。
「えへへぇ♪ 何でもごじゃいませんのよ、ジーゼちゃまぁ。ただちょぉっと、謎の珍奇な生き物同士、交流を深めていただけでぇ〜」同意を求めてちゃっきーの情けない目線が申を向く。
「俺は『珍奇な生き物』じゃない。お前と一緒にするなっ!」
「てへ。でも、そんなことより……」
 右手の指で頬を押さえて、小首を傾げて愛嬌を振りまく。それから、ちゃっきーの鋭い視線がジーゼを突き刺す。ジーゼにはいやな気配を感じさせた。これはまずい。と思った瞬間にはちゃっきーの強気な発言がくっついてきた。
「ねぇっ! ジーゼちゃまぁ。おなか減ったの〜。なんか食わせてぇ?」
「ダ、ダメですからね。お、お財布が……」
「でもでも〜。今日は新しいお財布がいらっしゃるからぁ♪」とにまぁ〜と申を見詰めた。
「ちゃっきーには俺は財布と同じなのな」
「Yes, Sir! 流石、物分かりが早い! さっすが、申ちゃま、ね」
「あのな〜」呆れた様子でうなじをぼりぼり。「俺の財布だって糸くずしか出てこね〜よ。少しは遠慮しろよな!」
「いやなこった〜い。てめぇはおいらの財布ちゃん♪ めし〜食わせろ〜!」
 申はちゃっきーの口上にすっかり元気をなくしてしまってしょんぼり。ついジーゼを見やるとそちらはそちらでウンザリしたような呆れてしまったような気重な表情をしていた。と言うことはおそらく、ジーゼもちゃっきーの駄々っ子ぶりを経験しているのだろう。
「あ〜もう、判ったよ。飯にしよう。それから、ジーゼ……明日……キミの言ったシェイラル司祭に会いに行ってみよう。ジーゼの森に帰る前に――」
 その後、炸裂したちゃっきーの食欲が申の財布の底まで食い尽くしたことは言うまでもない。